刷り込み
次の日。
表向きは、何もなかったかのように振る舞った。
教室に入れば、いつものように笑顔を貼りつけ、席に座る。
周りのクラスメイトも、昨日のことなど知らない顔で談笑している。
――普通の日常。
そのはずなのに、わたしの胸の奥では、昨日の音がまだ鳴り響いていた。
舌に残る冷たさ、耳に焼き付いたぬめる音。
それらが、笑顔の裏でわたしを締めつける。
「美羽、ほんとに大丈夫なの?」
恵が心配そうに声を掛けてくる。
「……うん、大丈夫だよ」
わたしは笑顔を作り、何でもないふりをした。
でも、その笑顔は頬の筋肉を無理やり引き上げただけで、心の奥では崩れかけていた。
恵はじっとわたしを見つめる。
その視線が、昨日のことを見透かしているようで怖かった。
「無理してない?」
「してないよ。ほんとに」
言葉を重ねるほど、胸の奥で昨日の音が蘇る。
静まり返った教室に響いた、あのぬめる音。舌に残る冷たさ。
――忘れたいのに、忘れられないあの時のこと。
恵の優しさが、逆に痛かった。
もしここで泣いてしまったら、全部が壊れてしまう。
だから、わたしはただ笑顔を貼りつけて、視線を逸らした。
「わたしは美羽の親友だから、何かあったら頼ってよ」
「うん……ありがと」
本当に、恵には感謝してる。だけど、頼ることは出来ないんだ。
ごめん。こんな言葉で済ますのは駄目だと分かっているけど、そうとしか言いようが無いんだ。
チャイムが鳴り、授業が始まっていく。
先生の声が教室に響き、白板にペンの音が走る。
クラスメイトたちはノートを開き、ペンを走らせ、当たり前のように日常を続けていた。
――普通の時間。
そのはずなのに、わたしには息苦しくて仕方がなかった。
昨日の音が、耳の奥で何度も蘇る。
舌に残る冷たさが、今も消えずにまとわりついている。
先生の声も、チョークの音も、すべてがその記憶を覆い隠してくれない。
ノートに文字を書こうとするけれど、ペン先が震えて、線が歪んでいく。
隣の席から聞こえる笑い声が、胸を締めつける。
――誰も知らない。
昨日のわたしを、誰も知らない。その事実が、逆にわたしを追い詰めていく。
言えない。でも、助けを求めたい。
知られたくない。でも、気付いてほしい。
みんなには何事も無く日々を暮らしてほしい。でも、誰かわたしの現状に気付いて、手を差し伸べてほしい。
相反する感情が螺旋のように渦を巻き、心は矛盾に押し潰されそうになる。
時間は無慈悲に流れ続け、わたしの心は、刻一刻と追い詰められていった。
そして――。
『昼休み、わかってるよね?』
紅葉のひび割れたガラケーから届いた短い文字列は、わたしの胸を一瞬で締めつけた。
――――――――――――――――――――
「美羽、いい子だね。素直にここに来るなんて」
昼休み。
いつもの校舎裏で、彼女たちは待っていた。
「はい、出して」
「……うん」
そして、紅葉はわざとらしく笑みを浮かべながら、手を差し伸べてきた。
何を要求しているのかはわかっている。きっと、彼女は昨日と同じようにわたしの弁当を奪って捨てようとしているのだろう。
けれど、わたしはその要望に抗うことすら出来ず、震える手で弁当箱を差し出した。
その仕草は、まるで自分の尊厳を差し出すようで、胸の奥が痛んだ。
「アハハッ! 神崎、昨日何したの? コイツ、くっそ従順になってるじゃん」
そんなわたしの様子を見て、紅葉の取り巻きの一人が腹を抱えて笑い始める。
……うん、そうだ。わたしはもう、紅葉に逆らうことが出来ない。昨日の出来事は、それほどまでに大きかった。
「ははっ、昨日はいろいろあってね。それで、今日も弁当は愛しいお母さまが作ったの?」
「う、うん」
「へぇ、そうなんだ」
その言葉と同時に、弁当の中に入っていた複数の色が、地面に落とされていく。
昨日と同じ光景……確かに心は痛んでいたけど、昨日よりかはずっと楽で――そんな自分が、嫌いになる。
「まぁまぁ、そんな顔しないでよ。今日は、代わりの食べ物を持ってきたんだから」
紅葉が、とある袋を渡してくる。
その中には、生のキャベツの芯や茹でられた大根の葉、ブロッコリーの茎などがあった。
「これは……?」
「今日の美羽のお昼ご飯だよ。ほら、栄養価があるでしょ?」
紅葉はわざとらしく笑いながら、袋を押しつけてくる。
キャベツの芯、大根の葉、ブロッコリーの茎――。
どれも食べ物のはずなのに、わたしにはただの残骸にしか見えなかった。
「……これを、食べろっていうの?」
「うん、美羽のお母さまの弁当より、ずっとマシでしょ。……あんな汚物に比べたらね」
汚物――お母さんが毎朝、眠い目をこすりながら作ってくれる弁当を、紅葉はそう呼んだ。
本当なら、今すぐその言葉を否定したい。でも、わたしの心は紅葉に支配されており、言い返すことすら出来ない。
「なに、その目? 反抗する気?」
「……い、や。そうじゃ、ない」
「なら、さっさと食べなよ」
わたしは袋を見つめたまま、喉が詰まるように息が止まった。
キャベツの芯も、大根の葉も、ブロッコリーの茎も――全部、母が作ってくれた弁当とは比べものにならない残骸だった。
「……いただきます」
小さな声で呟き、震える手で袋の中に指を伸ばす。
口に入れた瞬間、繊維の硬さと青臭さが広がり、涙が滲んだ。
それらの食べ物は味付けすらされておらず、中には火にすら通していない物もある。
――お母さん、ごめん。ごめん。あれだけ頑張って作ってる弁当を守れなくてごめんなさい。
わたしの心の中は、罪悪感と自己嫌悪でぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
昨日より楽だと思った自分が嫌いで、母の弁当を汚物と呼ばれても、何も言い返せない自分はもっと嫌いだった。
噛みしめるたびに、青臭さが口いっぱいに広がり、涙が止まらなくなる。
それでも、紅葉の前では泣き顔を見せられない。
必死に唇を噛みしめ、笑顔を貼りつける。
「よかった。涙が出るほどおいしかったんだ。これからも、毎日作ってあげるから楽しみにしててね。わたしがこんなことをするのは美羽だけ……本当に特別なんだよ」
「……あり、がとう」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
本当は感謝なんてしていない。けれど、紅葉の前ではそう言うしかなかった。
「はははっ、感謝しなくていいよ。美羽は、私の大事な大事なおもちゃなんだから、大切にするのは当然じゃない?」
紅葉の声は甘く響いていたけれど、その響きはわたしの胸を冷たく締めつけた。
「ねぇ、笑おうよ。ほらっ」
紅葉が、わたしの足を踏みつけ、少しずつ体重をかけてくる。
「いたっ」
「ほら、早く。私の前ではいつも笑っていなきゃダメなんだよ」
紅葉の声は甘い鎖のように絡みつき、逃げ場を奪っていく。
けれど、足の痛みはどんどん増していき、胸の奥まで響いてくるようだった。
――笑わなきゃ。
そう思えば思うほど、頬の筋肉は硬直して動かない。
涙が込み上げてくるのに、必死に唇を引き上げる。
しかし――。
「ふざけているの」
氷のような紅葉の呟きと共に、腹部に激しい衝撃が走った。
息が詰まり、視界が揺れる。
「……っ」
声にならない声が漏れる。
けれど、紅葉はそんなわたしに見向きもしない。
「美羽、私は笑顔になってって言ったでしょ。そんな不細工な変顔をしてとは言ってないよ。美羽は、私の言うことが聞けないの?」
「ち、ちがっ。そんなつもりじゃ……」
「言い訳はいいから、さっさと笑顔になりな」
紅葉がわたしの頭を掴みながら、強引に顔を持ち上げさせる。
視線が絡み合い、逃げ場はどこにもなかった。
「ほら、笑って。私の前ではいつも笑顔じゃなきゃダメなんだよ」
そう言われて、今できる最大限の笑顔を作った。
目には涙が溜まり、口物は震えていたけど、必死に形だけの笑顔を作った。
「良い子いい子、その調子。美羽は私の言うことを聞いていればいいんだよ」
紅葉がわたしの体を包み込み、耳元で甘く囁いていく。
紅葉の腕に包まれる感覚は、優しさのようでいて、冷たい檻のようであり、耳元で囁かれた甘い言葉は、毒のようにじわじわと染み込んでいく。
「はい、復唱」
紅葉の声は甘く響きながらも、逃げ場のない命令として胸に突き刺さった。
「……わたしは、神崎さんの……言うことを、聞いていれば。いい」
震える声で言葉を繰り返す。涙が滲んで視界が揺れるのに、紅葉の前では笑顔を崩せない。
「もう一回」
「わたしは、神崎さんの言うことを、聞いていればいい」
一回目は、途切れ途切れでスムーズに進むことが出来なかったはずなのに、二回目では言葉が自然に口から零れ落ちていた。
まるで自分の意思ではなく、紅葉の声に操られているかのように。
「そうそう、それでいい。美羽は私のもの。私だけの特別なんだよ」
紅葉は満足げに微笑み、わたしの頬に指を添える。
その仕草は優しさを装っているのに、心の奥では冷たい鎖となって絡みついていた。
「この手に収まっている小さな顔も、この綺麗な瞳も、このしっとりしていて白く輝いている肌も、全部ぜーんぶ、私の物。わかった?」
「……う、ん」
了承してはいけない。なのに、拒めない。
紅葉の目は黒く濁っていて、底知れぬ闇を湛えていた。その瞳に映るわたしは、もう自分ではなく、紅葉の所有物にすぎない。
「良い子だね、美羽。全部私の物だって、ちゃんと理解できたんだね。それなら……もう、そのすべてを誰にも触らせないよね?」
「……うん」
声は震え、喉の奥でかすれていた。
了承してはいけないのに、拒む力はもう残っていなかった。
「そうだよね。美羽は私のもの。誰にも触れさせない、誰にも渡さない」
紅葉の囁きは甘く柔らかいのに、心の奥では冷たい鎖となって絡みついていく。
その言葉に頷くたび、わたしの中で何かが崩れていく。
母の弁当を守れなかった罪悪感も、昨日より楽だと思った自己嫌悪も、すべてが重なり合い、わたしを押し潰していった。
「美羽は私だけを見て、私だけのために笑って、私だけのために生きるんだよ」
耳元で囁かれたその声は、甘美でありながら毒のようにじわじわと染み込んでいく。
――逃げられない。
わたしはただ、歪んだ笑顔を貼りつけ、小さく頷くしかなかった。




