エピローグ
朝の光が、薄いカーテン越しに部屋へ差し込んでいた。以前の家とは違う、少し狭いけれど落ち着く部屋。紅葉が選んだ淡い色のカーテンが、風に揺れている。
目の前のフライパンでは、溶き卵をたっぷり吸い込んだ食パンが、じゅう、と甘い音を立てていた。バターが溶けて広がる香りが、狭いキッチンいっぱいに満ちていく。わたしは真剣な表情でフライパンを覗き込み、パンの端をそっと持ち上げて焼き色を確認した。
「……あ、ちょっと焦げそう」
「大丈夫だよ。いい匂いしてるし」
「もー、お姉ちゃんはいつもそう。味や匂いがするからって、おいしいわけじゃないの」
「だって、前までと比べたら、おいしいから」
紅葉が横からフライパンを覗き込み、わたしが作っているフレンチトーストを確認し、ふっと小さく息を漏らした。
きっと、匂いがすることに対して安堵しているのだろう。紅葉は、わたしが料理を作るのを眺めるのが好きで、朝食を作る時も、夕食を作る時もずっと横にいる。
「あのさ」
「何? お姉ちゃん?」
「ずっとご飯を作ってくれてるけど、嫌じゃない?」
何を言うのかなと思っていたら、まさかそんなことを心配していたなんて。
わたしは思わず手を止めて、紅葉の方を見た。
「嫌なわけないでしょ。むしろ……嬉しいよ」
「……ほんとに?」
紅葉は、フライパンの湯気に紛れるような小さな声で聞き返してきた。その目は、どこか怯えるようで、でも期待しているようでもあった。
わたしは笑って、フライパンの火を弱める。
「だって、お姉ちゃんが食べてくれるの、好きだもん。おいしいって言ってくれるの、もっと好きだから」
「……そっか」
「それに、お姉ちゃんに任すと、ろくなことにならないんだもん」
「あ、あの件は忘れてよ!」
前に一度、紅葉が料理をしようとしたことがある。けれど、その時の紅葉は、肉は真っ黒にするし、ホウレンソウは茹でずにそのまま皿に盛ろうとするし、ろくなことにならなかったのだ。
それは、今まで紅葉が味覚や視覚などに障害があったことによる弊害で、焦げるという概念や、食材の生と加熱の違いなどをよく理解していないのだ。
(お姉ちゃんって、味がある=おいしいって思ってるからなぁ。一応、おいしいものはよりおいしいって思ってるらしいけど、どれだけ不味くてもおいしいという分野から外れることはないし)
「ま、練習すると、そのうちできるようになるよ」
「ほんとかな?」
「うん、三年くらいしたら、簡単な料理は出来るようになるんじゃない?」
「……結構、ドライだね」
紅葉が少し落ち込んでいるけど、そのくらいだったら大丈夫だろう。料理が出来るようになるまでに、かなり時間が掛かることは自覚しているようだから。
そんなことを考えている間に、フレンチトーストは出来上がり、香りがふわりと立ち上がって、狭いキッチンの空気をやわらかく満たしていく。 皿に移した瞬間、バターがじんわりと染み出し、表面がつやつやと光った。
「はい、朝ご飯できたよ」
「いつもありがとね。お姉ちゃんとして、世話をしてもらうのはどうかと思うんだけど」
「気にしないでいいってば。それに、バイトはわたしの方が教わってるんだから」
あれから、わたしは紅葉と同じところでバイトを始めた。そこは飲食店のバイトで、最初のうちは慣れなくてミスばかりだったけど、紅葉からいろいろ教わることで、今では注文を取るのも、料理を運ぶのも、ほとんど問題なくこなせるようになった。
最初はトレーを持つ手が震えていたのに、今ではお客さんの前で笑顔を作る余裕すらある。
「あれは美羽が頑張ったからだよ。きっと一人でも出来るようになった」
「いいの、わたしがお姉ちゃんのおかげって言ったら、お姉ちゃんのおかげなんだから。この話はこれでおしまい。せっかく作ったフレンチトーストが冷めちゃうよ」
「そうだね。いただきます」
あの日、わたしたちが父親と決別した日から、一か月が経った。
紅葉は、今まで住んでいたボロボロのアパートから引っ越し、しっかりとしたアパートへと移り住んだ。そこは、壁がしっかりとしていて、隙間風が入ってこず、暖房や冷房なども存在している。
夜になると、外の音がほとんど聞こえない。紅葉が、静かすぎて逆に落ち着かないと笑っていたのが、少し可愛かった。
また、毛布や電子レンジのような、生活する上で必要不可欠な物も購入してある。前の部屋では、紅葉は薄いタオルケット一枚で冬を越していたし、電子レンジのような、どの家庭にもあるものが存在していなかったのだ。
それらを見ると、今までの紅葉の暮らしは、本当に生きるためだけのものだったことがよくわかる。
「そう言えば、お金大丈夫?」
「大丈夫だよ。父親がわたしの分だけじゃなくて、紅葉の分の養育費も払っているし、二人で稼いだバイト代があるから、もし養育費が途切れても、二か月くらいは耐えれるよ」
「そっか、それならよかった」
そう言うこともあって、今ではわたしたちは二人で暮らしている。
両親と会ったことは、あれ以来一度もないけど、担任の先生や恵の両親がたまにこの家にやって来て。大丈夫そうか確認してくれているから、問題はない。
また、紅葉はあれ以来、障害の治療のために病院へ通っている。もちろん、全部が治ったわけではない。 けれど、触覚だけは――わたしがそばにいなくても、ちゃんと働くようになったらしい。
前は、わたしが側にいないと温度も質感も分からなかったのに、今では自分の指先で、いろんな物を触れるようになったのだ。その変化が、どれほど嬉しかったか。紅葉自身より、わたしの方が泣きそうになったくらいだ。
医師の話では、このまま順調にいけば、数年後にはすべての障害が治る可能性もあるという。
その言葉を聞いたとき、胸の奥がじんわり熱くなった。紅葉が、世界を自分の感覚でまるごと受け取れる日が来るかもしれない。
そう思うだけで、未来が少し明るく見えた。
「それじゃあ、学校に行こうか」
「そうだね」
ドアを開けると、十二月の冷たい空気が、頬を刺すように流れ込んできた。けれど、その冷たさすらどこか心地よく感じられるのは、きっと隣に紅葉がいるからだ。
紅葉はマフラーをぎゅっと首元に巻き直し、白い息をふわりと吐いた。
「……寒いね」
「うん。でも、今日は晴れてるし、歩けばあったかくなるよ」
「確かにそうだね」
「あ、寒いなら手を繋がない? きっと、温かいよ」
「……うん」
紅葉は少し照れたように目をそらしながら、そっと手を差し出してきた。その手は、前よりもずっと温かい。触覚が戻ってきたからなのか、それとも、わたしたちの生活が変わったからなのか――どちらにしても、その温度が嬉しかった。
わたしたちは、朝早くて人通りの少ない道を歩いていく。道路では、たまに車が通り過ぎていき、街路樹はすっかり葉を落として、冬の空に細い枝を伸ばしていた。
走っていく車の音も、風に揺らされて枝同士がぶつかる音も、朝の静けさに溶け込んでいく。
「ねぇ、美羽」
そんな時、紅葉が口を開いた。
「こんな朝、私には無い物だと思ってた」
「こんな朝って?」
わたしが聞き返すと、紅葉は少しだけ歩く速度を落とした。白い息がふわりと空に溶けていく。
「こんなにも穏やかで、色とりどりの朝を、何よりも大事な友達と一緒に歩くことが出来るんなんて、一生来ないと思ってた」
「……」
「中学生のころまではさ、ずっといじめられてたから、友達が欲しいなと思っていたけど、心のどこかで叶わないとわかっていたんだ。けれど、その予想に反して、高校になって経ったの一日で、美羽が友達になってくれた」
「そうだね、あの日のことは今でも覚えてる」
高校初日の日。わたしが木から降りれなくなった子猫を助けるために木に登っていた時に、わたしは紅葉と出会ったのだ。
あの日の紅葉は、とても穏やかで、その後の紅葉とはまるで別人のようだった。父親のせいで、一度いじめる側といじめられる側という関係になってしまったが、それはもう過去の話だ。
「でも、そこから私は大きな間違いを犯して、唯一の友達を傷つけた。だからね、私は幸せになることなんてないと思ってたんだ」
紅葉は足を止めた。冬の朝の冷たい空気が、ふたりの間に静かに流れ込む。
その横顔は、どこか影を落としていて、けれど、逃げずに向き合おうとしている強さもあった。
「……お姉ちゃん」
わたしが声をかけると、紅葉はゆっくりとこちらを向いた。その瞳は、冬の空よりも澄んでいて、まっすぐにわたしを映していた。
「ごめんね、そして……ありがとうね、美羽。私を、こんなにも幸せにしてくれて」
紅葉の声は震えていた。でも、その震えは弱さじゃなくて、やっと本当の気持ちを言えた人の声だった。
わたしはそっと紅葉の手を握り返す。 冬の空気で冷えた指先が、ゆっくりと温度を取り戻していく。
「謝らないでいいってば。それに、お姉ちゃんもここまで頑張って来たんだから、胸を張ってよ」
わたしと出会うまでの時間だけじゃない。父親と決別してからも、わたしをいじめたという事実は変わらなかったため、クラスに受け入れるまで、かなり時間がかかったのも知っている。
わたしや恵が手助けしたのもあるけれど、紅葉は誰よりも慎重で、誰よりも怯えていて、それでも毎日、少しずつ前に進んでいた。
「ほんとに?」
紅葉が不安そうに問い返す。
その声は、冬の空気よりもずっと繊細で、触れたら壊れてしまいそうだった。
「ほんとだよ」
わたしは迷わず答えた。だって、それは嘘じゃないから。
「お姉ちゃんはね、ちゃんと前に進んできたよ。怖くても、痛くても、逃げないで……自分で選んで、生きようとしてきた」
紅葉は目を伏せ、唇を噛みしめた。
「でも……わたしは美羽を傷つけたのに」
「うん。傷ついたよ。すごくね」
紅葉の肩がびくりと震える。
でも、わたしは続けた。
「でも、それでもわたしは紅葉と友達でいたかった。だって、お姉ちゃんは……本当は優しい人だから」
紅葉は顔を上げた。
その瞳は涙で揺れていて、冬の光を反射してきらきらしていた。
「……どうして、そんなふうに言えるの?」
「知ってるからだよ。泣きながら謝ってくれた紅葉を。わたしのために変わろうとした紅葉を。全部、ちゃんと見てきたから」
紅葉は堪えきれずに、ぽろりと涙をこぼした。
「……ずるいよ、美羽。そんなこと言われたら……本当に……」
「幸せになりたくなる?」
「……うん」
紅葉は泣き笑いの顔で、わたしの手をぎゅっと握り返した。
「美羽と一緒にいると……わたし、幸せになってもいいんだって思えるんだ」
「いいんだよ。むしろ、幸せにならなきゃダメ」
紅葉は小さく息を吸い込み、そのままわたしの肩にそっと額を寄せた。
「……ありがとう、美羽。私、本当に生きててよかった」
「うん。生きててよかったね」
冬の朝の冷たい空気の中で、わたしたちの手だけが、確かに温かかった。
そしてその温度は、これからも一緒に歩いていくという静かな約束のように感じられた。
「行こっか、お姉ちゃん」
「……うん」
わたしたちは再び歩き出す。冬の空は澄んでいて、どこまでも高かった。
その下を、手をつないで歩くわたしたちの影は、ゆっくりと、でも確かに未来へ伸びていく。
――こうして、わたしたちの新しい日々が始まった。
これで、この物語は完結です。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!
美羽と紅葉の歩いてきた日々を、
ここまで見届けていただけたことが、何より嬉しいです。
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またどこかでお会いできますように。




