涙の重さ
「えー! 美羽、どうしたの? もしかして、イメチェン?」
「ははは……まぁ、そんな感じかな?」
次の日、紅葉のせいで短くなった髪について、いろんな友達から質問される。
真実を言うわけにはいかないから、誤魔化しているけど、仲のいい友達だったら違和感を感じるだろう。
「え、でも昨日まで伸ばしてたよね? 急にどうしたの?」
「ちょっと気分転換。ほら、冬だし、短い方が楽かなって」
「いや、普通は夏でしょ」
言葉は軽いけれど、視線が泳ぐのを自分でもわかっていた。
仲のいい子ほど、その小さな揺れを見逃さない。
だから……。
「そんなことより、今日は自分で宿題したの?」
「あっ……今日もお願い!」
「はぁ、勉強しないと受験の時後悔するよ」
「まだ高校一年生だから大丈夫だよ。来年からは真面目にするし」
何とか話を逸らし、笑い声に紛れてその場をやり過ごした。
けれど、胸の奥では冷たいざらつきが残ったままだ。
友達の視線が背中に突き刺さる。
「本当に気分転換なの?」と、言葉にされない疑念が空気に漂っている気がした。
わたしは机に突っ伏すふりをして、髪の切り口に触れないように指を握りしめる。
昨日の夕暮れ、紅葉の笑みとハサミの音が、まだ耳の奥で響いていた。
逃げることは、もうできないだろう。もし、わたしが、紅葉のしてきたことを全てばらしてしまったら、脅されている通りにクラスメイトたちが隠している秘密は拡散され、わたしの見られたくない写真も公のものになる。
それに、今の紅葉だとわたしに対する暴力もする可能性があるから、より逃げることが出来なくなってしまった。
耐えるしかないことと友達の追求から逃げきれていないことは、わたし自身が一番よくわかっていた。けれど、どうすることもできなかった。
――――――――――――――――――――――
「いたっ……!」
昼休み、わたしは今日も紅葉から呼び出され、暗くて人気のない校舎裏で紅葉に腕を強く引かれた。
壁に背中を押し付けられ、逃げ場を失う。
「美羽、昨日のこと……忘れてないよね?」
紅葉の声は甘さを装っていたが、瞳の奥には冷たい光が宿っていた。
指先が食い込むほど強く握られ、痛みがじわじわと広がる。
「やめて……」
「やめない。美羽が壊れるまで、私は止まらないから」
「どうして……」
声が震えて、言葉にならない。
紅葉の指先がさらに強く食い込み、痛みが熱に変わっていく。
「だって、美羽が正気でいるのは許せないから。美羽も、私と同じところまで堕ちてきてよ」
紅葉はそう言って、わたしの首筋に噛みつく。紅葉の鋭い歯が皮膚を突き破るように食い込み、灼けるような痛みが走った。
思わず声が漏れそうになるが、喉の奥で押し殺す。
もし叫べば、誰かに気づかれるかもしれない。けれど、それ以上に紅葉の怒りを買うのが怖かった。
「――ッ!」
「へぇ、美羽の血ってこんな味がするんだ。私の血と大して変わらないんだね」
「やめて……っ」
震える声が漏れる。けれど紅葉は耳を貸さない。
紅葉はわたしの頭を掴み、ギシギシと握りしめていく。わたしは、頭蓋が軋むような痛みに、視界がぐらりと揺れた。
紅葉の指は鉄のように固く、逃げようとする力を簡単に封じ込めている。
「美羽は、私に歯向かうの? 勘違いしているようだね。美羽は、私のおもちゃで所有物なんだよ。私の言葉に逆らうなんて、許されないんだよ」
紅葉の声は低く、耳の奥に突き刺さる。
頭を締め付ける力がさらに強まり、視界が白く霞んでいく。
「……っ、やめ……」
必死に声を絞り出すが、紅葉の狂気に染まった瞳は楽しげに細められていた。
もう、そこには優しさなんてどこにもなかった。今までも、わたしのことをいじめていたし、言うことに歯向かうと暴力を振るうことがあった。けれど、そのたびに表面上は申し訳なさそうな態度をとっていたし、優しさを見せる場面も多々あった。
けれど、今はその仮面すら剥ぎ取られていた。
紅葉の瞳には、わたしを壊すことへの歓喜しか残っていない。
「ははっ、どうしようかな? どう壊そうかな? いい案がたくさん溢れてきて、その中から選ぶことが出来ないよ」
紅葉は恍惚とした表情を浮かべ、わたしの顎を持ち上げた。
その瞳は、獲物を前にした捕食者のように輝いている。
「壊し方なんて、いくらでもあるんだ。心を折るのもいいし、体を傷つけるのもいい。どっちにしようかな……」
囁きは甘く響くのに、意味は残酷だった。
わたしは必死に視線を逸らそうとするが、紅葉の指が顎を固定して逃げられない。
「ねぇ、美羽? ああ、何でもないよ。美羽は答えないんだよね。……うーん、そうだ。こうしよう」
そうして、紅葉はわたしの顎から手を離し、ゆっくり首へと添えていく。
首に触れる紅葉の温かい手が、得体の知れない恐怖をわたしに与え、全身から冷汗があふれ出てくる。初冬の冷たい風が、汗で濡れた身体を冷やしていくが、そんなことは気にならない。……それほどまでに、今の紅葉は怖かった。
「そんなに怯えなくていいよ。だって、美羽の首を絞めることはしないから」
「……うそ、でしょ」
「嘘じゃないよ。美羽が私の思い通りになるのなら、そんなことはしないからさ」
その言葉に、背筋が氷のように凍りついた。
昨日の昼に味わった窒息の記憶が蘇り、呼吸は浅く、震えが止まらない。
もう二度と体験したくない感覚が、すぐそこに待っている気がした。
「いいねぇ。今の美羽の顔も、すごくいい。恐怖で歪んでいて、震えが止まらないその顔は」
「えがお、じゃなかったの……?」
今まで散々言われてきたこと。紅葉は、どんなにわたしに酷いことをしてきても、わたしに笑顔以外の表情を許したことは無かった。なのに、今の紅葉はそれすら否定した。それはいったい、どういう変化なのだろうか?
「ああ、それね。もういいよ、やらなくて。もう二度と、美羽が笑顔でいることは望まないから」
「それは、どういう……?」
「今の私はね、美羽に私と同じように壊れてほしいの。壊れて、感情を失って、自分が何なのか分からなくなって、私の傀儡となって一生を過ごす、そんな存在に。だから、今の美羽に笑顔を求めない。……今までごめんね、あんなにつらいことをされながら、笑顔を強制させられるのは苦しかったでしょ?」
その言葉を聞いて、わたしの頭は狂いかけた。紅葉のどす黒い狂気に染まった願望と、常識に寄り添う謝罪。
その二つを同時に突きつけられ、何が正しいのか分からなくなる。
まるで、狂気と理性の狭間に迷い込んでしまったかのように。
「でも、安心して。壊れてしまったら、そんな苦しみも感じなくなってくれるから。壊れたら……毎日が幸せに包まれて、悦楽に溺れることが出来るんだよ? 今の毎日より、ずっといいよね?」
少しずつ、わたしの首を掴んでいる紅葉の手の力が強くなっていき、喉の奥が焼けるように痛み、呼吸は浅く途切れ、視界が霞み始める。
その苦しさの中で、紅葉の声だけが鮮明に響いた。
「ほら、壊れてしまえば楽になるんだよ。壊れて何もかも失ってしまえば、唯一残ったものが、何よりも大切で、何よりも輝かしくて、それだけで生きていくことが出来るほど、立派なものになるんだから。私なら、壊れた美羽にそれを与えられるんだよ。だから、すべての友達、すべての大人、そして……忌々しい両親との縁を切って、私のところにやって来て」
……もしかしたら――いや、もしかしなくても、紅葉は壊れてしまっているのかもしれない。
だからこそ、これほどまでに壊れた人の気持ちが理解でき、唯一残されたもの……この場合は、わたしに執着しているのかもしれない。
少しも羨ましく思っていないとは言えなかった。 少し前まで紅葉に堕ちかけていたわたしにとって、あの時の紅葉は一種の救いのような存在だった。
だから、紅葉の言葉に納得できる部分がある。
それに、あの時の紅葉を見ていても、何かに依存するということは、きっとある種の幸せの形なんだということは理解できた。
あの恍惚した紅葉の笑顔、わたしという存在を支配できたことに対する万能感、それ以外にも、まだまだ多くの感情が混ざり合っていた。
支配することでしか得られない安心、壊すことでしか確かめられない愛情。それらは常識から見れば狂気でしかないのに、紅葉の中では確かに幸福の形をしていた。
それらを見て、わたしは思ってしまっていたんだ。
もし、もっと深く壊れてしまえば――その幸福を、わたしも同じように味わえるのかもしれない、と。
昨日までの私は、羨望と恐怖がないまぜになり、胸の奥でざらついた熱をこの身に宿していた。
でもね、やっぱし……今のわたしはそれを受け入れないよ。
「ごめん……それだけは、いやだ」
「なんで? 美羽はわたしの言うことを聞けないの? なんで? どうして?」
紅葉の力が強くなり、視界が点滅してくる。
けれど、これだけは言わなくてはならない。たとえ、この身が尽きようとも、これだけは紅葉に伝えないといけないと思ったから。
必死に腕を差し込み、気道を作り出す。
でも、咳をしている場合でも、勢いよく酸素を肺に取り入れる場合でもない。それらのことよりも、何より――。
「壊れるのが幸せなら――どうして、紅葉は泣いているの?」
「え?」
紅葉は驚いたような顔をして、わたしの首から手を離す。
確認するように、頬に触れた指先が震え、右目から零れた涙が静かに頬を伝って落ちる。
その水滴は、昼の日差しに当てられて、これ以上なく申し分ないほど輝いていた。
「なに? これ?」
紅葉は、その涙のことを自分でもよく分かっていなかった。
彼女は自身の目からあふれ出したモノに、ずっと困惑していて、わたしのことすら認識できないでいる。
(きっと、紅葉は……)
涙は血より重い。
紅葉のいじめの中で、何回か血を流したことがあるわたしだから断言できる言葉。
それを理解している以上、紅葉はわたしとは比べ物にならないほど追い詰められていたことを理解できた。
皮肉な物だよ。
いじめている人物が、いじめられている人物以上に、自分のことを追い詰めていたなんて。
何が紅葉にそんなことをさせたのか、それについては未だにわからないけど、その重みだけは十分……心の底から理解できた。
「ははっ……あははっ、なぁに? これ? こんなの、私は知らないよ」
「紅葉……」
何を言ったらいいんだろうか?
どれだけ頭を回転させても、わたしの口からは何も言葉が出なかった。
「わからない、わからないよ、おかあさん……。こんなの、生まれてから経験したことが無い。……なんでこんなことに――あっ、もしかして……そっちが本物だったの?」
紅葉の中に潜んでいた矛盾が摘発され、彼女の瞳は大きく揺れた。
その揺れは、今まで見せてきた狂気の輝きとはまるで違うものだった。
「どうして……なんで……そうだとしたら、今までの私はなに?」
何を言っているのかは、少しも理解していない。
けれど、このまま紅葉を放っておくのは違うと思い、わたしは紅葉に一歩近づいた。
その時だった。
「え?」
気づけば、紅葉の手の甲がわたしの頬にぶつかり、横に殴り飛ばされてしまっていた。
口の中が血の鉄の味で滲んでいき、頭がくらくらとしていく。
でも、わたしの頭の中には、それ以上のもので占められていた。
「うるさい! そんなことない! 私が私なんだ! 私が幸せになるためには、こうするしか方法が無くて、私の意志で、私の選択で、この道を選んだんだ! だから、お前が偽物なんだ!」
(誰に話しているの……?)
わたしを殴り飛ばした紅葉は、虚空に向かって嘆き、叫んでいる。
今の紅葉は、わたしを認識している様子は無く、今殴り飛ばされたのは、わたしを狙った物では無く、殴ろうとしていた場所に、偶然わたしが踏み出したからだったんだ。
紅葉が誰に叫んでいるのかはわからない。けれど、紅葉が壊れていることだけは、痛みよりも鮮烈に伝わってきたんだ。
そして――。
「あははっ……美羽、私の美羽。こっちに来てよ」
紅葉の虚ろな瞳に、わたしの姿が映る。
そののおぞましさに身がすくみ、足が動かなくなる。
「やだ……来ないで」
思わず声が震えた。
紅葉は笑いながら、一歩、また一歩と近づいてくる。
「美羽……私だけを見て、私だけを見て。……美羽だけは、私の側から離れないで」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
小学生の頃から何度も耳にしてきた、あの馴染み深い音。
けれど今のわたしたちには、ただの雑音にすぎなかった。




