観察ログ01
被験者番号17。
実験開始時刻は午前九時。白い壁と固定された机、監視用の小さなレンズがこちらを向いている。
入室した瞬間、俺は無意識に出口までの距離を測った。逃げるつもりはない。ただ、いつでも身構えられる位置に自分を置く癖が、まだ抜けていないだけだ。
研究員は名乗り、次に俺の名前を呼んだ。番号ではなく、書類に記された本名だった。久しぶりに呼ばれたその呼び方が正しいことが、なぜか腹立たしかった。ここでは罪状も刑期も使われないらしい。代わりに確認されたのは睡眠時間と食欲、そして今の気分だった。
「不快があれば言ってください」
そう言われたとき、俺は胸の奥で何かが反射的に固くなった。これは尋問でも矯正でもない。だが優しさとも違う。周りを横目で確認しながら、椅子の背に体重を預けた。愛情を与える実験だと事前説明には書いてあったが、俺にはそれが刺激なのか、試薬なのか、まだ判断がつかなかった。
観察は始まっている。
俺の沈黙も警戒も、きっと数値に変換されるのだろう。ここで何が起きても、それは俺の更生ではなく、仮説の一部になる。その事実だけが、今ははっきりしていた。
扉が再び開き、今度は一人の女の子が入ってきた。白衣は着ていない。研究員でも職員でもないと、一目でわかる格好だった。年齢は二十歳前後だろう。特徴のない服装と、意図的に整えられていない表情が、かえって現実感を強めていた。
研究員は事務的に説明した。彼女は一般人の中から選別された協力者であり、専門的な訓練は受けていない。この実験における役割は、指示された範囲内での対話と同席のみで、説得や指導は禁止されている。
女の子は軽く会釈した。それ以上の自己紹介はなかった。彼女は俯いたまま静かに立っている。
これが、愛情を与える側。
そう理解した瞬間、胸の奥で防衛反応が静かに立ち上がる。金で支払われる善意。期限付きの受容。それでも、研究員ではない誰かが同じ空間に座るという事実だけが、これまでの実験とは違っていた。
遅れて気づく。
彼女の肩が、ほんのわずかに上下している。呼吸が浅い。視線は落ち着いているのに、指先だけが時折、膝の上で絡まる。警戒している様子はない。ただ、慣れていない。ここに座っていることそのものに、体が追いついていない感じだった。
そのことが、俺には妙に引っかかった。
恐れていない人間の緊張。演技にしては下手すぎるし、仕事として割り切っているにしては、無駄な力が入りすぎている。
俺はその様子を見て、余計に身構えた。
緊張しているのに、警戒していない人間。そんな立ち方は、今まで見たことがない。普通は逆だ。怯えるか、疑うか、どちらかになる。彼女はどちらでもない。ただ不用意だ。だから危険に見える。
この実験に「一般人」を入れる理由が、急に薄気味悪くなった。訓練されていないから信用できる、という理屈はわかる。だが同時に、制御もされていないということだ。何を言うかわからない。どこまで踏み込んでくるかわからない。
俺は紙コップに触れなかった。
水を飲むという小さな行動ひとつでも、何か試されているような気がした。反応、安心、あるいは役に立っているという感覚。そういうものを、こちらから差し出す気にはなれない。
「……指示、ちゃんと聞いてる?」
俺は試すように、声音を抑えて言う。
彼女は小さくうなずいた。
「はい。話しかけすぎないこと。評価しないこと。あなたが選ぶまで、待つこと」
暗唱するみたいに言う。そのせいで、ますます薄気味悪い。マニュアルに沿って動いているだけなのか、それとも緊張でそうなっているのか、判断がつかない。
俺は椅子の背から体を離し、少しだけ前に傾いた。距離を詰める動きなのに、攻撃でも接近でもない。彼女の反応を確かめたかった。
彼女は動かなかった。
目を逸らしもせず、逃げもしない。ただ、その場にいる。
——やっぱりおかしい。
俺は彼女を信用していない。
この実験も、研究者も、「愛情を与える側」とやらも。
だが同時に、ここまで警戒している自分自身が、記録される対象なのだということを、はっきりと意識していた。
【記録結果】
実施日時:同日
被験者番号:17
セッション時間:42分
被験者は入室直後より高い警戒反応を示した。視線の固定、身体の緊張、出口位置の把握行動が継続的に観察される。一方で、攻撃的言動や明確な拒否行動は確認されなかった。
一般協力者(愛情提供役)に対して、被験者は一貫して不信感を示した。これは、被験者が他者の感情状態を精査し、脅威評価を優先する認知傾向を持つことを示唆する。
協力者による非評価的同席、沈黙の許容、選択権の明示に対して、被験者は即時的な安心反応を示さなかった。ただし、セッション後半において呼吸の安定化、手指の緊張低下が一時的に観察された。紙コップの水には終始手を触れず、自発的行動の回避が継続した。
本セッションにおいて、承認刺激が被験者の警戒反応を明確に低下させたとは結論づけられない。しかし、拒絶や攻撃の増幅も確認されず、「同席可能な状態」が維持された点は注目に値する。
総合評価として、被験者は愛情的介入を即時的脅威とは判断していないが、信頼形成には至っていない。防衛反応は維持されたまま、わずかな生理的緩和が生じた段階にとどまる。
次回セッションでは、同一協力者による継続的同席が警戒反応に与える累積的影響を観察する予定とする。




