姉妹喧嘩1
次の日、わたしは学校に行かなかった。
昨日は、家にも帰らず、紅葉の家を勝手に使って一日を過ごしたんだ。紅葉の家は、暖房なども無く、碌な毛布も無い。なのに、ボロボロの外壁や窓からは隙間風が吹き込んできて、暮らすことが出来ないほど寒かった。
けれど、紅葉がこんな暮らしを今までしてきたのかと思うと、不思議と耐えることが出来た。
そして、今日のわたしは、病院へと向かった。
学校には、熱が出たから休むと連絡してるから、親に連絡が届くことはないはず。だから、紅葉としっかり向き合うことが出来るんだ。
「すみません、324室の神崎さんの……」
受付の人に声をかけようとした瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
昨日からずっと、紅葉の寝顔しか思い出せない。
あの冷たさ。
あの弱い呼吸。
あの、返事のない静けさ。
「……面会の方ですね。どうぞ」
受付の人が微笑んでくれたけれど、その優しさすら胸に刺さる。
わたしは小さく頭を下げて、エレベーターへ向かった。
ボタンを押す指が震えている。
昨日よりも、怖い。
(もし……もし、状態が悪くなってたら……)
そんな考えが頭をよぎるたび、心臓が痛いほど跳ねた。
エレベーターの扉が開き、わたしはゆっくりと病室の前に立つ。
「……紅葉」
扉を開けると、昨日と同じ光景が広がっていた。
白いシーツ。
規則的な機械音。
細い腕に繋がれた点滴。
そして――動かない紅葉。
わたしはベッドのそばに歩み寄り、そっと紅葉の手を握った。
冷たい。
でも、昨日より少しだけ温かい気がした。
「……来たよ、紅葉」
返事はない。
まつげは動かない。
それでも、わたしは話し続けた。
「紅葉の家、行ったんだ。……すごく寒くて、ボロボロで、誰も住んでないみたいで……」
言葉が震える。
「……あんなところで、ずっとひとりで……どうして……」
涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。
「紅葉、わたしね……全部知りたい。あなたが何を抱えてたのか、どうしてわたしをいじめたのか、なんでわたしと血が繋がっているのか……」
紅葉の手を両手で包み込む。
「だから……お願い。目を覚ましてよ。わたし、ここにいるから」
一時間、二時間、三時間……わたしはずっと、紅葉が目を覚ますことを待ち続けた。
そして――
「うっ……」
かすかな声が、紅葉の喉の奥から漏れた。
「紅葉っ!?」
思わず身を乗り出す。
けれど、紅葉のまぶたは開かない。
目を覚ましたわけじゃない。
それでも――確かに、今、声がした。
「紅葉……聞こえるの? わたしの声、届いてるの?」
体を揺らすことは出来ない。
でも、わたしは何度も紅葉に呼び掛けて、目を開けるのを待ち続け、もう一度、紅葉の手を握りしめた。
「紅葉、わたしだよ。美羽だよ……聞こえてるなら、少しでいいから……」
その時だった。
わたしの手が弱い力で握り返され、紅葉の目蓋が一瞬動いたのだ。
「紅葉!」
「み、う……?」
紅葉が目を覚まし、わたしと目が合う。
その瞳は、とっても弱々しくて、今にも無くなってしまいそう。
「待ってて! お医者さんを読んで来るから!」
そう言って扉に向かおうとした瞬間――
カチャ、と病室のドアが開いた。
「神崎さんの容態、どうですか――あっ」
入ってきたのは、昨日対応してくれた医師と紅葉を担当している看護師だった。
わたしは思わず振り返る。
「先生……! 紅葉が、目を覚ましました!」
わたしの声に、医師の表情が一瞬だけ緩む。
すぐに真剣な顔に戻り、紅葉のそばへ駆け寄った。
「神崎さん、分かりますか? 私は昨日も診察した佐伯です。今、苦しくありませんか?」
紅葉はゆっくりと視線を動かし、医師を見た。
けれど、その瞳はすぐにわたしの方へ戻ってくる。
「……みう」
弱々しい声が、かすかに震えながら漏れた。
「紅葉、大丈夫だよ。ここにいるから」
わたしは紅葉の手を握りしめたまま、医師の方を見上げる。
「先生、紅葉……本当に大丈夫なんですか?」
医師は紅葉の脈を取りながら、慎重に言葉を選んだ。
「意識が戻ったのは良い兆候です。ただ、まだ非常に体力が落ちています。無理に話させず、安心させてあげてください」
「……はい」
わたしが頷くと、紅葉の指がわたしの手を弱く握り返した。
「なんで……」
「紅葉?」
「なんで、わたしをたすけたの……?」
紅葉の指が、震えながらわたしの襟を掴む。
その力は弱いのに、必死で、痛いほど切実だった。
「紅葉……?」
わたしは驚いて身を固くする。
紅葉の顔は近い。弱々しい呼吸が、かすかに胸元に触れる。
「わたしは、たすけてほしいだなんて……いって、ない! しなせてよ……それが、わたしののぞみなんだから!」
紅葉の声は震えていて、怒りでも憎しみでもなく――ただ、苦しさが滲んでいた。
胸が締めつけられる。
でも、わたしは紅葉の手を離さなかった。
「神崎さん、落ち着いてください」
医師がすぐに紅葉の肩を支え、静かな声で呼びかける。
「あなたが今感じている苦しさは、本当に大きなものです。でも、今は体が限界に近い状態で、思考も不安定になっています。まずは呼吸を整えましょう。ここは安全です」
「かんけい、ない! これは、わたしがえらんだみちなんだ! はぁ……はぁ……だから! たすけるひつようなんてなかった! わたしのことなんか、ほうっておいてよ!」
紅葉の声は荒く、呼吸が乱れていた。
でも、その言葉を許容することは出来なかった。紅葉がのせいで、わたしはこんなにも苦しんだんだから、逃げるなんて許せるはずがない。
「――っ」
わたしも紅葉の襟を掴む。
「放っておいてって、そんなことできるわけないでしょ! 紅葉はわたしの友達なんだよ! わたしが友達の自殺を見逃せるわけないじゃんか……。それに、わたしの姉だったって事実も隠して、全部謎に包んだまま逃げないでよ。わたしをいじめた責任は、絶対にとってもらうから!」
言い切った瞬間、紅葉の目が大きく揺れた。
怒りでも反発でもなく――怯えと、痛みと、どうしようもない混乱が混ざったような表情。
「みう……?」
「だから、逃げるな! 全部、全部説明してよ」
わたしの声が病室に響いた瞬間、紅葉の肩がびくりと震えた。
その瞳は大きく揺れ、怯えと混乱が入り混じっている。
そして――
「……そう、だね」
やっと紅葉が、わたしの襟から手を離し、上体をベッドに倒した。
その瞳には、怯えや困惑のようなものは消え、代わりに諦めのようなものが宿っている。
「いいの? 全部言って」
「……うん。何でも、受け入れるよ」
「それなら、全部言うよ」
指が震え、喉が酷く乾いてくる。
これ以上聞くなと本能が呼びかけてきて、それに従いたくなってくる。でも、それは責任から逃げているだけだ。わたしが紅葉の妹で、わたしの存在が紅葉の人生を狂わせた可能性がある以上、そこから逃げることは出来ないんだ。
紅葉の喉が、ごくりと小さく鳴った。 何かを飲み込むみたいに、一度だけ目を閉じてから、ゆっくりと開く。
「……美羽が、私の……腹違いの妹だからだよ。私の父親が、金目当てにお母さんと結婚して、実際は金が無かったから、不倫相手の美羽の母親の方に行ったんだ。養育費とか払ってくれなかったし……お母さんはそのせいで、物心つく前から私のことを虐待してた。そのせいで、私はいつも一人。幼稚園でも、小学校でも、中学校でも、私は貧乏で傷だらけだったから、友達なんて出来なかった」
「……」
「そして、初めてできた友達が美羽だったんだ。でも、その美羽が私の人生を狂わした妹。そんな裏切り許せるはずがないじゃんか……」
紅葉の声は震えていた。怒っているようで、でもその奥には別の感情が混ざっている。
悔しさ、悲しさ、羨ましさ……そして、どうしようもない孤独。
「紅葉……」
わたしは言葉を失った。
責められているわけじゃないと分かっていても、胸が痛い。
でも、それ以上に――紅葉がどれだけ苦しんできたのかが、痛いほど伝わってくる。
「美羽は……いいよね。ちゃんとした家で育って……お母さんに抱きしめられて……ご飯もあって、友達もいて……普通に笑って、普通に泣いて……普通に、生きてきたんだよね」
紅葉の目が、わたしをまっすぐ刺す。
「わたしは……ずっと、羨ましかった。ずっと、欲しかった。美羽が持ってるもの、全部……わたしには一つもなかった」
その言葉は、刃物みたいに鋭いのに、同時に泣き出しそうなほど弱かった。
「だから……美羽が妹だって知ったとき……わたしの人生を壊した原因が、美羽なんだって……そう思っちゃったんだよ」
「紅葉、それは……」
「分かってるよ。美羽が悪いわけじゃないってことくらい……頭では、ずっと分かってた」
紅葉は自嘲するように笑った。
「でもね……心が、どうしても許してくれなかった。何よりも大切な友達の裏切りへの怒りと、美羽に苦痛を与えることによる悦びに耐えれなくて――」
紅葉の指が、わたしの手をぎゅっと握る。
「だから……美羽をいじめた。近づきたかったのに……近づいちゃいけない気がして……でも、離れたくなくて……どうしたらいいか分からなくて……全部、全部……間違えた」
紅葉の目に涙が溜まり、ぽたりと落ちた。
「だから、私の前から消えてよ。……もういいでしょ? わたしから全て奪ったんだから……死ぬ機会すら奪わないでよ」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で何かがひび割れた。
紅葉のせいじゃない。
悪いのは父親で、紅葉の母親で、環境で――そんな理屈は、頭では分かっている。でも……でも、紅葉の涙を見た瞬間、わたしの中の何かが、音を立てて崩れた。
(わたしが……紅葉を壊したんだ)
その考えが、喉の奥に刺さったまま抜けない。
(わたしが生まれなければ……紅葉は捨てられなかった)
(わたしがいなければ……紅葉は殴られなかった)
(わたしがいなければ……紅葉は、あんな家で生きなくてよかった)
紅葉の苦しみが、全部わたしの存在に繋がっていく。
そんなはずないのに。
そんなこと、分かっているのに。
理解と罪悪感が、胸の中でぐちゃぐちゃに絡み合って、息がうまく吸えなくなる。
わたしのせいだとはわかっていたけど、ここまでだと思っていなかった。……いや、向き合いたくない事実から、わたしは逃げていただけなんだ。
だから……
「ごめんね……紅葉。わたしのせいで――」
「謝罪なんて、いらない。だから……わたしの目の前から消えて。これ以上、見たくない」
その言葉と同時に、わたしは逃げてしまった。
逃げるつもりなんてなかった。
紅葉の手を離すつもりなんて、なかった。
でも、あの瞬間――胸の奥で何かがぷつんと切れた。
足が勝手に動いた。
呼吸が浅くなって、視界がにじんで、紅葉の声も、医師の呼びかけも、全部遠くに聞こえた。
(わたしが……紅葉を壊したんだ)
その言葉だけが、頭の中で何度も何度も反響する。
(わたしが生まれたせいで……紅葉は全部失った)
胸が痛い。
痛くて、痛くて、どうしようもない。
廊下に出た瞬間、足が震えた。
でも止まらなかった。
止まったら、崩れてしまいそうだった。
(わたしなんて……紅葉の前にいる資格なんて……)
そんな考えが、喉の奥に刺さったまま抜けない。
気づけば、エレベーターのボタンを押していた。
上へ。
もっと上へ。
逃げ場なんてどこにもないのに、それでも、上へ。
扉が開くと、冷たい風が頬を打った。
屋上。
誰もいない、広い空間。白いフェンス。冬の空気。
わたしはふらふらと歩き、フェンスに手をかけた。
風が強い。
でも、その冷たさが、今のわたしには心地よかった。
(紅葉……ごめん……)
胸の奥が痛い。
痛くて、痛くて、どうしようもない。
(わたしが……全部……)
言葉にならない罪悪感が、喉の奥で渦を巻く。
わたしはフェンスに額を押しつけ、ただ、震える息を吐いた。
逃げたかった。
紅葉の涙からも、紅葉の苦しみからも、そして――自分自身からも。
でも、逃げても逃げても、胸の奥の痛みだけは、どこにも行ってくれなかった。
初冬の風が頬を刺す。
その冷たさだけが、わたしをまだこの世界に繋ぎ止めていた。




