姉妹喧嘩2
「それで、本音はどうなんですか?」
美羽が病室から出た後、医師の人が私に問いかけて来た。
看護師は美羽のことを追いかけていたから、そっちは何とかなるのだろうけど、医師がこんなことを言ってくるなんて、少し予想外だ。
「本音? 何のことですか?」
「嘘を吐く患者さんも多いのでね、大抵の嘘は見抜けるようになったんですよ。後、無理に敬語使わなくていいですよ」
「あっそ、気持ち悪い」
吐き捨てるように言った瞬間、医師は眉ひとつ動かさなかった。
怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ淡々とした目で私を見ている。
「そこまで死にたいのですか?」
「そうだよ、生きる理由なんて無いんだし。まさか、生きていれば、きっと幸せになれるとは言わないよね」
「いいえ。この世は平等と言う名の不平等の元で成り立っていますから、生きていれば幸せになれるとは言えませんよ。……貴方に嘘が通用するなら言いますけど」
「うわっ、悪い人」
わざとらしく肩をすくめてみせると、医師は小さく息を吐いた。
呆れたようでいて、どこか慣れているような、そんな表情。
「悪い人でも構いませんよ。あなたが本音を言ってくれるなら」
「はいはい。それなら、一生ここに居れば? そのせいで、他の患者さんが死んじゃうかもね」
不謹慎だろうけど、このくらいの抵抗はしていいはずだ。
……でも、考えが甘かった。私の抵抗に対する、医師の反撃はとても鋭く、私の傷口を抉ったのだ。
「はぁ、仕方がありませんね。それなら、症状の説明だけをしたら戻りますよ。まずは、無痛病についての話ですが――」
「は?」
喉の奥がひゅっと縮んだ。胸の奥がざわつく。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「……なんで、それを」
声が震えた。自分でも驚くほど、弱い声だった。
医師はカルテを閉じ、わたしの反応をじっと観察している。まるで、逃げ道をひとつずつ塞いでいくみたいに。
「当然ですよ。白石さんには濁しましたが、貴方の傷は普通なら耐えることが出来ないはずです。それなのに、今まで難なく暮らすことが出来ていた。このことは、無痛病だと判断する理由になり得ます。あと……視覚、聴覚、嗅覚、味覚――なるほど、聴覚以外は異常があるのですね」
「うる、さい!」
持てる力を全部使って、医師に向かって殴り掛かる。でも、少し前まで餓死しかけていた身体だ。その暴力はとても軽く、痛みさえもたらすことが出来ない。
「おそらく、心因性のモノでしょう。物心つく前からの虐待が原因なのではありませんか?」
「――ッ」
「でも、それではおかしな点がありますね。物心つく前から異常があったとすると、その異常に気付くことが出来ないはず……もしかして、条件付きで治りましたか? 例えば、白石さんが近くにいる時だけとか。特定の人物と一緒にいる時だけ痛覚が部分的に戻るという条件付き改善が確認されていますし」
「だまれ! だまれ! だまれぇ!」
それ以上言うな! もう聞きたくない!
私は両手を耳に当てる。なんで、なんで聴覚だけは無事なんだ!? 聴覚さえなければ、こんな言葉を聞く必要なんて無かったのに。
でも、耳を塞いだ程度で、医師の言葉を聞こえないようにすることは出来なかった。
「そういうことですか。白石さんが近くにいると、貴方は死にたくないと思ってしまうのですね。だから、無理やりでも遠ざけて、死のうとする決心を揺らがないようにした。分かりやすい考えですね、自分のためなら、他人をどれだけ傷つけてもいいなんて思っているのは、追い込まれている人が良く考えることです」
「うるさいうるさいうるさい!」
何なの、この医師は、言われてくないことをどんどん言っていく。このまま続けると……
「いや……もしかして、他にも理由があるんですか? 例えば……聴覚以外に心因性の障害を持っていて、精神がまともに成長できなかった異常者が、白石さんのような人物の隣にいる資格はない、とか」
「――っ」
思わず耳から手を離してしまう。医師の言葉は全て的確で、的を射ていたんだ。
美羽は、私とは違う。
ちゃんとした家で育って、誰かに抱きしめられて、笑って、泣いて、友達を作って……普通に生きてきた。私が一度も手に入れられなかったものを、全部持っている。
そんな美羽の隣に、こんな壊れた私が立っていいはずがない。だって、私は異常者だ。痛みも、味も、匂いも、色も、まともに感じられない。人として欠けているところばかりで、まともに育つことすらできなかった。
そんな人が美羽の横に立つなんて、迷惑をかけるだけなんだ。
「そんな考えが正しいと思っているんですか?」
「……わかってる」
「何か言いましたか?」
「わかってるって、言ったんだよ!」
声が裏返った。怒鳴ったつもりなのに、震えていて、まるで泣き声みたいだった。わかってる。そんなこと、ずっと前からわかってる。私は壊れてる。まともじゃない。美羽の隣に立つ資格なんて、最初からない。
けど、こんな考えは逃げてるだけだって。でも、耐えられないんだよ。人間は強くない。だから、たまには逃げていいじゃんか。
「ねぇ、逃げるのは悪いことなの?」
「いいえ、全く悪くありません。辛いことがあれば、逃げてもいいんです。――ただし、本当に逃げたいという場合だけですけど」
その言葉は、私の心に強く刺さった。
本当に、逃げたいと思っているのか?
「貴方は本当に逃げたいのですか? それとも、一時的な苦しみから逃れるために、本当の望みから目を逸らしているだけですか?」
「……」
何も言うことが出来ない。
逃げたいのかもしれない。 でも、逃げたくないのかもしれない。
どっちが本音なのか、胸の奥がぐらぐら揺れて、息がうまくできなかった。
その答えが形になるより先に、病室のドアが開いた。
――――――――――――――――――――――――
屋上の風は冷たかった。
でも、その冷たさがどこまでわたしに届いているのか、よく分からなかった。
「白石さん、大丈夫ですか?」
背後から声がして振り返ると、看護師の椎名さんが立っていた。
息も乱れていないし、責めるような気配もない。
ただ、わたしの様子を静かに見ていた。
「……ごめんなさい。勝手に出てきて」
「謝らなくていいですよ。辛かったんでしょう?」
その言葉に、わたしの肩がわずかに震えた。
「辛いとか……そういうんじゃ、ないです」
「じゃあ、何なんですか?」
椎名さんは距離を詰めるでもなく、ただ問いかけてくる。
その優しさが、逆につらかった。
「……わたしのせいなんです。紅葉があんなふうになったの、全部……」
声が震えた。
風のせいじゃない。涙をこらえているせいだ。
「わたしが生まれてなかったら、紅葉は苦しむことは無かったんですよ」
言った瞬間、自分の声が震えているのが分かった。わたしに罪はない。でも、わたしの存在には罪がある。そんな考えが、胸の奥にこびりついて離れなかった。
椎名さんは、すぐには何も言わなかった。ただ、わたしの言葉を受け止めるように、静かに息を吸った。
「これから、どうするつもりなんですか?」
「それは、紅葉の目の前から消えて……」
「それが彼女のためになるんですか?」
その問いが胸に刺さった瞬間、息が止まった。
わたしは、紅葉のために消えようとしている。
そう思っていた。
そう信じていた。
そうするしかないと思い込んでいた。
でも――
椎名さんの問いは、その思い込みを一瞬で揺らした。
「それは……紅葉がそう言って……」
「本当にそうでしょうか? あのままだと、もう一度自殺しますよ」
「本当にそうでしょうか? あのままだと、もう一度自分を傷つけてしまう可能性がありますよ」
椎名さんの言葉は、脅しでも断言でもなく、ただ事実を静かに置くような響きだった。
だからこそ、胸の奥に深く刺さった。
「……わたしが、紅葉を追い詰めたんです」
「違いますよ」
即答だった。
優しいのに、迷いのない声。
「神崎さんを追い詰めたのはあなたの存在ではありません。追い詰めたのは、彼女が抱えてきた環境と、長い時間の中で積み重なった痛みです」
「でも……紅葉は、わたしのせいで……」
「白石さん」
名前を呼ばれただけで、胸がぎゅっと痛んだ。
「神崎さんは、あなたを理由にしてしまっただけです。あなたが原因ではありません」
「理由……?」
「ええ。人は苦しいとき、誰かを理由にしてしまうことがあります。羨ましさも、怒りも、悲しさも、全部まとめて押しつけてしまうことがあるんです」
紅葉の涙が頭に浮かんだ。
あの震える声。
わたしの襟を掴んだ手。
「神崎さんは、あなたを憎んだわけじゃありません。あなたを特別に思っていたからこそ、理由にしてしまったんです」
「特、別?」
「そうです。本当にどうでもいい相手に、あんなに心を揺らしたりしませんし、あなたは神崎さんの大切な友達なんでしょう?」
胸の奥が熱くなった。
痛いのに、どこか温かい。
「白石さん。あなたが消えたら、神崎さんはどう思うと思いますか?」
その問いに、息が止まった。
「紅葉は……自分のせいだって……」
「そうです。あなたが消えることは、神崎さんをさらに追い詰めるだけです」
椎名さんは、わたしの目をまっすぐ見つめた。
「だから、あなたが消えるという選択肢は、神崎さんのためではありません。それは、あなたが自分の痛みから逃げるための選択です」
「……」
「ええ。でも、逃げたくなるのは悪いことではありません。ただ、逃げる理由を間違えてはいけないんです」
風が吹いて、涙が頬を伝った。
「白石さん。あなたは紅葉さんと、どうなりたいんですか?」
その問いは、胸の奥にそっと触れるようだった。
わたしは震える声で答えた。
「わたしは……紅葉と向き合いたいです。逃げるんじゃなくて……ちゃんと、向き合いたい」
椎名さんは、やわらかく微笑んだ。
「それなら、大丈夫です。では、戻りましょうか」
屋上の扉に手をかけた瞬間、指先が少し震えた。
怖さはまだ残っている。胸の奥の痛みも消えていない。
でも、それでも――戻ると決めた。
階段を降りるたび、足音がやけに大きく響いた。
逃げ出したときとは違う。
一歩進むごとに、胸の奥の迷いが少しずつ薄れていく。
(大丈夫。逃げないって決めたんだから)
病室のドアの前に立ち、震える手でノブを握る。
冷たい金属の感触が、わたしの決意を確かめるみたいだった。
ゆっくりと扉を開ける。
白いシーツ。規則的な機械音。細い腕に繋がれた点滴。
そして――
「美羽……」
わたしは、また紅葉と向き合ったんだ。




