終わり
チャイムが鳴った。けれど、それは紅葉の歩みに何の影響も与えなかった。
「美羽、美羽、私の物に……なって」
今の紅葉は、これまでの紅葉と違って、表情に余裕も喜びもなく、わたしにすがるように手を伸ばしていた。
その瞳は、獲物を狙う捕食者のものではなく、何かを失うことを恐れる子供のように揺れている。
けれど、その奥底にはまだ、あの狂気の影が潜んでいるように見えた。今の紅葉に捕まれば、どんなことをされるのか――それを理解してしまっているから、素直に近づくことはできない。
(どうすればいいの? 誰か教えて……)
できれば、紅葉に近づいて、側にいてあげたい。でも、どこからどう見ても、今の紅葉には歯止めという物が存在しておらず、どんなことをされるのか分からない。
だから、わたしは一歩を踏み出せなかった。
足が地面に縫い付けられたように動かず、ただ紅葉の震える手を見つめることしかできない。
「美羽……来てよ。お願いだから」
紅葉の声はかすれていて、必死さが滲んでいた。
その響きは、昨日までの残酷な笑い声とはまるで違う。
かつての友人のそんな声を聞いてしまったせいで、胸の中で恐怖と優しさがせめぎ合った。
助けてあげたい。でも、今までよりも酷いことをされるかもしれない。
そんな思いの二つが、互いに引き裂こうとした。足はすくんで動かないのに、心だけは紅葉へと伸びていく。近づけば壊されるかもしれない。けれど、離れれば紅葉が壊れてしまう。
その板挟みの中で、わたしは呼吸を乱しながら、ある決心をした。
「……紅葉、ここだよ」
わたしは震える足を無理やり動かし、紅葉の手を取った。今まで、ずっとわたしをいじめて来た紅葉の手を。
紅葉を恨んでいないとは言えない。クラスメイト達の秘密で脅してきたり、わたしを何度も何度も傷つけてきたり……わたしに非があるとはいえ、中学の時からの親友である恵と仲違いしたのは、紅葉が原因でもあるからだ。
でも、今の紅葉を放っておくことは、どうしてもできなかったんだ。
……たとえ、わたしの身に何が起きたとしても。
「あはは……美羽、私の美羽だ。私の大切なもの。私のおもちゃ。私の彩り。もう、どこにもいかないよね」
紅葉がわたしの手を痛みを感じるほど強く握る。
思わず顔をしかめそうになったけど、何とか笑顔を保つ。それは、今までのいじめのおかげで慣れていたことだから。
「いるよ。ここに」
「ずっと、ずーっとだよね?」
どうして、紅葉はここまでわたしに執着しているのだろうか?
今までずっと疑問に思ってきた。その答えは今もわからない。けれど、紅葉の瞳を見ていると、ただの支配欲や遊びではないことだけは分かる。
そこには、わたしを失うことへの恐怖が滲んでいて、まるで自分の存在を繋ぎ止めるために必死に縋っているようだった。
(どうして……? わたしに何を見ているの?)
答えは分からない。けれど、紅葉の手の温もりが痛みと同時に伝わってきて、逃げられないことだけは確かだった。
「返事、してよ。それとも、美羽は私から離れるの? それなら、壊さなきゃ」
「待っ――」
必死に止めようとしたけど、致命的に遅かった。
紅葉の腕がわたしの頭に回り込み、紅葉のせいで短くなった髪を掴む。 そして、紅葉は乱暴に髪を引き寄せ、わたしの顔を自分の目の前に固定した。
至近距離で見つめてくるその瞳は、狂気と必死さが入り混じり、逃げ場を与えてくれない。
「美羽……離れないで。もし離れるなら、壊してでも私のものにする」
髪を掴む指先が痛みを走らせ、頭皮が焼けるように熱を持つ。
わたしは必死に目を逸らそうとするけれど、紅葉の視線が釘のように突き刺さり、動けない。
(どうして……どうしてこんなに必死なの?)
恐怖と同時に、紅葉の執着の深さが胸に重くのしかかってくる。
その重みは痛みよりも強く、わたしを縛り付けていた。
「紅葉、なんで……なんでこんなことをするの?」
「口答えしないで。美羽はずっと、黙って私の言うことを聞けばいいの」
「せめて、せめて理由を言ってよ! それに納得できれば、いくらでも言うことを聞くから!」
わたしが、必死に理由を求めると、紅葉が一瞬だけ手を緩め、目を伏せた。
そして――。
「……それは、美羽は私の最も大切で、同時に憎まないといけない■だから」
――――――え?
頭が真っ白になって、痛みも、匂いも、目の前にいる紅葉の姿すら認識できなくなる。
それほどまでに、紅葉がわたしに執着する理由は、衝撃的で理解が出来ないものだった。
「……言うつもりは無かったんだけど。まぁ、これでいいよね」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 理解が出来ない!」
「それじゃあ、美羽が壊れたら、詳細に全て話すよ」
そう言うと、紅葉はわたしの耳を乱暴に引きちぎるように引っ張った。
鋭い痛みが走り、世界が一瞬、赤く染まる。
「いたっ――!」
「壊れて、もっと壊れて」
紅葉は、痛みで倒れたわたしを見下ろし、容赦なく足を振り下ろした。
靴底が腹を押し潰し、呼吸が途切れる。世界が赤と黒に染まり、意識が遠のいていく。
「壊れて、もっと壊れて」
蹴る、殴る、踏みつける、引きずる――あらゆる暴力が次々と降り注ぎ、わたしの体は抵抗の余地もなく蹂躙されていった。
もう、痛みが麻痺に変わり、今何をされているのかも理解できない。
「あはは……ボロボロになっちゃったね。まるで、昔の私みたい。でもね、私はお母さんのような人じゃないから。美羽にもしっかり、優しさを注ぐよ」
その言葉と同時に、紅葉がわたしの頭を膝の上に置き、傷だらけの体を撫でていく。
暴力の直後に触れる指先は、妙に優しくて、余計に恐ろしかった。
痛みと温もりが交錯し、わたしの心は混乱の渦に沈んでいく。
「そう言えば、共感って人と人が付き合うには大事な物なんだって。今ならきっと、私と美羽は、互いに共感しあうことが出来るかもしれない」
体は限界を迎え、声も出せず、抗う力すら残っていない。
ただ、紅葉の手に委ねられるまま、無力に晒されていくしかなかった。
(どういう、こと? 紅葉の、家庭環境は伝わって来たけど……■の意味が分からない)
理屈では、■の意味を理解してないし、否定することが出来る。
しかし、わたしの本能が■という言葉を肯定し、紅葉のことを◇だと認めてしまっていた。
なんで、こんなことになっているのかわかない。けれど、もし紅葉が本当に◇だったとしたら――抗う気持ちが薄れてしまう。
「あれ? 美羽、逃げないの?」
「……ほんとうに、そうなの?」
何とか声を絞りだして、問いかける。
「……うん、そうだよ。私は、美羽に嘘を吐かないと決めているから」
ああ、きっとこの言葉は本当なんだ。他人から見たら、おかしいと思うかもしれないけど、わたしは紅葉のことを信頼してる。
今までのいじめで、何度もはぐらかされたり、何も答えてくれなかったこともあったけど、嘘だけは一度も疲れたことが無いから。
(詳しいことは、わからない。けれど、何となく理解できたよ。それなら、わたしは……)
「いいよ……好きにして」
「本当に? いいの?」
「……うん、出来れば、幸せにして」
もういいや、壊れてしまっても。それほどまでに、■という言葉の衝撃は大きく、抗えない。
わたしがもうすこし馬鹿だったら、今も抗おうとしていたんだろうけど、わたしの頭脳では、■の裏にある意味まで、ぼんやりと理解してしまったから。
(もう少し馬鹿だったら、知らずに済んだし、もう少し頭が良かったら、しっかりと理解できたんだけどなぁ)
でも、そんなのは後の祭りだ。
わたしに出来ることは、紅葉に壊されることだけ。どのように壊れ依存するのかわからないけど、出来れば……幸せを感じててほしいな。
「……うん、私に任せて」
その言葉と同時に、紅葉の顔がわたしに近づき、唇と唇が触れ合った。
暴力の余韻がまだ体に残っているのに、その温もりは奇妙な安堵をもたらし、わたしの体と心を歪んだ愛に溺れさせていく。
でも、それでいいんだ。これで、紅葉が幸せになるのなら、それでいい。■が◇に出来る、唯一のことだった。
そのキスは、一瞬だったのか、それとも悠久のように長かったのか。それは、わたしにはわからなかったけど、これ以上ないほどに、幸せな時間だった。
「……くれは、えんりょ、してるの?」
でも、その時間の中で、今までわたしのことをいじめていたはずの紅葉自身が、明確に踏み込むことが出来ていなかった。
わたしがこうなったのも、全部全部紅葉のしたことのせいなのに、その紅葉自身が受け入れられていない。
「いいん、だよ。わたしは、どうなってもいいから」
そう言っても、紅葉は手を震わせるだけで、何もしようとはしなかった。
紅葉はただ、わたしの献身に怯えるように触れ、確かめるように見つめている。まるで、自問自答しているかのように。
「……いいの? もう、引き返せないんだよ」
何故か、何故か今の紅葉は、入学式の日の紅葉に戻っているような気がした。
わたしに対して優しく接してくれて、今後もずっと友達として暮らしていけるだろうと思えた最初の紅葉に。
(ははっ、なつかしいなぁ。わたしがこわれれば、くれはがもどるのなら、それでいいや)
「うん、ありがとうね……きづかってくれて」
「……ごめん、美羽。わたしのために、壊れて」
そうして、紅葉がわたしを完全に染め上げるために、最後の一線を越えようとした。
その時だった。
「美羽!」
屋上の扉が勢いよく開き、恵と先生が飛び出してくる。
それは、わたしが壊れるのを防いでくれる待望の一手であり、わたしと紅葉の関係を終わらす絶望の一手でもあった。




