どうして
昼休みは終わり、何事も無いように顔を整えて、教室へと戻って行った。
ざわめきと笑い声が広がる空間に、わたしの足音だけが妙に重く響く。
机に座り、弁当箱をそっとしまう。誰も気づかない。誰も知らない。
――わたしが、どんな顔でここに戻ってきたのか。
窓の外では、昼の光が穏やかに差し込んでいる。
その眩しさが、胸の奥で静かに軋む痛みをさらに際立たせていた。
「美羽、どこに行ってたの?」
振り向くと、恵が立っていた。
その笑顔は、いつも通りに見えるのに、わずかな影が差しているように感じた。
「……ちょっと、用事があって」
声が震えないように、必死に整える。
恵は首をかしげ、じっとわたしを見つめる。
その視線が、胸の奥を静かに刺す。
「あれ? お腹のところに土がついてない?」
恵の言葉に、心臓が一瞬止まりそうになる。
視線が自分の制服に落ちる。確かに、淡い汚れが残っていた。
その汚れが、わたしの秘密を暴こうとしているように見える。
「……あ、ちょっと転んじゃって」
笑顔を貼りつけながら、声を整える。
だって、いじめのことは隠し通さなければいけないから。たとえ親友の恵であっても、正直に言うことは出来ない。
「ふーん」
恵はそう口にしたけど、その目はわずかに揺れていた。何かを言いたそうで、でも言葉を選んでいるような沈黙が落ちる。
わたしは笑顔を貼りつけたまま、机の上に視線を落とす。
心臓の鼓動が、耳の奥でやけに大きく響いていた。
(……気づかないで。お願いだから、何も聞かないで)
恵は小さく息を吐き、やがて「じゃあ、また後でね」とだけ言って席に戻った。
その背中を見送りながら、わたしは指先に力を込める。
爪が肌に食い込むほど強く握りしめても、震えは止まらない。
――隠し通さなきゃ。
たとえ親友でも、このことだけは絶対に。
窓の外では、昼の光が穏やかに差し込んでいる。その眩しさが、胸の奥で静かに軋む痛みをさらに際立たせていた。
そして……。
「よくやったね。偉いよ」
紅葉がすれ違う瞬間、わたし以外には聞こえないほど小さな声で囁いた。
その言葉は、褒め言葉のはずなのに、背筋を冷たく撫でる刃のようだった。
わたしは何も返せない。ただ、机の端を強く握りしめる。
紅葉の足音が遠ざかるたび、胸の奥で軋む音が大きくなる。
(……これで終わりじゃない。まだ続く)
昼の光が窓から差し込み、教室のざわめきが耳に届く。
その普通の風景が、今は遠い世界のように感じられた。
――――――――――――――――――――――――
(どうして、こうなったんだろう?)
ノートにペンを走らせながら、頭の奥で問いが渦を巻く。
今の関係を知っている人には信じられないかもしれないけど、わたしと紅葉は友達だったんだ。……たった一日だけの。
あの日、紅葉は笑っていた。
『わたしは、白石美羽。これから三年間よろしくね』
『うん、私は神崎紅葉。これからよろしくね』
それが、唯一友人だった日――入学式の日に二人で交わした言葉だった。
その笑顔は、春の光みたいに柔らかかった。
わたしは思った――この子となら、きっと仲良くなれるって。
紅葉は、恵と逸れて迷子になったわたしを見つけて、迷わず声をかけてくれた。
『一人? よかったら、一緒に回らない?』
その言葉が、どれほど救いだったか。
広い校舎で、わたしは不安でいっぱいだったのに、紅葉の笑顔は春の光みたいに柔らかくて、胸の奥の緊張を溶かしてくれた。
でも、その日だけだった。
友達だと言ったはずなのに、次の日から紅葉はわたしを見なかった。まるで、最初から何もなかったみたいに。
どうして――? その答えは、今もわからない。
いや、それだけならまだマシだった。
そこから数か月たった後、紅葉からのいじめが始まったんだ。
今と同じように、クラスメイトたちの秘密を使ってわたしを脅して、何度も何度も、執拗に。
そこには、初めて会った時の笑顔はなく、氷のように冷たい瞳だけがあった。
紅葉は、わたしの机に置かれたノートを指先で弾き、わざと床に落とした。
「拾えば?」
その声には、過去の優しさなんてどこにもなかった。
その後も、嫌がらせは止まらなかった。
私物を壊され、親のことを侮辱する言葉が耳元で囁かれる。
でも、誰も気づかない。
紅葉のやり方は、人目に付くことを徹底的に避けていて、わたし自身が申告しない限り、誰にも気づかれることは無いだろう。
だから、このいじめから逃れる方法なんて無い。
もしかしたら、二年生になって他のクラスになったら、このいじめは終わるかもしれないけど、互いの成績から判断すると、そうなる可能性も低いだろう。
わたしは、これからも、ずっとずっと耐えるしかない。
逃げ場なんて、どこにもない。
(あの時の紅葉はどこに行ったの?)
……実は、いじめられている理由を他人に話せないのは、紅葉にクラスメイト達の秘密を握られているからだけではない。
紅葉とまた、友達になりたかったからだ。
馬鹿みたいだと思う。
あんなことをされて、泣かされて、壊されて――それでも、心の奥ではまだ、あの日の笑顔を探している。
入学式の日、わたしに向けてくれたあの柔らかい光を、もう一度見たいと思ってしまう。
(どうして、こんなふうになったの?)
問いは何度も胸の奥で反響するけれど、答えはどこにもない。




