姉妹
「なにこれ……おいしい」
「ほら、まだまだあるよ」
あれから数時間が経って、わたしは紅葉に病院食を食べさえていた。
泣き疲れて眠ったあと、目を覚ました紅葉は少しだけ顔色が良くなっていた。
「はい、あーん」
「……あのね、私がお姉ちゃんなんだけど」
「遠慮しないでって」
「うぅ、イメージと違う……」
(……可愛い)
思わず、心の中でそう呟いてしまった。
さっきまで泣きじゃくって、震えて、壊れそうだった人と同じとは思えない。
こんなふうに照れて、拗ねて、子どもみたいに目をそらす紅葉を見るのは、たぶん初めてだ。
「な、なに……その顔……」
紅葉が小さく肩をすくめる。
わたしがじっと見ているのに気づいたらしく、さらに顔をそむけた。
「別に、なんでもないよ」
「絶対なんでもなくない……」
紅葉の声がか細く震える。
でも、さっきまでの壊れそうな震えじゃない。
もっと柔らかくて、くすぐったいみたいな震え。
わたしはスプーンをもう一度差し出した。
「はい、お姉ちゃん。あーん」
「……っ、だから……! そういうの……!」
紅葉は両手で顔を覆い、指の隙間からこちらを覗く。
その仕草がまた可愛くて、わたしは思わず笑ってしまった。
「食べないと元気になれないよ?」
「……わかったよ。もう……」
観念したように、紅葉はゆっくり口を開ける。
スプーンを受け取ると、ほんの少しだけ目を細めた。
「……おいしい」
「でしょ?」
紅葉はこくりと頷く。その表情は、まるで世界に色が戻っていく瞬間みたいだった。
「おや、しっかり食べてますね」
「あ、先生!」
そんなことをしていると、病室のドアが静かに開き、白衣の先生が顔をのぞかせた。
柔らかい笑みを浮かべながら、けれど医者らしい鋭さも隠さずに、二人の様子を確認するように視線を巡らせる。
「やっぱり、白石さんが近くにいると、心因性の障害が収まるんですね」
「……うるさい」
「お姉ちゃん、先生に失礼だよ。先生が教えてくれなかったら、わたしはずっとお姉ちゃんの身体のことを知らなかったんだから」
そう、紅葉が眠った後に、わたしは紅葉の障害について説明されたのだ。
味覚、嗅覚、触覚、視覚に障害を持っていること。
それらが全部、心因性――つまり、心が限界を超えた結果として起きている症状だと。
紅葉が目を覚ましてから、このことについて問い詰めたところ、紅葉は、知られたくなかった秘密を暴かれた子どもみたいに、布団をぎゅっと握りしめて黙り込んだのだった。
まぁ、十分くらい問い詰めたら、正直に話してくれたんだけど。
「……言ったら、美羽が責任を感じちゃうかもしれないじゃんか」
「それは否定できないけど……」
「まぁ、結果的にそうならなったからいいじゃないですか」
「この医者、大っ嫌い」
「ははは……」
どうやら、紅葉は恩があるはずのお医者さんのことが嫌いらしい。
話を聞くと、わたしが逃げた間に色々話したようで、その時に地雷を数えきれないほど踏まれたらしい。そのおかげで、わたしと向き合うことが出来たようだけど、そのことについては一生許さないと言っていた。
「神崎さん、これからはしっかり食べるんですよ。今回、餓死しそうになったのは、数日間の断食だけでなく、日頃から食べていなかったことも理由の一つですから」
「うっ……はぁ、わかったよ。食べればいいんでしょ、食べれば。美羽が一緒にいれば、おいしいと感じるから出来ると思うし」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。
わたしの存在が、紅葉を救うことが出来ているんだと思うと、嬉しく思えたから。
けれど、問題は他のもあったんだ。
「ああ、本題に入ることを忘れてました」
「本題ですか?」
「はい、白石さん。貴方、神崎さんのことを学校に伝えてなかったでしょう?」
「……な、な、なんのことですかね?」
「神崎さんが救急搬送されたこと、先ほど学校に連絡しておきましたから。もちろん、貴方が学校をサボったことも含めて」
「美羽、学校に対して、これを隠ぺいしてたの?」
はははー、何のことかなー。なんて、言うことが出来ない雰囲気だった。それもそうだろう。学校に対して、紅葉の自殺未遂、および紅葉の性格環境。そして、わたしの家でまで黙っていたんだ。本当なら、そのすべてを話さないといけないのに。
ただ、学校に報告が良くだけならまだいい。でも、そこからわたしの父親まで連絡がいくかもしれないのだ。それだけなら、本当に避けたい。
(もう、あんな人と暮らしたくない)
胸の奥がじわりと冷たくなる。
紅葉がこんな最悪な人生を送った一番の原因は、やっぱり――父親だ。
紅葉が苦しんでいたことなんて、少し考えれば分かったはずなのに。それなのに、わたしには何も言わず、何も見せず、普通の父親みたいな顔で笑っていた。
その笑顔を思い出すだけで、吐き気がする。
(あの人の娘でいるのも嫌だ。あの人の家に帰るのも嫌だ)
そして――
(紅葉を、あんな人の元に戻したくない。出来ることなら、紅葉と二人で暮らしたい)
でも……
「貴方が何を考えているかは予想が出来ますけど、保護者の同意なく未成年二人で暮らすのは認められませんよ」
「そう、ですよね……」
分かっていた。分かっていたけれど、胸の奥がぎゅっと痛む。
紅葉と二人で暮らすなんて、現実的じゃない。そんなこと、頭では分かっているのに――心がどうしても諦めてくれない。
「ですので、その願いが叶うために、正面から挑みませんか? 私も、全力で手伝いますので」
「え?」
お医者さんが、予想外の言葉を言ってきた。
「どうかしましたか? 貴方達の望みが叶うように協力すると言っただけですけど」
「で、でも、さっき認められないって……」
「それは、今の貴方達が隠れてしようとしているからですよ。私が言ってるのは、周りの大人たちを巻き込んで、正面から挑もうと言っているのですよ」
それは本当にありがたいことなんだけど、どうしてここまで協力してくれるのだろうか?
「当然のことですよ。神崎さんの今後を考えると、貴方の存在は必要なんです。それに、このままだと、貴方も心因性の病気になってしまいそうですし」
「あ、ありがとうございます」
医師の言葉に礼を言った瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
けれど……
「それなら、どうして一度、どん底に落とすようなことを言ったんですか? 最初から、そう言ってくれたら、よかったのに」
「え? そんなことを言いましたか?」
「ほら、こういう所が嫌いなんだよ。他人を追い込んでおいて、そのことに自覚が無いんだから」
「……なるほどね」
紅葉がこの人を嫌っている理由も理解できた。
……きっと、良い人ではあるんだろうね。口下手すぎるだけで。
「またですか。よく患者さんから嫌われるんですよね」
「当たり前だ。人の気持ちを理解できるようになれ」
「お姉ちゃんは言えないんじゃないかな……」
そんなことを話しながら、今後わたしたちに訪れることに対して、準備を始めていった。
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「篠宮、ちょっといいか?」
四時間目の授業が終わった時、わたし――篠宮恵は、担任の先生に職員室に呼ばれた。
「何の用ですか?」
「白石の居場所なんだが、知らないか?」
「家じゃないんですか? 熱を出したと言っていましたし」
「それがな、白石の両親の話だと、お前の家に泊まってると言うことになっているらしいんだ」
「えっ?」
担任は眉をひそめ、机の端に肘をついてこちらをじっと見た。教室のざわめきが遠くなるように、職員室の空気が静かに重くなる。
そんなわけない。前に美羽がわたしの家に来たのは数か月も前の話だ。だから、美羽がわたしの家に泊まっているなんてありえない。
でも、家にいるはずなのに、美羽の両親がそれを否定している。それなら、一体どこに……。
「もしかして、家出……?」
「そうかもしれない。その証拠に、白石の両親は街を探し回っているらしい」
でも、なんで。美羽は両親と仲が良かったはず。家出をする理由なんて無い。
(そう言えば……放課後に神崎のところに行くとか言ってたはず)
そんなことを考えていると、職員室に電話の音が鳴り響いた。
「すみません、四組の生徒で、病院からです……」
「は、はい! 変わります!」
担任は慌てて受話器を肩と頬で挟み込み、片手でメモ帳を引き寄せながら応対を始めた。その仕草だけで、ただ事じゃないと分かる。
「――い! あ、なるほど……ありがとうございます!」
担任は受話器を置く前に、一瞬だけ固まった。
その沈黙が、職員室の空気をさらに重くする。
「……篠宮」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
担任はメモ帳を見下ろし、言葉を慎重に選ぶように口を開く。
「白石の場所が見つかったぞ。どうやら、神崎の奴が救急搬送されて入院したようでな、それに付き合っているらしい」
「え? なんで?」
「詳しいことは俺も分からん。俺は詳細を聞くために病院に行くし、白石の両親にも伝えるつもりだが、篠宮はどうする?」
「……わ、わたしも行きます!」
気づいたら、声が勝手に飛び出していた。
「そうか。本来なら止めるべきなんだろうけど、あの二人が一緒にいることが納得できなくてな」
「ですよね……昨日まで、いじめられていたはずなのに……」
「まぁ、一緒に行けば、答えはわかるだろう」
こうして、わたしたちは美羽たちがいる病院へと向かった。
そのことには後悔が無いけど、そのせいで、ちょっとめんどくさい姉妹と関わり続けることになったのだった。




