紅葉と恵
「で、どうしたの?」
わたしは、思いっきり机に突っ伏している美羽を見下ろしながら、そんなことを呟いていた。
まぁ、良いでしょ。どうしてそんなことをしているのかは分かり切っているし、それは自業自得のことなのだから。……あ、でも、横にいる馬鹿は反省するべきだね。
「ど、どうしたのって、恵ならわかっているでしょ!」
「期末テストの点数の平均が四十点で、赤点を取った科目が何個もあるってことでしょ」
「そ、そこまで言わなくていいじゃんか!」
美羽は涙目になって、わたしに対して文句を言ってきた。でも、本当のことでしょ。親友でも、本当のことは言わないと。
まぁ、今までの美羽はテストの平均が七十点くらいだったから、頭が悪いってわけではないんだけどね。
……理由なんて、横にいる奴に決まっているから。
「点数が低くても、美羽は可愛い」
「うるさい馬鹿黙れ。お前のせいで、美羽はこうなっているんだよ」
「!?!?」
美羽の横にいる紅葉が、そんなことを口にした。
そんなことを、一番言ってはいけない人物だという自覚はあるのかな?
「な、なんで……」
「だって、美羽の点数がここまで悪くなったのは、紅葉の世話をしていたせいに決まってるでしょ。二人で暮らすようになってから、バイトをするようになったし、家事のほとんどは美羽がやっているんでしょ」
「それは、そうだけど……」
そう、美羽がここまで点数が悪くなったのは、紅葉の世話をしていたせいで、自分自身の勉強をする時間が無かったのだ。
本人はそのことを絶対に口にしないけど、第三者から見れば、そんなことは一目瞭然だ。だから、美羽の親友であるわたしが、そのことをしっかり口にしないといけない。
ちなみに、紅葉のテストの平均は九十点を超えていた。さすが特待生、妹に迷惑をかけたかいがある。
……これは嫌味だよ。
「はぁ、なんで家事を分担とかしないの? 姉なんだから、しっかり妹のサポートをしないと」
「私だってそうしたいよ。でも……美羽が……」
「ブロッコリーの茎を、茹でずにそのまま食べる人に料理を任せたくないよ」
あ、うん。そうだった。紅葉は、食事という面では壊滅的だったんだ。少し前まで、味覚に障害があって、味という物を理解していたかった。そのせいで、味がする=イコールおいしいと勘違いしていて、どんなものでもおいしそうに食べてしまう。
ブロッコリーの茎を生で食べることもあるけれど、ほんれんそうも生のままで食べることもあるから、本当に料理に関わらせてはいけない人種だ。本人は料理をしてみたいと思っているようだけど、まともな味覚になるまで、絶対にやらせてはいけない。
それでも、料理以外は出来るんじゃないんだろうか? 例えば、服の洗濯や晩御飯の片付けなど、誰にだって出来るようなことは多々ある。
だから、何もしないのは紅葉の怠慢であり、そこに関しては甘やかすのではなく、しっかりとしかるべきだろう。
――この時のわたしは、こう思っていた。
「なら、他のことは?」
「一応、洗濯機は使えるんだけど、ハンガーで干すのは凄く雑で、あのやり方だと服が伸びるんだよね。かといって、乾いた服をたたむのも雑だし、食器洗いに関しては何個も皿を割ってしまうから頼めないよ」
「……」
「……」
美羽の言葉を聞いて、紅葉は申し訳なさそうに目を逸らしている。でも、さすがにこれは酷すぎるだろう。ここまで家事が出来ない人は初めて見た。どうやって、今まで生活していたのだろうか。
いや、今までそうする必要が無かっただけなのか? 紅葉はつい最近までかなり貧乏だったから、服をたたむとか気にしたところで意味が無かったのかもしれない。それに、味覚障害と貧困によって、紅葉は一日一食くらいしか食べていなかったようだから、皿洗いもほとんどしてこなかったのか。それなら、納得できる。
「はぁ、仕方がない。わたしの家で、紅葉に家事を教えるよ」
「え? それは、嬉しいけど、わたしたちの家でもいいんじゃない?」
「わたしの家だと、お母さんが手伝ってくれるし、何とかなるよ。だから、美羽は安心してて」
「あれ? わたしが参加しないような話になってない?」
参加しないような話って、当たり前でしょ。美羽はそれより大事なことがあるんだから。
「だって、美羽には補講があるでしょ」
「あっ」
あれだけ赤点があったんだ、それは当然でしょ。さすがのわたしでも、それについてはどうすることも出来ない。
それは紅葉も同じことであり、美羽一人で頑張ってもらうしかない。
「お姉ちゃん、助けてくれない?」
「えっと……がんばれ?」
「うぅ、補講やだー!」
美羽が涙目になりながら、再び机に突っ伏した。
でも、これについてはどうにもならない。だから、頑張れとしか言うことが出来ないんだ。……とは言え、紅葉のことさえなければ、高得点を取れる人なんだ。きっと何とかなるよ。
「じゃ、紅葉。これからよろしくね」
「あれ? 殺気のようなもの出てない?」
「出てない出てない、わたしが手取り足取り、家事について教えてあげるから、覚悟してね」
「け、けい? お手柔らかにね……」
そんなの無理な相談だ。わたしは紅葉のことが、心底嫌いなのだから、これ以上ないほど厳しくするつもりだ。
あぁ、楽しみだ。やっと、やっとあの時の仕返しが出来るんだからね!
……けれど、そんな目論見は甘かった。より、紅葉のことが嫌いになったでだけで、あの時の仕返しなんて、少しも出来なかったのだ。
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「ねぇ、喧嘩売ってるのかな?」
「ま、まさか……。少なくとも、篠宮に喧嘩を売ることはしないよ。ただでさえ、あの時にいろいろしてしまった罪悪感があるんだから」
「へーそう、なのに、こんなことをするんだ」
放課後、わたしの家で紅葉に家事を教えようとした。
まずは、簡単な床掃除。雑巾で床を拭くだけであり、小学生にだってできる簡単なこと。だから、何も起きないと思ったんだ。
でも、現実はそこまで甘くなかった。紅葉が雑巾を使って床を拭こうとするたびに、何らかのものにぶつかって、いろんなものを床にばらまいてしまうのだ。
特に、ゴミ箱にぶつかって、中に入っていた物を全部ばら撒いた時は、本当に殺意のようなものが芽生えかけていた。こんなことになることが分かっていたのなら、絶対に家の中に入れなかったのに。
「その……ごめんね。いろいろと……」
「はぁ、いいよ。次はもっと別のことをしようか」
そうして、次は……掃除機を渡した。うん、これならきっと出来るはず。
だって、ボタンを押して、軽く押すだけなんだよ。力はいらないし、雑巾と違って視野が広い。だから、先ほどのようなことは起きないはず。
「ありが……あっ」
「いたっ!!」
自由落下。
掃除機を渡した瞬間、紅葉が手を滑らして、わたしの足の上に掃除機が落ちて来た。あまりにも一瞬なことだったせいで、わたしはそれを避けることが出来ず、ガチャンという音と共に、わたしの足は床と掃除機で挟まれてしまった。
鈍い痛みがじわじわと広がっていくのに、声がうまく出なかった。
息を吸うたびに足の甲が脈打つように痛んで、涙が勝手にこぼれそうになる。
「し、篠宮っ!? ご、ごめん、ほんとにごめんっ!」
「……ごめんですむなら警察なんていらないよ」
しかも、コイツは少し前まで痛覚も無かったから、自分が何をしたのか上手く理解していない。
だから、悪いことをしたとは思っていても、そのことを上手く実感できておらず、その謝罪には重みが無い。それでも、自分のしてしまったことを頑張って理解しようとしていて、わたしに対して悪いことをしたという自覚があるのが本当にムカつく。
悪人だったのなら、本気で憎むことが出来たのに。
「もう掃除は無し! 別のことをするよ!」
「う、うん」
次は、洗濯物のたたみ方。
本当に、このくらいは出来てくれ。
「そーっとね。絶対に、わたしの服を伸ばさないでよ」
「う、うん……」
紅葉は、ゆっくりと優しくハンガーからわたしの服をためらうようにわたしの服へ触れた。
その動きは本当にゆっくりで、まるで壊れ物でも扱うみたいに慎重だった。
「いいじゃん、その調子だよ」
「よ、よかった。これでいいんだ」
ゆっくりで、その辺の小学生の方が速く綺麗に出来るほどの手つき。でも、その時の紅葉の目はとても真剣で、ふざけているようには見えなかった。
どうして、ここまで頑張れるのだろうか。
「ねぇ、紅葉。なんで、そこまで頑張るの?」
わたしは、それを罪滅ぼしだと思っていた。紅葉は少し前まで、美羽のことをいじめていた。だから、その罪悪感を紛らわせるために、自分が出来ることをして、楽になろうとしてりうのだと。
でも、紅葉が動いている理由は、そんな身勝手なものでは無かった。
「頑張る理由? そんなの、簡単なことだよ。何よりも大好きな美羽と対等な立場になりたいから、わたしはいろんなことが出来るようにならないといけないんだ」
その瞬間、わたしの中で何かが止まった。
紅葉の声は震えていない。言い訳でも、罪滅ぼしでもない。
ただ、自分の気持ちをそのまま言葉にしているだけの、真剣な声だった。
「……対等、って」
思わず聞き返すと、紅葉は服を持ったまま、少し恥ずかしそうに笑った。
「もちろん、罪滅ぼしという面もあるよ。でもね、それ以上に私は美羽の隣に立ちたいんだ。今は守られてばかりだけど、いつか互いに守り合えるような関係になりたいから」
その決意は、胸の奥にまっすぐ突き刺さるほど強くて、揺らぎがなかった。
わたしは思わず息をのむ。紅葉の言葉は、どこか幼いのに、誰よりも真剣で、誰よりも重かった。
「……ふーん、そういう事」
なら、少しだけ認めてやってもいい。
「なら、頑張りなよ。でもね、美羽を守るのは、親友であるわたしの役目、そう簡単には渡さないから」
紅葉は一瞬きょとんとしたあと、ゆっくりと目を細めた。
その表情は、悔しさと、挑まれた嬉しさと、負けん気が全部混ざったような、不思議な色をしていた。
「……そっか。篠宮は、そう言うんだ」
わたしは肩をすくめてみせる。
「当たり前でしょ。美羽はわたしの親友なんだから。守るのは、わたしの役目」
たぶん、わたしたちは一生仲良くなることは出来ない。でも、それでいい。
互いに競い合い、それでも同じ人を想って前に進んでいく──そんな関係でいい。 仲良く手をつないで歩く未来なんて、最初から期待していない。むしろ、こうして火花を散らしながら張り合っている方が、わたしたちらしい。
「なるほどね、私も負けないから。……よし、これで終わり。完璧でしょ」
「それの何処が綺麗なの? 皺が結構ついているんだけど?」
「え?」
「なんで、服をたたむだけでこうなるの!? これ、結構気に入ってたのに……」
まぁ、後数年間は、勝負にならないんだろうけどさ。




