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いじめる貴方といじめられる私  作者: 月星 星那
溺痛美毒(裏)

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決別

 父親の喉が、かすかに上下した。言葉を探しているのに、声にならない。

 ようやく絞り出した声は、震えていた。


「……そんな、ことを……言うのか」


 その言葉は、怒りでも否定でもなかった。ただ、理解できない現実を前にした人間の、弱々しい戸惑いだった。


「そうだよ。何か文句あるの?」

「あるに決まっているだろ! 美羽は、俺たちの娘だ! お前なんかに、渡すわけがない!」


 父親は紅葉に向かって声を荒げる。それは、紅葉のことを娘だと思っていない証であり、まだわたしのことだけを愛している印だった。どうして、ここまで来ても、最初から何一つ変わらないのだろうか? 少し前まで、こんな人を尊敬していた自分に反吐が出る。

 けれど、紅葉はそんな父親に対して一歩も引いていなかった。今はわたしが近くにいるから、異常だらけの五感も、全て正常に戻っているはずなのに……。


「あっそ。でも、これは私達の総意だから」

「総意、だと? 俺の娘がそんなことを言うはずがない!」

「……はぁ、さっきまで、その娘に頬を叩かれ、胸倉を掴まれていたのは誰なの? そんなことすら忘れちゃったの?」

「お前っ!」


 父親が、手を振り上げる。

 それを見て、わたしは紅葉を守ろうとして、その間に割って入ろうとしたけれど、それより先に父親を止めた人物がいた。


「病院の中で、暴力をするのはやめてくれませんか?」


 低く落ち着いた声が、父親の腕を止めた。振り返ると、白衣の医師が立っていた。

 怒鳴り声ではない。 けれど、その声音には、父親の勢いを一瞬で奪うだけの重さがあった。


「こ、これは……!」


 父親は言い訳を探すように口を開いたが、言葉が続かなかった。

 医師はゆっくりと父親の前に歩み寄り、静かに告げた。


「ここは治療の場です。患者さんに手を上げようとする行為は、理由がどうであれ許されません」


 その言葉に、病室の空気がさらに張りつめる。

 父親の顔がみるみる赤くなり、怒りとも羞恥ともつかない表情が浮かんだ。


「だが、この女は――」

「貴方が不倫相手と結婚するために、元の妻と娘を捨て、慰謝料や養育費すら払わなかったことが悪いのでしょう? あいにく、私は貴方が神崎さんの過去を知っていますので」


 医師の声は淡々としていた。責めるでも、怒るでもない。

 ただ、事実を述べているだけの声音だった。


「……っ、な、なんで……お前が……そんなこと……!」


 父親の顔から血の気が引いていく。怒りの赤みが消え、代わりに青ざめた色が浮かんだ。

 まるで、隠していた傷口を突然暴かれた人間のように。


「医療者は、患者さんの背景を知る必要があります。特に、今回のように命に関わる状態で運ばれてきた場合は」


 医師は一歩も引かず、静かに続けた。


「神崎さんは、極度の栄養失調とストレス障害で倒れました。貴方が親である責任を放棄したことは、神崎さんが倒れた原因の一端を担っていますよ」


 医師は、どんどん父親を追い詰めていく。当然だ。この件は父親が全面的に悪く、擁護できる要素などどこにもない。だから父親は、何を言われても言い返すことが出来ないのだ。

――ただし、それは紅葉に関することだけ。良くも悪くも、父親はわたしに対してはまともな親として接してきただから、そこを責めることは出来ない。


「……ああ、そうだ。その件については、俺が悪かった!」


(これでも、まだ紅葉のことを愛さないんだね。期待なんてしていなかったし、今更そうされても困るんだけど)


 時間が経てばたつほど、父親に対する愛情が消えていく。胸の奥にあったはずの何かが、静かに、確実に冷えていくのがわかった。


「だが、美羽に関しては、まっとうに育てていたはずだ! だから、俺の家から出すわけがないだろう!」

「……そ、そうよ。美羽は、私が生んだ娘なのよ! だから、親権は私達にあるんじゃないの?」

 

 父親だけではない。母親すらも、父親の言葉に同調して、わたしのことを家から出さないつもりだった。

 ……母親も、紅葉の存在を知っていたんでしょ。もしかしたら、父親だけが悪くて、私は少しも悪くないと思っているかもしれないけれど、その時点で同罪なんだから。わたしの血液は、この二人から受け継いだものだと思うと、本当に気持ち悪くなってくる。冗談じゃなく、全身を透析して入れ替えたくなるくらいだ。


 そんなわたしの気持ちを察したのか、紅葉が弱々しくわたしの手を握ってくる。その手は、心に染み込むほど温かく、少しだけ心が落ち着いてくる。

 ……ほんと、お姉ちゃんの嘘つき。何がわたしの手が温かいなの? お姉ちゃんの手の方が、ずっと温かくて優しいじゃんか。


「そうですか。でも、医者の立場から言わせてもらいますと、白石さんと神西さんは一緒に暮らさないといけないんですよ」

「は? それはどういうことだ!? 医者なんかに、家族のことを口出しする権利なんてないはずだ!」

「ええ、そうですね。ですが、神崎さんは、誰かさんのせいで実の母親から幼い頃から虐待を受けており、そのせいで心因性の障害を患っているんです。それは、日常生活にも支障をきたしているのですが、白石さんが近くにいる時だけ改善するんです。ですので、お二人には一緒に暮らすことを推奨しているんですよ」

「なっ」


 医師の説明で、父親は驚きの声をあげた。その声は怒鳴り声ではなく、喉の奥から漏れたような、情けないほど小さな音だった。


「そ、そんなこと……美羽の責任じゃ……!」

「そうですよ。しかし、本人の意志で神崎さんと暮らそうとしていますし、そもそも……貴方が追うべき責任を代わりに背負っているだけですよ。ですので、神崎さんや私を責めるのではなく、自分自身のことを一生責めてください」


 医師が冷たく、冷酷に言い放つと、父親の表情から一気に血の気が引いた。まるで、足元の床が突然消えたかのように、視線が宙を彷徨う。

 怒鳴り返す余裕もない。反論する言葉もない。ただ、自分が向き合うべき現実だけが、容赦なく突きつけられていく。


「すみません、それって本当のことなんですか?」


 すると、担任の先生が医師に質問した。


「そうですよ。書類が必要なら準備しましょうか?」

「そんな……申告なんて無かったはず……」

「当然でしょう。病院に行く金も無かったのですから。……誰かさんのせいでね」


 医師が父親の方を見ながら、そんなことを言った。どうやら、医師はわたしたちに対して怒っているらしい。ま、当然か。障害の原因の一端を担っている人に、医学に関わるものが怒らないはずがない。

 父親は、目を漂わせていて、ここからどう逃れるか、どうやってわたしを取り戻すのかを考えようとしていた。


 その時、親友の恵があることを口にした。


「へぇ、養育費の未払いって差し押さえできるんだ。よかったじゃん、美羽。元父親が、これから生活費払ってくれるってさ」

「なっ」


 その言葉を聞いて、父親が驚きの声をあげる。医師だけじゃない、わたしの親友でさえも、わたしの考えに賛成したことに驚いたのだ。


「子供が大人の話に口を出すな!」

「いやいや、親友の家庭環境を気に掛けるのは当然ですよね? あ、言い忘れてましたけど、今の会話――電話を使ってわたしの母親に流出させときました。ママ友でしたっけ? そこを起点に広がると思いますよ」


 恵の言葉に、父親の顔色が一瞬で変わった。怒りでも羞恥でもない。もっと原始的な――恐怖だった。


「な……に……?」


 父親の声は震えていた。恵の言葉の意味を理解した瞬間、彼の中で何かが音を立てて崩れたのが分かった。


「ちょ、ちょっと待て……! 勝手なことを……!」

「勝手じゃないですよ。わたしは美羽の親友です。だから、何があっても、美羽の味方でいるし、美羽のために動くと決めてるんですよ」

「恵……」


 本当に、わたしは周りに恵まれている。紅葉も、恵も、医師さんも――誰一人として、わたしをあの家に戻そうとはしない。


「ありがとう、恵」

「ほんと、感謝してよね。……あ、紅葉は感謝しなくていいから。わたしは紅葉のこと、心底嫌いだし、許してないから」

「うん……それでいいよ。私は決して許されないことをしたから」


 恵は眉をひそめ、紅葉の表情を睨みつけるように見つめた。

 紅葉は、恵の言葉を真正面から受け止めて、それでもどこかほっとしたように微笑んでいた。たぶん、わたしは許したけど、どこかで罪悪感のような物が残っているのだろう。その罪悪感を、恵が真っ向から責めてくれる。紅葉にとって、それは罰であり、同時に救いでもあるのかもしれない。


(わたしとは違う救い方。本当に、ありがとうね)


「……むかつく、何で嬉しそうな顔をするの」


 恵は口ではああ言っているけれど、その表情はそこまで怒っているようには見えなかった。たぶん、こうなることを分かったうえで言ってくれたのだ。紅葉のことが気に食わないのは本当だろうけど――それでも、これは恵なりの優しさだった。


「そうですか。議論する必要はあると思いますけど、学校側も美羽さんの意志に賛成すると思います」

「な、なぜ!」

「神崎も生徒の一人ではありますし、貴方の下では、生徒の安全が守れないなと判断しましたので。児童相談所とも、話し合うべきですね」

  

 そして――


「……もう、いいよ。好きにしろ……」


 絞り出すような声で、父親はそう言った。言葉の端にあったのは、開き直りでも勝ち誇りでもない。疲れ切った諦念だった。周りに自分の味方がいないことを理解して、もうどうしようもないと悟ったのだ。

 母親は嗚咽を漏らしながら、父親の背中にしがみついた。だが、その抱擁は慰めではなく、崩れ落ちる自分を支えるためのものに見えた。

 紅葉は一度だけ父親を見て、何も言わずに視線をそらした。怒りも哀しみも、もう言葉にする必要はないとでも言うように。


「お父さん、今まで育ててくれたことだけは、感謝するよ。……じゃあね。さようなら」


 そうして、わたしも父親を視界から外した。もう、話すことはなく、思い残すことも無い。伝えることは、すべて伝え終わったのだから。

 

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