第六話「あなたの言ったことだ」
「それが君たちの決断なのだね」
銀バニーのお姉さんは、やはりおそろしく美しい。
それはきっと表情のせいだ。雲にかかる月のような笑い。砂漠に落ちた真珠のような笑い。あるかなしかの表情が深みを生んでいる。
それは満足そうな笑い? それとも子供の浅はかさを嘲笑う笑い? いくつもの感情を渡り歩くように見える。
「その選択、果たして吉と出るか凶と出るか」
「そうじゃない」
僕は言う。
今はお姉さんが恐ろしくない。僕の後ろにはバニー・バニーがいるから。そして隣にはお嫁さんが、人生のパートナーがいるから。不来方さんは僕の腕をぎゅっと握る。
「人の選択に正解も失敗もない。どんな人生が成功で、どんなものがそうじゃないか、自分で思う分には勝手だけど人に評価されるものじゃない。僕たちは結婚して、そして人生を歩いていく。それがすべてだ」
「そうだね、その通りだ。今はただ祝福を述べよう。少年たち」
銀バニーのお姉さんは、少なくとも無関心には見えなかった。お姉さんは僕の決断を、不来方さんの様子を見て、何かを考えている。
何かを判断しようと。
「あなただ」
言葉が鋒となって出てくる。無意識だった。言葉は連想よりも先に出た。言葉の霊が僕たちに味方してる。
「……何がだね?」
「お姉さん、あなたの言ったことだ。月面都市はまもなく滅びる。でも月面都市が滅ぶ原因なんてそんなに多くはない。致命的な事態なんて思いつかない。たった一つを除いて」
そうだ、第一の鍵とは、秘密。
人は常に秘密を抱えている。そしていつかは暴かれる。
今こそが、その時。
「あなたが滅ぼすんだ。「よいち」をハッキングして」
――地球の引力を振り切る速度で飛ぶ砲弾はやがて月へ至り。
――最悪の場合は月面にある施設を直撃する。
――この町のすべての防犯カメラ、医療情報、警察情報にアクセスして。
――君に失敗は許されない。
「もし「よいち」が乗っ取られれば、月面のあらゆる場所に投射体が撃ち込まれる。迎撃も防御も不可能な秒速数キロの金属塊、どの施設が狙われるか分からない。人間は月に住めなくなる」
「そうかも知れないね」
はっきりと、銀バニーの顔に喜の感情が浮かぶ。楽しんでいるんだ。
「私はね、バニー・バニーを尊敬しているのだよ。彼らは人間を西部開拓時代に、大航海時代に引き戻してくれた。あるいはもっともっと大過去、アフリカから人類が偉大なる旅を初めた頃に戻してくれた」
「ならどうして月面都市を」
「言っただろう。月面都市はやがて滅びると」
また頭上を指さす。満月がこうこうと輝いている。
「私の行動とは関係なく、月では様々な問題が起きている。月が人間の限界かもしれないと皆が思い始めている。莫大な金額が動くプロジェクトだけに、そんなネガティブな情報は降りてこないがね」
そこで、ふいに悲しげな顔になる。
「あのバニー・バニーの後継者だと自負する者もたくさんいた。だが結局は大いなる意思の総体に呑み込まれてしまった。思考の伝達は光の速度であり、倫理の共有は徹底されて例外が許されない。だから二度とバニー・バニーは生まれないのかも知れない」
「僕たちがいる。僕たちがバニー・バニーの申し子だ」
「そうかも知れない。この月夜町ならば可能性はある。だから私は……」
ぱり、と空気が電荷をはらむ。銀バニーのウサ耳がぴんと天頂を指し示す。
月は……月は見えない。雲が、月にかかって。
「少年、三つの鍵を探すのだよ」
「三つの鍵……?」
「一つ目の鍵は秘密。あと二つも月夜町にある。それが見つかったとき、きっと世界は変わるだろう。変わったと確信できるだろう。バニー・バニーは何度でも生まれうるのだと……」
ばり、と空気を引き裂くような音。
暗黒が落ちる。
すべての電灯が消えたのだ。家々から漏れるわずかな音も。
「竹取くん――!」
「大丈夫! ここにいる!」
闇の中、不来方さんと互いに互いを掴む。
やがて光が戻る。街灯が近い方から順に点灯していき、意識してなかった信号機の点灯を遠くに感じる。
銀バニーのお姉さんは、影も形もなく消えていた。
それは少し愉快だった。本当に消えたわけがない。ただ逃げただけだ。ハッキングでこのあたり一帯の電気を落として。
そこまでして――神秘の衣をまといたいのか。
上空に光を感じる。雲間に隠れていた月がゆるゆると出てくるところだった。
「不来方さん、今の停電で警察が来るかも知れない、今日は帰ろう」
「う、うん」
僕たちは互いに手を振り合い、夜の中で別れる。
帰り道、僕は自分の手を見た。
まだ育ちきっていない、つるつるで小さな手。それを何度か握ってみる。不来方さんの熱が残っている。
結婚。まだ実感はないけど、何とかなるだろう。
そうさ、バニー・バニーはすべてを受け入れる。
不測の事態も、準備の不足も、己の未熟さも、取り返しのつかないことさえも――。
※
ベッドから飛び起きる。
起きた瞬間、鳴りかけていたアラームを止める。体内時計は今日も順調だ。
衝撃波が聞こえてきた。「よいち」が射たれたのだ。ちょうど起きる時間に重なっていた。
「よいち」の発射時刻は毎日50分ほど遅れていくので、これからしばらくは昼間に射たれるのだろう。
階下に行くと両親はいなかった。朝食の準備だけがしてある。
両親はともに「よいち」の技術者であり、ここ最近はずっと帰りが遅い。「よいち」が不確定な時刻に射たれていることと無関係じゃないだろう。もしかして銀バニーのお姉さんが何かしてるのかも知れない。
僕は桃のコンポートを塗ったトーストをかじってつぶやく。
「結婚の報告したいんだけどなあ」
いちおうメッセージアプリでは送った。クラスメートの不来方さんと結婚することになりました、と。
両親からの返事は次のようなものだ。
――そうか、ぜひ今度連れてきなさい。一緒に食事でもしよう。
――あら嬉しい。テルってモテなかったから安心したわ。不来方さんって不来方病院の娘さんよね。失礼のないようにするのよ。
明らかに「彼女ができた」と受け止めている。
まあ僕だって法的な話を無視してるわけじゃない。今の僕たちの現状は、客観的に見れば婚約という表現が限界だろう。
でも僕と不来方さんは結婚と認識してる。それでいいじゃないか。
そもそも結婚なんてきわめて個人的なものだ。僕と不来方さんの認識がこの世のすべてだ。
インターフォンの音がした。画面を見ると不来方さんだ。いつものように多めの髪を背中に広げて、大きな丸眼鏡。
「きょ、今日は一緒に登校しない?」
「いいよ、ちょっと待ってて」
朝の月夜町を歩く。
町にはたくさんの人がいる。夜の静かな月夜町も好きだけど、賑やかなのも悪くない。
登校しながら、ここ数日で体験したことを話す。「よいち」の奇妙な動き。銀バニーのお姉さんとの出会い。そして。
「赤バニーと……緑バニーさん?」
「そうなんだ、不来方さんは何か知らない?」
「ううん何にも」
ということは不来方さんの青バニーとは完全に無関係。偶然だったわけか。
「これでバニーさんが4人……さすがにこれ以上増えないと思いたいけど」
「銀が初期メンバーだった戦隊って一つしかないしね」
「そういうことじゃないけど」
あの二人のバニーは何者なのだろう。もしかして銀バニーのお姉さんが言ってた「三つの鍵」に関係してるのかな。
「何だか不思議なこといっぱいだね……」
惚けたように不来方さんが言う。カバンを両手で抱えている。僕はいつものように手ぶらだ。僕たちの時代には制服の義務はないけど、不来方さんは清潔感のあるセーラー服だ。なんだか不来方さんの服装を初めて意識した気がする。
「でも前進してる。少なくとも不来方さんの悩みを聞けたし。結婚もできたし」
「うん、ありがとう」
それで、と、不来方さんはもじもじしながら言う。
「夫婦って、どんなことするのかな……?」
「うーん。ハワイにでも行く? 新婚旅行で」
「新婚旅行なら鬼怒川がいいかも」
渋いチョイスだ。
「手探りでもいいさ。世の中の新婚さんだってだんだんと夫婦らしくなっていくもんでしょ」
「そうだね。あ、そうだ、明日はお弁当作ってくるね」
「あ、いいね、じゃあ僕はクッキー焼いて持ってくるよ」
そんなこんなで教室に。
不来方さんはクラスの女子に囲まれた。みんな心配していたのだ。
結婚の報告もしたかったけど、とりあえず互いの両親に報告してからにしよう。
何とでもなるさ。新婚生活も、三つの鍵とかいうのも、そして僕たちの未来も。
がらがら、と引き戸が開いて。
僕は、というかクラスの大半の生徒がぽかんとする。
入ってきた人物が、あまりにも美しかったから。
「えー、三輪先生が産休に入られましたので、今日から私が君たち1年生の担任を務めさせていただきます」
明るめの髪はうなじにかかるぐらい。切れ長の目と透明感のある肌。首は細く長く、厚ぼったい唇には色素が薄い。体の線に張り付くような、見事な縫製のドレスシャツを着て、腰にはやはり吸い付くようなタイトスカート。スーパーモデルのような貫禄と、闇の暗殺者みたいなセクシーさが両立している。
ホワイトボードに名前が刻まれる。
神咲澪。
「ササカミオ、と読みます。通常、神はサとは読みませんが、昔の人はサ行の音に神秘的な響きを見出しました。だからサ行は神様の音なのです。カンザカやカミサキではなくササカです。ではまず、皆さんの顔と名前を確認させてくださいね」
先生は出席名簿を持ち、机の間を練り歩く。
「ええと柳川さん、伊凍さん、これは? 不来方さんでいいのかな」
「な、なんで……」
僕のそばに来たとき、先生は口元に指をあてて片目をつぶる。
そして聞こえるか聞こえないかの、絹糸のような声が。
「言っただろう。君たちに会いに来たと」
その姿は、ドレスシャツにタイトスカートという姿でも、やはり。
神秘的なまでに、美しかった。
「よろしくお願いするよ、旦那様」




