姉妹喧嘩3
「美羽……」
わたしの姿を見て、紅葉が呟く。
「なんで、戻ってきたの? 消えてって、言ったでしょ」
紅葉の声は弱くて、震えていて、怒っているようで、でもどこか怯えているようにも聞こえた。
わたしは一歩だけ近づいた。
紅葉の視線が、逃げるみたいに揺れる。
「……戻ってきたよ」
それだけ言うと、紅葉の喉がかすかに動いた。
「だから、消えてって言ったでしょ」
「……うん、そうだね」
「じゃあ、なんで戻ってきたの?」
「ただの我儘だよ」
一瞬だけ目を閉じ、呼吸を整える。
胸の奥がまだ痛い。でも、その痛みごと抱えて進むと決めた。
「……我儘って、何それ……」
「紅葉が消えてって言ったのは分かってるよ。でも、わたしは……紅葉のそばにいたいって思ったの」
紅葉の目が揺れた。拒絶の揺れじゃない。理解できないものに触れたときの、戸惑いの揺れ。
「……意味、わかんない」
「そうだね。でも、これはわたしの本音なんだ。高校になってからの最初の友達としても、わたしの唯一の姉としても、わたしは紅葉と仲良くなりたいんだ」
息を呑む声が聞こえる。
紅葉の眼には動揺が浮かんでいて、わたしの言葉を拒絶したいのに、拒絶できていないようだった。
「全部、話したでしょ」
「うん、全部聞いた。わたしの存在がどれだけ紅葉の人生を狂わしたのかも知っているよ」
「なのに……なんで、私に近づいてくるの?」
「言ったでしょ。仲良くなりたいからだって。何回聞いても、答えは変わらないよ」
紅葉の側に近づいて行く。
「こないでっ」
紅葉は、わたしから離れようとして、ベッドの上で身体を引いた。
けれど、点滴の管が腕に繋がっているせいで、逃げる場所なんてどこにもない。
その事実に気づいた瞬間、紅葉の表情が一気に強張った。
逃げたいのに逃げられない。
拒絶したいのに拒絶しきれない。
そんな矛盾が、紅葉の全身から滲み出ていた。
「……紅葉。わたしのことが嫌いなのか教えて」
長い沈黙。
紅葉は、わたしの言葉を聞いた瞬間、まるで呼吸の仕方を忘れたみたいに固まった。目を伏せるでもなく、睨むでもなく、ただ――動けない。
「……嫌い、じゃ……ない……」
ようやく絞り出した声は、かすれていて、震えていて……でも、確かに本音だった。
けれど、続いた言葉はそれだけじゃなかった。
「でも、私は美羽のことをいじめたんだよ。……どんな理由があっても、それは決して許される物じゃない」
紅葉は、言葉を吐き出すというより、搾り出していた。自分を罰するための告白みたいに。
わたしの方を見ようとしない。でも、逃げ切れてもいない。
「私は、美羽を傷つけた。羨ましくて、憎くて、でも――大好きで。そんな自分が嫌で、どうしていいか分からなかった。醜い八つ当たりを続けたんだ」
紅葉は、自分の言葉で自分のことを傷つけていく。
まるで、胸の奥に溜め込んできた棘を、ひとつずつ自分の手で引き抜いているみたいだった。痛いはずなのに、止められない。止めたら、自分が自分でなくなるとでも思っているみたいに。
「正直に謝れば、美羽は許してくれるかもしれないって、どこかで期待してしまってる。でも、そんな自分が……いちばん嫌いなんだよ……」
紅葉のシーツを握りしめる力が強くなっていく。
その指先は白くなって、震えていて――まるで、自分の心を必死に押さえつけているみたいだった。
「だから、私の目の前からいなくなるか、むしろ私のことを傷つけてよ」
紅葉の声は震えていた。
強がっているようで、でもその奥には、どうしていいか分からないという悲鳴が混ざっていた。
たぶん、紅葉は罪という物を初めて背負ったのかもしれない。普通の人は、みんな幼いころに罪を背負う。
友達を殴ってしまった。我儘を言って大人を困らしてしまった。大声を出して周りの人に迷惑をかけてしまった。物の取り合いで、友達と喧嘩をしてしまった。そんな、とても小さな罪を。
けれど、紅葉はそんなことが出来るほど、幸せな人生を送ることが出来ていなかった。
だから、私をいじめたということが初めての罪であり、背負いきれないほど重かったのだろう。
紅葉は、ずっと罪を犯す自由すら持てなかった。誰かに甘えることも、わがままを言うことも、泣き叫ぶことも許されない環境で育ってきた。
だから――初めての罪は、彼女にとってあまりにも大きすぎた。
胸がまだ痛む。被害者である自分が、彼女の罪を代わりに背負うことはできない。
それでも、紅葉が潰れるのを見ていられない。私はベッドの縁に腰を下ろし、触れない距離で手を差し出した。
「わたしは紅葉を責めない。でも、押しつぶされそうになったら、絶対に支えるよ」
言葉は説明ではなく、約束にしたかった。
紅葉の目が震え、手がわたしの方へと伸びてくる。でも、それが届くことは無かった。
「でも、出来ないよ。私には、救われる価値がないんだから」
その言葉に、私は一瞬言葉を失った。胸の痛みが鋭くなる。だが、言葉より先に体が動いた。私はゆっくりと手を伸ばし、紅葉の手を掴む。
さらにもう一歩、自然に手を回して彼女の背中に触れた。骨の細さが伝わり、胸がぎゅっと締めつけられる。
「美羽……?」
紅葉の声がかすかに震えた。
私の指先が肩甲骨のあたりをそっと包むと、彼女は驚きで目を見開き、次に目を閉じて小さく息を吐いた。触れてはいけない距離を越えたわけではない。けれど、その温度は確かに伝わった。
「価値なんて、関係ない! 紅葉はわたしの大事な友達なんだ! 何があっても、誰に何を言われても、私は絶対に見捨てない。救われる価値がないなんて言わせない。これからずっと、紅葉の幸せを一緒に探すから!」
私の言葉が終わると、紅葉の体が一度だけ大きく震えた。目を閉じたまま、唇を噛みしめていたはずの顔が、次の瞬間には崩れるように緩んでいく。
嗚咽が小さく漏れ、指先が私のシャツをぎゅっと掴んだ。
「……どうして、そんなに……私のことを……」
「だから、言ってるでしょ。紅葉は、わたしの大切な友達なんだって」
紅葉は震える手で私の服をさらに強く握りしめた。目はまだ閉じたままで、声はかすれている。
「ごめんなさい」
彼女の瞳からは、透明な雫が流れて、わたしの服を濡らしていく。
「ずっと酷いことをして、ごめんなさい。美羽は悪いことをしてないのに、八つ当たりしてごめんなさい」
紅葉の声は震え、言葉は途切れ途切れだった。透明な雫が頬を伝い、私の服を濡らす。裾を握る力が少しだけ強くなったのを感じて、私は息を吐いた。
わたしは、背中に回した手のひらをそっと押し当てる。強く抱きしめるわけではない。ただ、ここにいるという事実を伝えたかった。
「いいよ」
許すということは、過去を消すことじゃない。忘れることでも、なかったことにすることでもない。
互いに過去に向き合って、これからを一緒に生きていくこと――それが私の言う「許す」だった。
こうしてみると、紅葉は思ったよりも小さくて、子供のように見えてしまう。肩の線が細く、声の震えが幼さを残している。私はその小ささを抱きしめるように、もう一度だけ手のひらを強めた。
「ねぇ……いいかな。これから、紅葉を――お姉ちゃんって呼んでいい?」
その言葉は、わたしにとって賭けだった。
紅葉にとって、わたしは父の不倫相手の子として生まれた元凶であり、憎しみの対象だった。父が去った日から、紅葉の世界は壊れてしまった。だから、わたしが『妹』としてその世界に踏み込むことは、彼女にとってさらに傷を抉るかもしれない。
紅葉はしばらく動かなかった。指先の力が一度だけ強くなり、次にふっと抜ける。目を閉じたまま、唇を震わせている。病室の白い天井が、二人の間の沈黙をやわらかく包んでいた。
そして、紅葉がゆっくりと目を開け、かすれた声で言った。
「……いいよ。呼んでくれていいよ」
その一言に、胸の奥がじんと温かくなる。わたしは震える声で、ほんの一語を吐き出した。
「お姉ちゃん……」
紅葉の頭が私の胸にふっと寄せられ、わたしの背に回った手がどんどん力を強めていく。そして、わたしも背中に回した手のひらをそっと強め、彼女の小ささを包み込む。
ここに至るまで、いろんなことがあった。いじめという歪んだ関係から、紅葉の自殺未遂というあってはいけないことまで。でも、これでようやく、わたしたちは同じ方向を向けるようになった気がしたんだ。




