宣言
「ちょっと! 病院で走らないでください!」
看護師の怒鳴り声と、大人の男が床を叩く足音が近づいてくる。
ドタドタと響くその音は、病院という場所に似つかわしくないほど騒がしい。
そして、病室の前で足音が止まった瞬間――勢いよくドアが開いた。
「美羽!」
白石隼人。わたしと紅葉の父親が立っていた。
病室の空気が、一瞬で凍りつく。紅葉の指先が、布団をぎゅっと握りしめるのが見えた。
(……来た)
父親の視線が紅葉に向かう。
その目が、謝罪か、心配か――わずかに期待した自分が悔しい。
だが、次の瞬間。
「美羽、なんで家出なんかしたんだ! 知らない人の入院に付き合うなんて、どうかしてるぞ!」
(……やっぱり)
紅葉の顔が、ほんの一瞬だけ歪んだ。父親は気づかない。いや、気づこうともしない。
入学式の日に紅葉と会っているはずなのに、知らない人と断言できるほど、彼は紅葉を見ていなかった。
(こんな人を……父親だと思ってたなんて)
胸の奥がじわりと冷たくなる。
そこへ、母親、担任、恵が駆けつけてきた。病室は一気に人で埋まり、空気がさらに重くなる。
「美羽! 黙ってないで答えろ! 俺たちの何が嫌で、家出なんてしたんだ!」
父親の声は大きい。その声には、わたしのことを理解しようとする意志は含まれていたけれど、あるのはそれだけだった。
(わたしだけを見てても意味がないんだよ……紅葉が含まれなきゃ)
わたしが黙っていると、担任が口を開いた。
「白石……理由を教えてくれないか。それと、どうして白石をいじめていた神崎と一緒にいるのかも」
その瞬間。
「――いじめていた?」
父親の顔が、ゆっくりと担任へ向く。
「先生、それはどういう意味ですか?」
「いや……その……」
「生徒が、昨日まで美羽をいじめていた犯人だとでも言うんですか?」
「それは……」
担任が目を逸らす。 その沈黙が、すべてを物語っていた。
父親の視線が、紅葉へと向けられる。冷たく、決めつけるような目。
「そういうことですか……この子が――」
その瞬間、紅葉の呼吸が止まったように見えた。
(……やめて)
胸の奥で、何かがぷつりと切れた。気づいたら、身体が勝手に動いていた。
パチン。
乾いた音が病室に響く。父親の頬が、わずかに赤く染まる。
「お父さんが……紅葉を責める権利なんて、どこにもない!」
「紅葉……?」
病室の空気が、一瞬で張りつめた。わたしの声が響いた瞬間、お父さんもお母さんも、まるで別の世界の音を聞いたみたいに目を見開いた。
担任の先生や恵の驚きとは違う――もっと深い、もっと触れられたくない場所を突かれたような反応。
(……やっぱり。お母さんも、知ってたんだ)
胸の奥が、じわりと冷たくなる。
お母さんは、わたしの手を胸の前でぎゅっと握りしめたまま、紅葉を見ようとしない。その視線の逸らし方が、すべてを物語っていた。
お父さんの無関心も、お母さんの沈黙も、どちらも紅葉を置き去りにしてきたという点では同じだ。
そんな人たちと――もう一度、家族として関わるなんて、考えられない。
「なんで、なんでそんなことが出来るの!? わたしは、もう全部知ってるよ!」
手がひりひり痺れていて、声が震えているのに、止められなかった。
胸の奥に溜め込んでいたものが、堰を切ったみたいに溢れ出す。
「紅葉がどんな思いで生きてきたかも、どれだけ苦しくて、どれだけ辛かったかも……全部、聞いたんだよ! 何か、言うことは無いの!?」
叫んだ瞬間、病室の空気がさらに重く沈んだ。父も母も、口を開けたまま固まっている。
まるで、言葉を失ったというより――言葉を持っていなかったみたいに。
その沈黙が、わたしの胸をさらに締めつける。
「……何も、ないの?」
わたしの声は、さっきよりずっと小さかった。怒りよりも、呆れよりも、ただただ悲しさが勝っていた。
そして、父は、わたしに向かって微笑んだ。まるで正しいことを言っているつもりの顔で。
「悪かった。あの時は本当に若くて……。でも、安心してくれ。愛しているのは美羽だけだ。絶対に、美羽は捨てないから」
(……ああ。この人は、本当に分かってないんだ)
胸の奥が、じわりと冷たくなる。怒りでも悲しみでもない。もっと深い、もっと静かな絶望。
わたしが何を責めているのか。紅葉が何に傷ついてきたのか。家族として、何を失ってきたのか。そのどれにも触れず、そのどれにも向き合わず、ただわたしだけを守ればいいと思っている。
父の言葉は、優しさの形をしているのに――その実、紅葉を切り捨てる刃だった。
「ふざけないで! そんなこと言ってるんじゃない! わたしは、わたしはっ!」
気づいたら、父の胸倉を掴んでいた。 自分でも驚くほど強く、指が震えるほど必死に。
父は目を見開き、わたしを見下ろす。怒りでも恐怖でもない。ただ――理解できないものを見る目。
「美羽……落ち着け。父さんは、お前を――」
「守ってるつもりなんでしょ!? でもね、それは違うよ!」
声が震えているのに、止められなかった。
胸の奥に溜め込んでいたものが、堰を切ったみたいに溢れ出す。
「わたしだけ守って、どうするの!? 紅葉は? 紅葉はずっと一人で苦しんでたんだよ! 出ていって‼ もう二度と、わたしの前に現れないで!」
「ちょっと、美羽。落ち着いて!」
「お母さんも、同罪なんだよ! 何、自分は関係ないと思ってるの! 紅葉のことを知ってるのに、気にせず毎日を過ごしていた時点で、一生赦すことは無いから!」
言った瞬間、お母さんの顔色がさっと青ざめた。
胸の前で握っていた手が、ゆっくりとほどけていく。
「み、みう……それは……違うの……わたしは……」
(違うってなんなの? そんなので、許されると思わないで!)
そう思って、次は母親に怒りを向けようとした、その時だった。
「美羽、待って」
紅葉が、わたしを呼び止めたんだ。
「え? お姉ちゃん?」
「ごめんね。私のために怒ってるのはわかっているんだけど、これとは自分で向き合ってみたい」
そうして、紅葉は弱々しく立ち上がろうとする。経口摂取が出来るようになったことにより、今は点滴をしておらず、立ち上がる壁が無い。
でも、餓死しかけていた身体だ。だから、力が足りず倒れそうになってしまう。
「お姉ちゃん!」
紅葉の身体がぐらりと傾いた瞬間、反射的に駆け寄っていた。胸倉を掴んでいた父親のシャツが指先から滑り落ちる。
怒りよりも、紅葉が倒れる恐怖のほうがずっと強かった。
「紅葉、大丈夫!? 立たなくていいよ、無理しないで!」
わたしが支えると、紅葉はかすかに笑った。
その笑顔は弱々しいのに、どこか決意だけは強く宿っていた。
「……ありがとう。でもね、美羽」
紅葉はわたしの腕にしがみつきながら、ゆっくりと顔を上げた。
「これは、私が自分で向き合いたい問題だから」
紅葉が歩き出す、その一歩一歩があまりにも細くて、折れそうで、見ているだけで胸が痛くなる。けれど、その背中には確かに「逃げない」という意志が宿っていた。
わたしは息を呑んだまま、ただその背中を支えるように見守るしかなかった。
紅葉は父の前に立つ。震えている。でも、逃げない。
父も紅葉が自分の意思で立っていることに気づき、言葉を失っていた。紅葉は、喉をぎゅっと締めつけられたような声で、それでもはっきりと言った。
「はじめまして。もしくは、お久しぶりです。お父さん」
紅葉の声は震えていた。でも、その震えは恐怖だけじゃない。しっかりとした覚悟が混ざっていた。
父親も母親も、紅葉の言葉を待つしかなかった。逃げ場なんて、もうどこにもない。
紅葉は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
胸が上下するたび、細い身体が痛々しいほど揺れる。
「私は……ずっと、あなたたちに会いたかったわけじゃない」
父親の眉がわずかに動く。
「でも……どうして捨てたのか。どうして見てくれなかったのか。それだけは、ずっと知りたかった」
紅葉の声は弱いのに、病室の空気を切り裂くほど鋭かった。
「私は……お父さんに捨てられてから、ずっと苦しかった。家でも、学校でも……どこにも居場所がなかった。誰にも受け入れられなくて、自分自身も、みんなと同じ普通の世界で生きることが出来ないと思ってた」
紅葉の言葉は淡々としているのに、ひとつひとつが胸の奥に沈んでいくような重さを持っていた。泣き叫ぶでもなく、責め立てるでもなく――ただ事実を並べているだけなのに、父親と母親は一言も返せなかった。
紅葉は、ゆっくりと視線を上げた。その瞳は涙で濡れているのに、不思議と澄んでいた。
「ずっと憎んでた。わたしを捨てたとお父さんも、美羽の母親も――私からすべてを奪った美羽のことも、全部……全部。でも、憎んでいるだけじゃ、何もなかった。恨みを晴らそうとしても、罪悪感が溜まっていくだけで、何も解決しなかった。だから、死のうと思ってたんだ。けれど――」
そして、紅葉は強い視線を父親に向けて、しっかりと言い放った。
「美羽が、私に寄り添ってくれて、幸せに生きることが出来るって教えてくれたんだ。だから、私はお父さんたちを憎まない。その代わり、お父さんたちは、私達に、もう二度と関わらないで。美羽は、私の家族だ! 私は、お父さんたちから美羽を奪う!」
そして、病室に沈黙が舞い降りた。父親も母親も、誰も言葉を発せなかった。




