屈服
「美羽、また明日ね!」
「うん、また明日」
十月の夕方は、少しだけ肌寒く、頬をかすめる風がわたしの心まで冷たくした。
昇降口を出ると、校庭は夕焼けに染まり、赤い光が長い影を伸ばしている。その景色は綺麗なはずなのに、わたしにはただ不気味に見えた。
(だって……)
「美羽、こっちに来なよ」
その声は、夕焼けに溶けるように柔らかかった。
でも、耳に届いた瞬間、背筋が冷たくなる。心臓が一度、大きく跳ねて、次の鼓動がやけに遅く感じた。
振り向くと、紅葉が立っていた。
夕陽を背にしているのに、その笑顔は光を拒むように暗く沈んでいて、その目が、わたしを逃がさない。
「どうしたの? 立ち止まって。私の言うことを聞かないと、どうなるのかわかっているんだよね」
「……うん」
恐る恐る紅葉の後をついていく。
向かう先は、誰もいない教室。放課後の教室は、昼間の喧騒が嘘みたいに静まり返っていて、机と椅子の影が長く伸びていた。窓際のカーテンが風に揺れるたび、夕陽がちらついて、まるで何かが潜んでいるみたいに見える。
「ここなら、誰にも邪魔されないよね」
「……あの二人はいないんだね」
「うん、部活だからね」
そうして、紅葉はわたしのほうに一歩近づく。
「ねぇ」
その一言が、やけに重く響いた。紅葉の声は、さっきまでの柔らかさを失っていて、低く、深く、わたしの胸に沈んでいく。
「いつになったら、壊れてくれるの?」
紅葉は、優しく手を伸ばして、わたしの頬を撫でてくる。
その仕草は、宝物を扱うように丁寧で、優しささえ感じるのに――どうしてこんなに怖いんだろう。
指先が頬をなぞるたび、わたしの心臓は痛いほど速く打って、息が詰まりそうになる。
「こわ、れる……?」
「うん。私はね、美羽に思いっきり壊れてほしいんだ。生まれてからずっと築き上げて来た物を全て壊して、これまでの人生に意味は無かったんだって、絶望してほしい」
「何を言って……」
怖い。
今の紅葉を見て、わたしは心の奥でそう呟いた。
その笑顔は、優しさを装っているのに、どこか歪んでいて――まるで、わたしの世界を壊すことに喜びを感じているみたいだった。
「言葉通りの意味だよ。美羽には、今まで信じてきたことが全て信じれなくなって、他人に対して優しく接することが無駄だったんだなって理解してほしいってこと。ははっ、その時の美羽はどんな表情をするのかな? 本当に楽しみで、待ちきれないよ」
その言葉には、優しさなんてものは無く、あるのは嗜虐と――奇妙な執着。
紅葉の目は、わたしの反応を楽しむ獣のように光っていた。
「ほら、美羽がここまで頑張って耐えているのに、周りの人は誰も助けてくれないよ。ああ、可愛そうな美羽、美羽は友達の異変を察知すると、すぐに助けてあげているのに、友達は美羽のことを見ていないなんて! ほんと、失望するよね」
「く、狂ってる……」
わたしの声は震えていた。
紅葉は、そんな言葉さえ楽しむように、ゆっくりと笑った。
「狂ってる? そんなわけないでしょ。私はこんなにも正気なんだから。ねぇ。そう思うよね」
紅葉は、わたしの言葉を聞いて、歪んだ笑顔を浮かんでいる。
……そこには、昔の紅葉の面影はなく、それがただ悲しかった。
「……ねぇ、初めて会った時のこと、覚えてる?」
「覚えてるけど、それがどうしたの?」
紅葉は、わたしの言葉に首を傾げる。
「あの時の神崎さん……いいや、紅葉は優しくて、頼もしくて、温かかった。なのに、その次の日から人が変わったように冷たくなって、とうとう今みたいになった。なんで、こうなったの? わたしたちは、友達じゃなかった――いたっ!」
友達という言葉を言った瞬間、わたしの頬を撫でていた紅葉の手が、鋭く爪を立てた。
「友達?」
紅葉の、雰囲気が変わる。
「あははっ、まだ美羽はそんなこと思ってたんだ。……そんなの、もう昔のこと。今はもう、いじめる側といじめられる側でしかないんだからさ」
どんどん、どんどん紅葉の力が強くなっていく。
「い、いたいっ。やめてっ……」
「あっ、ごめんごめん。可愛い顔を傷つけちゃった。私は、美羽の身体を傷つけたいわけじゃないんだよ。これは本当だから、信じてくれる?」
「う、うん」
わたしの声は震えていた。
紅葉は、そんな反応さえ楽しむように、ゆっくりと笑った。
「やっぱり、美羽は優しいね。だからこそ、もっと壊したくなっちゃう」
そう言って、紅葉は椅子に座り、長い靴下を脱ぎ始めた。
「何、しているの?」
「準備だよ、ただの準備。まだ美羽の弱みを握ってなかったから」
紅葉はそう言って、わざとらしく靴下を脱ぎ、椅子に深く腰掛けた。
「え……何をするつもりなの?」
わたしの声は震えていた。
紅葉は足を組み替え、わざとゆっくりとわたしの方へ伸ばす。
「ほら、美羽。私の言うことをちゃんと聞いてくれるかどうか、試してみたいだけ」
そう、紅葉たちは、クラスメイト達の秘密を握ってはいたけど、わたし自身の弱みは握っていなかった。
弱みと言えば、水を掛けられてびしょぬれになっている姿くらいであり、それくらいであれば、不特定多数にばらまかれても、何とか耐えることが出来る。
「い、嫌だよ……」
「へぇ、クラスが崩壊するけど、それでもいいの?」
「それは……」
「ほら、さっさとしなよ」
紅葉は、古臭いガラケーをわたしのほうに向けている。
レンズの黒い穴が、まるでわたしの心を覗き込むように光っていた。
「……撮るの?」
わたしの声は震えていた。
「そう。美羽が従う姿をね。これを、美羽の両親に送るのもいいかなって思って」
「やめて!」
気づけば、わたしは紅葉のガラケーを叩いてしまっていた。
わたしが叩いたガラケーは、勢いそのままに紅葉の手から離れて、遠く離れた場所にガシャンと音を立てて落下する。
それと同時に、小さな破片が辺りに飛び散った。
「あーあ、私の一つしかない携帯機器が壊れちゃった」
「ご、ごめん……」
「ま、いいよ。優しい美羽なんだから、ちゃんとお詫びをしてくれるよね?」
紅葉は壊れたガラケーをちらりと見やり、わざとらしくため息をついた。
その仕草が、わたしの胸をさらに締めつける。
「……どうすればいいの?」
紅葉のガラケーを壊してしまった罪悪感と、これからしないといけないことに対する恐怖のせいで、わたしの声は震えていた。
「ま、私も優しいから、足を舐めるだけでいいよ。ほら、金銭的な要求をしないだけマシでしょ」
「……わ、わかった」
そうして、わたしは紅葉の冷たい足に舌を這わせる。
その行為は、ただの謝罪では無く、これからも紅葉に従うことの証明だった。
「どう? 楽しい?」
「……」
静まり返った教室に、ぬめるような音が微かに響く。
その音は、わたしの耳に突き刺さり、心臓の鼓動と重なって世界を狭く閉じ込めていく。
「ははっ、終わっていいよ。嫌でしょ、足を舐めるの」
「……」
紅葉は楽しそうに笑い、わざと軽い調子で言い放った。
わたしは答えられず、ただ小さく頷く。
舌に残る冷たさと、耳に焼き付いた音が、いつまでも消えてくれない。
「よしよし、いい子だね。美羽は。じゃあ、今日はこれまで、また明日」
紅葉が教室を出ていくと、静けさだけが残った。
わたしはその場に立ち尽くし、舌に残る冷たさと耳に焼き付いた音を思い返す。
気づけば、視界が滲んでいた。
頬を伝う涙は止められず、机の影に落ちていく。
「……どうして」
小さな声が漏れる。
誰もいない教室で、わたしの嗚咽だけが響いてく。
「誰か……助けて」




