美羽との出会い
お母さんが死んだ。
それも、急に。
中学三年生のある日、お母さんが交通事故で死んだ。どうやら、昼間から酒を飲んでいたせいで、酔っぱらって道路に飛び出してしまい、偶然走っていたトラックにひかれたらしい。
別に、悲しくも無いし、嬉しくも無い。そもそも、そんな感情を持ち合わせた経験ないし、お母さんの死に対する感情は虚無のみだ。
(うーん、お金は大丈夫かな?)
とは言え、影響がないわけではない。今まではお母さんが稼いだお金で家賃や食費を賄っていた。だから、これからは苦労することになるだろう。……そもそも、学費は自分で稼いでいたし、稼いだお金を勝手に酒を買うのに使われていたから、とんとんかもしれないが。
(そういえば、私はどうなるんだろうね?)
いくら私が異常者でも、未成年の子供という事実は変わらない。お母さんが死んで保護者がいなくなってしまった以上、はどこかに引き取られることになるはずだ。
でも、そのどこかがどんな場所なのか、私はよく知らない。
(施設……とか、そういうところ?)
ニュースや漫画で見たことがあるだけで、実際にどういう生活になるのかは想像もつかない。ただひとつだけ分かるのは、今の家にはもういられないということだった。
葬儀らしい葬儀もなく、形式的な手続きだけが淡々と進んでいく。
その時、とある親戚に出会った。
「あんたがあの女の子供?」
「そうですけど」
「あっそ、これから私があんたの保護者代わりになるから」
聞けば、お母さんの妹だった人らしい。別に、興味が無いからどうでもいいけど、それなりに重要なことを言ってきた。
「前もって言っとくけど、私には私の家族がいるから、あんたを家に入れるつもりは無い。あと、生活費は出すけど、毎月返して」
「……返すって、どうやってですか」
思わずそう聞き返すと、彼女は面倒くさそうに肩をすくめた。
「働けばいいでしょ。今までだってやってたんでしょ? あんたの事情なんて知らないけど、うちに迷惑かけないでくれればそれでいいから」
淡々とした声だった。
怒っているわけでも、同情しているわけでもない。
ただ、私という存在を負担として扱うための最低限の言葉だけが並んでいた。
(……まぁ、そうだよね)
私は頷いた。
反論する理由も、反論できる感情も持ち合わせていない。
「じゃあ、必要な書類は後で送るから。あんたはあんたで、勝手にやって」
そう言い残して、彼女は踵を返した。
私の名前を呼ぶことも、顔を見ようとすることもなかった。
これからの人生は、今までの人生とほとんど変わらない。虐待という物が消えただけで、今まで通り一人で、金銭的にも苦しく、毎日を生き足掻いていかないといけない。
そして――。
(特待生にならないと、高校にも行けないよね……)
中学で友達を作ることは諦めた。今のずっといじめは続いているし、もうそろそろ刃物やライターなどの道具も使いかねない。こんな状況になってしまうと、自分でも危険な状況に置かれていると理解できてしまうし、友達になれないことを察することも出来るようになる。
だから、次に賭けることにしたのだ。
(でも、高校が最後だよね)
特待生の制度があったとしても、大学まで行けるかは怪しい。
その頃には就職できる年齢になっているし、親戚が金のことで口を出してくる可能性もある。……はぁ、めんどくさい。こう考えると、お母さんの方がまだマシだったのかもしれない。
それでも私は、いじめやアルバイトで時間が削られる中、残ったわずかな時間をすべて勉強に注ぎ込んだ。
――正直、勉強は好きだ。
だって、他のことと違って、勉強はやればやった分だけ理解できるようになるから。
そんな私を見て、学校の先生たちはますます気味の悪いものを見るような目を向けてくる。……いや、今までもそうだったけどね。
中学一年の頃からずっといじめられていて、校則を破ってまでアルバイトをしているような生徒が、気づけば学校一の成績になっている。
大人から見ても、理解しがたいのかもしれない。
しかも、成績が上がった理由のほとんどは自習だ。
授業よりも自分で勉強する方を優先していたから、先生たちにとってはプライドを傷つけられたように感じたのかもしれない。
(そんなこと、どうでもいいけど)
こうして、私はどんどん成績を上げていき、高校を選べる立場になっていった。
……いや、正確には選べるように見えるだけだ。
実際には、選択肢なんてほとんどない。
家にお金はないし、親戚も私にお金を使う気はない。
だから、行ける高校はひとつだけ――特待生制度のある学校。
(落ちたら終わりだよね)
そう思うと、胸の奥が少しだけ重くなる。
不安、という言葉が正しいのかどうかは分からない。
ただ、ここで失敗したら、本当に行き場がなくなるという事実だけは理解できた。
でも、だからといって焦りはしない。
焦るという感情が、そもそもよく分からない。
(やることは変わらないし)
勉強する。
働く。
いじめられる。
寝る。
その繰り返しの中で、私はただ淡々と点数を積み上げていった。
周りの誰も、私に話しかけようとはしない。
先生たちも、必要最低限の言葉しかかけてこない。
クラスメイトたちは、相変わらず私を壊れないおもちゃとして扱っている。
それでも、成績だけは裏切らなかった。
(……高校に行けたら、少しは変わるのかな)
そんな淡い期待が、ふと胸の奥に浮かんだ。
もちろん、すぐに自分で否定する。
(変わらないよね。私が私のままなら)
それでも、前に進むしかなかった。
――――――――――――――――――――――――
そして、私は志望校に合格した。
……うん、それだけ。他に言うことは特にない。
普通に受験を受けて、普通に問題を解いて、普通に合格しただけ。
あ、もちろん特待生としてね。
そのおかげで奨学金制度も使えるようになった。
それだけの話。
(高校生になったら~友達百人できるかな、だっけ? いや、あれは小学生だったかな?……まぁ、興味ないけど)
ふと頭に浮かんだ歌を追い出しながら、制服に袖を通す。
お母さんがいなくなったおかげで、私はようやく最低限の身だしなみを整えられるようになった。
これなら、少なくとも見た目という理由でいじめられることはない……はず。
貧乏なことは、そのうちバレるんだろうけどね。
校門への道は、桜が満開に咲いていた。風に揺られて、白い花びらがひらりひらりと落ちていく。それはきっと、とても美しいのだろう。……普通の人が見ればの話だけど。
私の視界は、いつも通り白黒だった。だから、どれだけ美しい景色だろうと、私にはただの濃淡の模様にしか見えない。
(綺麗って……どんな感じなんだろうね)
そう思ってみても、答えは出ない。色が見えないことに不便を感じたことはないし、羨ましいと思ったこともない。 そもそも、色がある世界を知らないのだから、比較のしようがなかった。
そうして、いつも通りの感情で、校門を通り過ぎ、指定されている場所に行こうとする。
周りは、中学生のころからの友人たちで集まっており、新しい世界に胸を弾ませているようだった。
笑い声があちこちで弾けて、まるでこの場所だけ別の温度を持っているみたいだ。
(……いいなぁ。楽しそうで)
そう思ったのかどうか、自分でもよく分からない。
ただ、彼らの輪の中に自分が入る未来は、最初から想像できなかった。
彼女たちの邪魔をしないように、誰もいないような道を通って靴箱へと向かう。少し遠回りになるけど、私のような異常者が彼女たちの邪魔をするよりかはずっといい。
けれど、そのおかげで……そのせいで出会ってしまったんだ。
「あと、ちょっと……」
私は、聴覚以外の五感に異常がある。だからこそ、唯一残っている聴覚には自信があった。
普通なら雑音に紛れて消えてしまうような声でも、私にははっきりと届く。
(……誰かいる)
そう思って、声がした方向へと歩いていく。
そこには、桜の木があり、上を見上げてみると、枝のあいだから、同じ年くらいの女の子が必死に手を伸ばしていた。
「は?」
何をしているのだろうか。うん……これは、私がおかしいんじゃなくて、あの子がおかしいだけだろう。なんで入学式の様な日に、木に登っているのだろうか?
「ん……あと少し……」
心底理解できない。だからこそ、話しかけてしまったんだ。
「ねぇ、何をしてるの?」
「えっ?」
女の子は、驚いたように振り返った。枝に片手をかけたまま、バランスを崩しそうになって、慌てて体勢を立て直す。
「あっ、あの……その……、そこにいてください!」
「え? 別にいいけど……」
「ありがとうございます! 気を付けてくださいね!」
「?」
何に気を付ければいいのか分からないまま、私はその場に立ち尽くした。
すると――何かが上から落ちて来た。
私は、それを反射的に受け止めている。衝撃とか、痛みとかは感じないけど、手が下がったから、きっとキャッチすることが出来たのだろう。
「猫?」
「にゃ~」
手のひらの上で、小さな黒猫が丸まっていた。……いや、黒かどうかはわからないんだけど、私の目から見たら、黒猫に見えるんだ。
(どこから現れたの? あ、桜の木に紛れて見えなかったんだ)
そう納得した瞬間――。
「本当に良かった~」
さっきの女の子の安堵した声が、上から聞こえた。
「どういうこと?」
「その子、木に登って降りれなくなっていたんです。だから、木に登って助けようと思ったんですけど、逆に逃げられてしまって……。貴方が来てくれて、本当に助かりました」
彼女はそう言って、木から降りてくる。
木に登っていたせいで、制服が所々汚れているけど、それを気にする様子はない。
「ほら、今度から降りれないほど高いところに、行かないようにね」
「にゃあ」
彼女が私の手の中にいる子猫に話しかけると、子猫はにゃあと返事をして何処かに行ってしまった。
尻尾を揺らしながら歩いているその姿は、どこか満足そうに見え、ちょっとだけ安堵のような気持ちが心の片隅に宿った。
「助けてくれて、本当にありがとうございました!」
女の子がぺこりと頭を下げる。
その動作があまりにも素直で、私は一瞬どう返せばいいのか分からなくなる。
「別に……ただ落ちてきたのを受け止めただけだし」
「でも、受け止めてくれなかったら危なかったですから!」
今まで、私はこのような笑顔を向けられたことが無かった。だから、どのように接したらいいのか分からなくて、すこしだけを顔を背けてしまう。
「……そんなに感謝されるほどのことじゃないよ」
自分でも驚くほど小さな声だった。
否定したいわけじゃない。ただ、どう返せばいいのか本当に分からなかった。
「いえ、すごく助かりました! 本当に!」
彼女はまっすぐに言い切った。迷いも、遠慮も、打算もない。
ただ嬉しいという気持ちだけで動いているような、そんな声だった。
(……なんでそんなに素直なの?)
理解できない。
でも、胸の奥が少しだけ熱くなるような、ざわつくような感覚があった。
「えっと……あの……もしかして、新入生ですか?」
「そうだけど……」
「そうなんで……そうなんだ! 実は、わたしも新入生なんだよ! わたしは三組だけど、君は?」
「わ、私も三組……」
言った瞬間、彼女の表情がぱぁっと花みたいに開いた。
「えっ……ほんとに!? すごい! 同じクラスだ!」
両手を胸の前でぎゅっと握りしめて、全身で喜びを表している。
まるで宝物でも見つけたみたいな反応に、私は思わず一歩引いてしまった。
(……そんなに嬉しいこと?)
私が同じクラスだと知っただけで、ここまで喜ぶ理由が分からない。
でも、彼女の笑顔は嘘じゃなくて、本当に心の底から嬉しそうだった。
「よかったぁ……! あ、わたしには中学からの友達がいて、その子も三組だから紹介するよ」
「……あり、がとう」
自分でも驚くほどぎこちない声が出た。
感謝しているのか、戸惑っているのか、自分でもよく分からない。
「うん! こちらこそよろしくね!」
彼女はまた笑った。
その笑顔は、さっきよりもさらに近くて、さらにまっすぐで、逃げ場がないくらい眩しかった。
(……なんでそんなに距離が近いの?)
私は思わず半歩だけ後ろに下がる。
けれど彼女は気づかない。
いや、気づいていても気にしないのかもしれない。
「ねぇねぇ、名前は? 同じクラスなら、ちゃんと知っておきたいから!」
「……名前?」
「うん! わたしは、白石美羽。これから三年間よろしくね」
「……うん、私は神崎紅葉。これからよろしくね」
互いに名前を教え合うと、美羽は満開の花のような笑顔になった。
その笑顔を見ているだけで、少しだけ癒されるような……。
「あ、紅葉って呼んでいい?」
「……うん、いいよ」
「やった! わたしのことは美羽って呼んでね。……あと、ここってどこか知らない? ちょっと迷っちゃったんだ」
「この学校はそこまで広くないと思うけど」
「うっ、だよね。恵やお父さんにいろいろ言われそう……」
「恵?」
「うん、中学からの友達。しっかり者で、わたしが迷子になるとすぐ怒んだよね……。迷惑かけてばかりだから、仕方がないけど」
美羽は頬をふくらませながら言う。怒られるのが嫌というより、恵という子に心配をかけたくない、そんな雰囲気だった。
「それなら、私が案内するよ。……というか、ここをまっすぐ行って、右に曲がればいいだけだし」
「えっ、そうなの?」
美羽は目を丸くした。
驚き方が大げさというより、純粋すぎる。
「それなら、なんで紅葉はここに来たの?」
「それは……」
言いたくない。
胸の奥に、ひやりとしたものが広がる。
理由を説明したくないというより、説明できない。そんな気持ちが喉の奥に引っかかって、言葉が出てこなかった。
美羽は、私の沈黙に気づいたはずなのに――。
「そっか!」
あっさりと笑った。
「じゃあ、紅葉にもいろいろ事情があるんだね。うん、無理に聞かないよ」
「……聞かないの?」
「うん。だってさ、誰だって、言いたくないことの一つや二つはあるでしょ。友達でも、そこは無理に踏み込まないよ」
「友達……?」
その言葉が、何よりも胸の奥に引っかかった。
友達。
中学の三年間……いや、人生で一度も持てなかったもの。
いじめられて、避けられて、誰からも名前すら呼ばれなかった私にとって無縁なものであり、ずっと追い求めていたもの。
(……友達? 私が?)
理解が追いつかない。でも、美羽はそんな私の混乱に気づく様子もなく、当たり前のように続けた。
「うん、友達だよ。だって、同じクラスだし、話してくれたし、助けてくれたから。紅葉は、高校で初めての友達なんだ」
美羽は、そう言って、美羽は私の手を掴んだ。
(……え?)
触覚なんて、物心ついたときから一度もなかった。
温度も、重さも、柔らかさも、痛みすら分からない。
触れるという概念そのものが、私には存在しないはずだった。
なのに――。
(……なに、これ)
指先に、何かが流れ込んでくるような感覚があった。
暖かい、とか、柔らかい、とか、そういう言葉では説明できない。
私の知らない世界が、私に触れた気がした。
(違う、それだけじゃない)
冷たい風が、頬を撫でた。
生まれてから一度も感じたことのない風が、確かに私の肌を通り抜けたんだ。
(……嘘)
胸がざわつき、呼吸が浅くなる。
世界が、私の知らない速度で押し寄せてくる。
次は、満開の桜の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
(これが……匂い?)
甘いような、少し苦いような、でも確かに、そこにある香り。
そして――。
視界が、白黒じゃなかった。
桜が淡い桃色に染まって、空はどこまでも澄んだ青、美羽の髪は、光を受けて柔らかく揺れ、この世界は彩りで満ち溢れていた。
「紅葉?」
美羽が心配そうに覗き込む。
その瞬間――彼女の輪郭だけが、他の何よりも鮮やかに見えた。
(はははっ、普通って、こんな世界だったんだ)
胸の奥がじんわりと熱くなる。今まで空っぽだった場所に、何かが静かに流れ込んでくる。
暖かい。本当に暖かい。それは、美羽の手から伝わってきたもの――ああ、こんなこと、予想してなかった。
高校生になって、まだ一日しかたって無い。なのに、たったのそれだけで、友達も、色も、匂いも、感触も手に入れることが出来た。この調子だと、きっと味覚も手に入れることが出来るだろうし、他人と共感できるかもしれない。
本当に、美羽は救いだった。今まで、嬉しさなんて一回も感じたことの無い私が、初めて嬉しいと思えたんだ。
「紅葉、どうしたの?」
「ううん、何でもない。一緒に行こう」
ありがとう、美羽。これだけで、これだけで私は救われたんだ。
そうしていると、遠くから美羽を呼ぶ声が聞こえた。
「美羽ー! どこー?」
「あっ、恵だ。おーい、ここだよ!」
美羽が大声を出すと、恵と呼ばれた人物と、美羽の父親らしき人物がこちらへ小走りで近づいてきた。
「美羽、勝手にどこ行ってんの。心配したんだけど」
恵は息を弾ませながらも、眉をひそめて美羽を睨む。
怒っているというより、本気で心配していたのが分かる声だった。
「ごめんごめん! ちょっと迷子になっちゃって……でもね――」
(待って……)
「友達が助けてくれたんだ!」
「友達?」
(待って……嘘だと、言ってよ……)
「うん! 今日友達になった、わたしの友達のく――「神崎です!」」
(それだけは、それだけは駄目だ)
「神崎っていうの? ありがとね。どうせ、美羽が迷惑かけたんでしょ」
「え? あっ……わたしは迷惑なんてかけてないよ!」
「いや、絶対に迷惑をかけた断然できる」
「えー。恵、信じてよー」
美羽と恵がじゃれついている。ただ、そんなことはどうでもいい。そんなことよりも……。
「美羽、俺も篠宮さんに同意するぞ」
「お父さんも⁉」
「ああ、美羽はそういう所があるからな」
「えー、味方がいないよ……」
白石。それで気付くべきだったんだ。
「神崎さんだっけ? ごめんね、うちの娘が迷惑をかけて」
「……いいえ、迷惑なんてかけられてないので。ところで、貴方は……?」
「ああ、自己紹介がまだだったね。美羽の父親の、白石隼人です。これからも、娘の友人でいてください」
私を捨てた、お父さん。
(……嘘、でしょ)
頭が真っ白になった。
さっきまで鮮やかだった世界が、急に色を失っていく。
(なんで……なんでここにいるの?)
胸の奥がざわつく。
風の感触も、桜の香りも、全部が遠ざかっていく。
「紅葉?」
美羽の声が聞こえる。
でも、その声すらも、どこか遠くに感じた。
(違う……違う……違う……違う!)
白石隼人。
私を捨てた人。
お母さんを壊した人。
私の人生を狂わせた、すべての始まり。
その男が――美羽のお父さん?
(そんな……そんなはず……)
そうだとしたら、美羽は《《私からすべてを奪い去った妹》》ということになってしまう。
父親を奪い、母親を壊して、友達を作るチャンスら奪い去った、《《大っ嫌いな妹》》に。
「神崎さん? どうかしましたか?」
隼人が私に声をかける。
その声は穏やかで、優しげで、私を捨てた父親とはまるで別人だった。
(やめて……その声で呼ばないで……)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
痛覚なんてなかったはずなのに、今は胸が焼けるように痛かった。
(いや……これは、美羽がいるから……)
生まれて初めて感じる痛みは、これ以上ないほど痛かった。
今まで虐待され、いじめられ、嬉しいことなんて何一つなかった人生を送っていた原因が、目の前にいる。
初めての救いが、私に牙を剥いた。
「紅葉、本当に大丈夫?」
いや、違う。美羽には罪がない。罪があるのは、父親と美羽の母親だけだ。
美羽は、私の《《初めての大切な友達》》なんだ。
頭ではそう理解できている。
でも、感情は違う。初めて感じる痛みから逃れるために、敵を作り出そうとしている。
今まで私が耐え続けることが出来たのは、痛みを知らなかっただけだ。けれど、痛みという物を知ってしまった以上、もう耐えることは出来ない。
(でも、美羽は私の友達なんだ!)
「だ、大丈夫。何でも無いよ」
自分の理性を振り絞って、この怒りも、苦しみも、痛みも、何一つ外に出さなかった。
私が美羽の《《姉》》であることは、何があっても知られてはならない。だって、その事実は初めての友達から、幸せな家族という物を奪い去ってしまうものだから。
「本当に? それなら、教室に向かおうよ!」
「うん、時間も少ないしね」
そうして、私と美羽、それと恵は三人で教室に向かい始めた。
けれど、この時の記憶なんて、何一つ残っていない。
だって、少しでも油断してしまうと、美羽を傷つけてしまいそうだったから。
美羽は、大好きな友達で、大っ嫌いな妹で、救いで、絶望で、どうすればいいのか……わからない。




