観察ログ02
被験者番号17。
実験開始時刻、午前九時三分。前回より三分遅い。それは意図された誤差なのか、単なる偶然なのかを考える余裕は、もうあった。
部屋の構造は前回と同じだ。机、椅子、壁、レンズ。違いがあるとすれば、俺がそれをすでに知っているという事実だけだった。未知が減れば警戒は下がるはずだと、研究者は考えているのだろう。俺はその前提ごと疑っている。
女の子は静かに入ってきた。前回とほぼ同じ服装で、同じ距離を保って座る。再現性を意識しているのか、それとも選択肢が限られているだけなのかは判断できない。彼女は短く会釈をし、名前は呼ばなかった。指示どおりの振る舞いだ。
前回と比べ、彼女の緊張はわずかに低下している。呼吸は安定し、視線も定まっている。それでも警戒はない。その非対称さが、俺には理解しがたい。恐れず、構えず、ただそこにいるという態度は、計算されていないぶん不気味だった。
「今日は暑いですね」
声量も語調も安定している。誘導や評価の意図は感じられない。
俺は答えなかった。
それでも彼女は待つ。視線を外し、身体をこちらに向けすぎない。前回と同じ配置だ。
沈黙の質が前回と違うことに、しばらくして気づく。圧迫ではない。だが安心とも言えない。ただ、切られず、責められず、意味づけもされない時間が、意図的に維持されている。
彼女は何も言わない。
その沈黙が、罰よりも厄介だということを、俺はまだ認めていない。
【記録結果】
実施日時:同日
被験者番号:17
セッション時間:44分
被験者は実験開始時より一貫して高い警戒水準を維持していた。姿勢は硬直気味で、周囲環境の変化に対する注意配分が常に外部へ向けられていた。逃走経路の把握行動が断続的に見られ、環境を「管理下にある空間」として認識していることが示唆される。一方で、明確な拒否表現や敵対的行動は観察されなかった。
一般協力者(愛情提供役)に対し、被験者は距離を保ったまま観察を続けていた。協力者の表情、声量、動作に対する微細な反応確認が多く、被験者が対人刺激を情緒ではなくリスク評価の対象として処理している傾向が強い。好意的態度に対しても受容的反応は示されず、不信が優先されている。
協力者は非評価的態度を維持し、沈黙の継続、選択権の提示、行動強制の回避を行った。これに対し、被験者は即時的な安心反応を示さなかったが、セッション中盤以降、呼吸の間隔が緩やかになる場面が一時的に確認された。手指の緊張も短時間低下したが、持続的変化には至らなかった。提供された水には最後まで手を伸ばさず、自発的行動の抑制が継続している。
本セッションにおいて、愛情的・承認的刺激が被験者の警戒反応を顕著に低下させたとは判断できない。ただし、拒絶反応やストレス増幅は見られず、協力者との同席状態が破綻なく維持された点は重要である。被験者は刺激を「危険ではないが信用もできないもの」として分類している可能性が高い。
総合的に、本日の結果は信頼形成の初期段階以前に位置づけられる。防衛反応を保持したまま、限定的な生理的緩和のみが観察された。
次回は同一条件・同一協力者による継続セッションを行い、この状態が固定化するのか、もしくは変化を示すのかを重点的に観察する。




