屈服(裏)
「美羽、また明日ね!」
「うん、また明日」
私の美羽が、友達と別れて、昇降口から出てくる。
その校庭は夕焼けに染まり、赤い光が長い影を伸ばしている。美羽が側にいるから、その景色はより鮮明に、より美しく見えた。
「美羽、こっちに来なよ」
だから、私は呼んだんだ。
美羽が近くにいれば、私は普通になれる。
美羽が近くにいれば、美しさという物を知れる。
美羽が近くにいれば……幸せというものを実感できる。
もう、この気持ちは抑えられない。
「どうしたの? 立ち止まって。私の言うことを聞かないと、どうなるのかわかっているんだよね」
「……うん」
そうして、美羽はゆっくりと私の後ろを歩いていく。
ああ、美羽が私の後ろを歩いてくれてる。それだけで、本当にうれしい。――だって、私のことを見てくれてるってことだから。
私たちは、誰もいない教室に入り、改めて向かい合う。この教室は、昼間の喧騒が嘘みたいに静まり返っていて、机と椅子の影が長く伸びていた。やっぱり、私たち二人には、このような場所が相応しい。
「ここなら、誰にも邪魔されないよね」
「……あの二人はいないんだね」
「うん、部活だからね」
そして、紅葉はわたしのほうに一歩近づく。
「ねぇ、いつになったら、壊れてくれるの?」
私は手を伸ばし、優しく美羽の頬を撫でる。宝物を扱うように丁寧に、傷を一つもつけないように。美羽に傷がついてしまうことは、友人である私が許せないから。
指先が頬をなぞるたび、わたしの心臓は痛いほど速く打って、快楽に変わっていく。
それがほんっとうに気持ちよくて、何があってもやめられない。
「こわ、れる……?」
「うん。私はね、美羽に思いっきり壊れてほしいんだ。生まれてからずっと築き上げて来た物を全て壊して、これまでの人生に意味は無かったんだって、絶望してほしい」
「何を言って……」
そしたら、私と美羽は一緒になれるんだよ。
この世界に自分の居場所が無くて、誰にも共感されず、たった一人白黒の世界で生きる。そんな生き方に。
でも、安心して。美羽には私がいるから、何があっても、どんな壁があっても、私は美羽の側にずっといるよ。
「言葉通りの意味だよ。美羽には、今まで信じてきたことが全て信じれなくなって、他人に対して優しく接することが無駄だったんだなって理解してほしいってこと。ははっ、その時の美羽はどんな表情をするのかな? 本当に楽しみで、待ちきれないよ」
美羽の眼が恐怖に染まってる。
いいね、ほんとにいい! 私のことを見てくれているんだよ。他の何物でもなく、ただ一人の――この世界に適応出来なかった異常者を。
今までは、生まれてこなかったらいいなと思ってた。でも、美羽がいたから、生まれてよかったなって思えたんだ。
「ほら、美羽がここまで頑張って耐えているのに、周りの人は誰も助けてくれないよ。ああ、可愛そうな美羽、美羽は友達の異変を察知すると、すぐに助けてあげているのに、友達は美羽のことを見ていないなんて! ほんと、失望するよね」
「く、狂ってる……」
「狂ってる? そんなわけないでしょ。私はこんなにも正気なんだから。ねぇ。そう思うよね」
私が狂ってるわけないじゃない。私はただ、幸せになるために必要なことをしているだけ。
理性的じゃないと、こんなこと出来ないよ。
『ほんとに?』
誰かが耳元で囁いているけど、そんな声……聞こえない。
「……ねぇ、初めて会った時のこと、覚えてる?」
「覚えてるけど、それがどうしたの?」
あの時のことは鮮明に覚えている。初めての色、初めての温かさ、初めての香り――そのすべてが衝撃的で、何よりもうれしかったことだから。
「あの時の神崎さん……いいや、紅葉は優しくて、頼もしくて、温かかった。なのに、その次の日から人が変わったように冷たくなって、とうとう今みたいになった。なんで、こうなったの? わたしたちは、友達じゃなかった――いたっ!」
それは、駄目。
美羽は、私がとっても憎んでいる妹なんだよ。勝手に、友達という場所に上がらないでよ。美羽には、そんな権利が無いんだからさ。
「友達? あははっ、まだ美羽はそんなこと思ってたんだ。……そんなの、もう昔のこと。今はもう、いじめる側といじめられる側でしかないんだからさ」
そうだよ。私と美羽は、いじめる側といじめられる側。もう友達だなんて言える関係じゃないんだ。
だから、そんな目で私を見ないで。
「い、いたいっ。やめてっ……」
「あっ、ごめんごめん。可愛い顔を傷つけちゃった。私は、美羽の身体を傷つけたいわけじゃないんだよ。これは本当だから、信じてくれる?」
「う、うん」
「やっぱり、美羽は優しいね。だからこそ、もっと壊したくなっちゃう」
美羽は、私の言う通りに生きればいい。そうすれば、私のことを傷つけることも無くなるし、もっと私を幸せにしてくれるはずだから。たとえ、美羽自身が幸せじゃなくても……ううん、それは駄目。美羽も幸せじゃないと、駄目なんだ。
難しいね。半分血が繋がっているはずなのに、こんなにも違う所があるんだから。
「何、しているの?」
「準備だよ、ただの準備。まだ美羽の弱みを握ってなかったから」
私は靴下を脱ぐ。
靴下を脱ぐと、足が冷たく乾燥した空気にさらされて、少しだけ気持ちよかった。
「え……何をするつもりなの?」
「ほら、美羽。私の言うことをちゃんと聞いてくれるかどうか、試してみたいだけ」
そう、私はクラスメイト達の秘密を握ってはいたけど、美羽自身の弱みは握っていなかった。
弱みと言えば、水を掛けられてびしょぬれになっている姿くらいであり、それくらいであれば、不特定多数にばらまかれても、何とか耐えることが出来るかもしれない。
だって、私にはそういうのが分からないから、ちょっとだけ不安なんだ。
「い、嫌だよ……」
「へぇ、クラスが崩壊するけど、それでもいいの?」
「それは……」
「ほら、さっさとしなよ」
素足を美羽の前に差し出した瞬間、美羽の肩がびくりと震えた。
その反応が、胸の奥に妙な熱を灯す。もっとその反応をして、もっと私を見てほしい。
(あっ、いけない)
前に買った安いガラケーのカメラを美羽の方に向ける。
レンズ越しに、美羽の姿が映った。怯え、困惑し、今にも逃げ出したいと思っていそうな表情。この顔を写真という形で切り取ることが出来たら、どれほど素晴らしいのだろうか? 想像するだけで、背筋がぞくぞくと蠢いてくる。
「……撮るの?」
「そう。美羽が従う姿をね。これを、美羽の両親に送るのもいいかなって思って」
「やめて!」
美羽が私の手を叩き、握っていたガラケーが宙を舞う。
それは、ゆっくりと地に墜ちて、画面にいくつかのひびが入った。まるで……私の心のように。
(あーあ、割れちゃった。ま、そんなこと、どうでもいいんだけどね)
いくら古くて安いガラケーとは言え、それを手に入れるのは金銭的に苦しかった。
でも、叩かれた手に残った熱が、これ以上ない快楽となって、麻薬のように脳を蝕んでいくのだ。本当にやめられない……もっとホシイ。
「あーあ、私の一つしかない携帯機器が壊れちゃった」
「ご、ごめん……」
「ま、いいよ。優しい美羽は、ちゃんとお詫びをしてくれるよね?」
「……どうすればいいの?」
「ま、私も優しいから、足を舐めるだけでいいよ。ほら、金銭的な要求をしないだけマシでしょ」
「……わ、わかった」
そして、美羽が私の目の前でしゃがみ、私の足に手を添えた。
暖かい、柔らかい、しっとりしてる。そんな手が、私の足に触れたんだ。
(んっ……)
さらに、冷たい物が足に触れる。
美羽の手とは、また違うざらざらとしたもの。べちゃべちゃとした水音が、静かな教室に響き、胸の奥が声を上げる。
溺れてしまいそうなほど、気持ちいい。もっと、もっと、エイエンニシテホシイ。
でも、今日はこれまで。私がこうしたのは、快楽が目的なんじゃなくて、美羽の心を折るためなんだから。
「ははっ、終わっていいよ。嫌でしょ、足を舐めるの」
「……」
そう言うと、美羽は黙って離れて頷いた。どうやら、本当に嫌だったらしい。……私は楽しかったのにね。
でも、いいや。私はお姉ちゃんなんだから、我儘な妹も許容してあげないと。
「よしよし、いい子だね。美羽は。じゃあ、今日はこれまで、また明日」
明日はどんなことをしようかな。
そんな考えを胸にしまい込み、一人で教室を出ていった。
ああ、本当に楽しみ。早く明日が来ないかな?
『……』
誰かが私のことを見ていたけど、そんなことは気にならなかった。




