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月琴の魔法使い 〜月夜中学校バイオスフィア部の日々〜  作者: MUMU
第一章 青バニーは静かに泣く
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第五話「とんでもなくラッキーなことだよ」



映像はまずモノクロから始まる。


ツィオルコフスキーが残した多段ロケットの想像図、ゴダードのロケット燃焼実験、電車に乗ってドイツからの亡命を図るヴェルナー・フォン・ブラウン。彼らの歩みの先にはアポロ計画。月着陸船とスペースシャトル、国際宇宙ステーション、日本のH2Aロケットも。


だけど2020年代を最後に、ロケット開発は一旦収束を見たかに思えた。スクラムジェットエンジンはなかなか実用化せず、ヘリウム3を用いた核融合炉も実証段階に至らない。月面計画は亀の歩みに入ったんだ。映像の中ではロケットの映像とともにナレーションがそのことを語る。


人類の持てる力は宇宙に届くはずだった。だが、莫大なコストを払って宇宙に挑む国は現れなかった。


そして映像が切り替わる、ノイズ交じりの映像から鮮やかな青へ。蒼穹と碧海、オセアニアの小さな島に建造されたロケット発射台。


点火。膨大な噴煙を吐きながらロケットが上昇していく。


加速度に耐える宇宙飛行士たちが映る。座席は二つ。白人の男女だが、彼らがどこの誰なのかはついに分からなかった。本当の名前も、国籍も。


バニー・バニーとは一組の夫婦だった。彼らはどこかの政府に属しているわけでもなく、宇宙産業の社員でもなかった。


彼らを一言でいうなら何だろう、冒険家、旅人、それとも動画配信者だろうか。


彼らは自らで用意したロケットを使い、夫婦ともに月へ上った。そして月面にモジュールを構築し、実に4年も月で暮らしたんだ。


彼らは月面に領土を宣言した。ここは地球のどの国にも属さない、国の名前すらまだ無い、完全なる新しい領土であると。


映像の中でバニー・バニーはスコップを使い、居住モジュールの上に土砂レゴリスを撒いている。微細隕石を防ぐためだ。


水耕栽培で野菜を作り、魚を育て、ニワトリを育てた。時には月面を何十キロも歩く旅をした。


彼らが月に持ち込んだ物資はわずか4トン。食料に至っては150キロを切っていた。しかも市販のレトルトパウチや缶詰を持ち込んだんだ。


バニー・バニーは月での自給自足を目指していた。食料の残滓ざんしを月の土砂と混ぜてコンポスト処理し、土を作った。地球から持ち込んだ種を太陽光で育てようとした。


その多くはうまく行かなかった。作物は宇宙放射線の影響で育たず、養殖しようとしていた魚は水質管理のミスで死んでしまった。

彼らを支えたのは地球からの補給だ。やはり隠蔽されていたロケットが何度か打ち上げられ、月の衛星軌道から物資を投下した。


バニー・バニーは名前を持たなかった。一組の夫婦は互いを「バニー」とだけ呼ぶ。彼らは月面の過酷な環境の中で働き、時に絶望し、時に狂気にも侵され、そして愛し合った。彼らは月面でセックスを行った最初の人間であり、女性のほうのバニーは妊娠したという。


「月に行くために、もっとも必要なものは何だと思う」


男のほうのバニーがカメラに向けて語る。これは月での4年目の映像。宇宙線を浴び続けたカメラはノイズがひどく、お腹が大きくなっていた女のバニーはぐったりと横になっている。彼らは月面の低重力環境で骨が劣化し、おそらくもう地球の重力に耐えられなくなっている。


「それは不完全性だ。何もかもうまくやろうとしている人間はけして月に行けない」


バニー・バニーの目は生死の境目にあっても輝いていた。


「俺たちが成功したか失敗したか、それはどっちでもいい。俺たちは配られたカードにすべてを賭けた。そのことに後悔はない」


そこで頭を振る。言葉が適切ではないと感じているようだ。大きくなっていた妻のお腹を撫で、やせ細った顔のバニーは言う。


「後悔があったとしても関係ない。俺たちのことを教訓にするな。それが本当の自由だ」


「受け継がれるものでは限界があった。だから受け継がれるものを超えるしかなかった」


「俺たちは知性である前に生命だ。宇宙を目指せ、星の輝きを目指せ」


「お前が行くんだ。バニー・バニーはここにいる、お前が来るのを待っている――」


後半は音声とともに言葉が乱れている。下に出ている字幕は、ノイズ混じりの声をどうにか文字に起こしたものだ。


バニー・バニーに対する表向きの評価。

それは一言で言うなら、最悪だ。


無謀な妄想家、楽天的な愚者、自殺志願者、異常者、科学を愚弄、テロリスト、無軌道な放蕩者、某国の差し向けた工作員、社会を混乱させた、見るに堪えない、命をもてあそぶ、胎児があまりに不憫、ろくに技術書も読んでない、すべてがフェイク、月になど行っていない、バニー・バニーなど存在しない――。


もちろんバニー・バニーが月へ行ったのは真実だ。少なくとも僕は懐疑論とその反論を両方読んだ。そして間違いなく行っていると確信している。


バニー・バニーの直後から世界中で宇宙開発が活発化した。領土を宣言されるのは看過できなかったから、という人もいるし、バニー・バニーの配信が50年分の実験とノウハウを与えたという人もいる。


現在でも、表立ってバニー・バニーを肯定する人は少ない。熱狂的な信奉者は大勢いるが、公的な立場の人物がその名を口にのぼらせることはない。


だが、バニー・バニーは確かに世界を変えた。


月に住むことができると証明してみせたんだ。


それから1年後、アメリカの宇宙飛行士がようやくバニー・バニーの居住モジュールを訪れた。


中には誰もいなかった。宇宙服が無かったから、月のどこかに旅に出たのか。最後の時を月の大地に捧げたのか、そのように言われている。


そこからさらに20年。人類はマルチキャスターを開発し、大量の物資を月に送っている。結局のところ月面開発とは効率を突き詰めるとか、宇宙飛行士の人間的性能を上げるとかではなく、社会を動かすような劇的な何かと、圧倒的なマネーによって進展したんだ。


映像はまだ続いている。バニー・バニーの言葉はもうほとんど聞き取れない。だが最後に、ふいに男のバニーが立ち上がり、目を見開いて言った。


「人間は、いつか月へ向かわねばならない」


バニー・バニーは言う。ノイズ混じりの映像の中で、僕だけの目を見て。


「すべてが揃うのを待っていては間に合わない。人生はいつも不十分で不完全なんだ。大切なことは死ぬことだ。死のリスクと付き合える人間はとても少なくなってしまった。だから心を少年に戻せ。愚か者に、無謀なる者になるんだ」 


「ウサギのように愚かに、自由に――」


映像は終わる。


これが、バニー・バニーの物語のすべて。


僕は頬を伝っていた涙を袖でぬぐう。何百回と見ている「最後の配信」だが、感動が色あせることはない。


そして、僕の内に一種の万能感がある。


僕は不来方こずかたさんにどう向き合うべきか。彼女は何に悩んでいて、何をどうしたいのか。


そんな考えを、頭の中から追い出す。


そう、必要なのは不完全性。


何もかも万全にはいかない。万全であろうとする人間は、けしてその先へは行けない――。





僕は噴水に腰かける。


深夜の空気は住んでいる。月夜町にはたくさんの人が住んでいるはずなのに、この噴水は町の中心なのに、驚くほど人がいない。月夜町にはイレギュラーな人間がいないんだろうか。夜中に買い物をする場所もなく、散歩に出る人もなく、町そのものが眠るように思える。


その前を通りかかる人物に、僕は呼びかける。


「不来方さん」


青バニーの服を着ている。銀バニーのお姉さんと違うのは胴部の色と、タイツがデニール値の高いもので黒っぽいことぐらいか。


「竹取くん?」


不来方さんはきょとんとしている。僕がここにいたことが不思議なんだろうか。いつものような大きな丸眼鏡の向こうで、やはり大きな目がきらきらと輝く。


「心配してたんだ。何日も学校を休んでるから」

「う、うん……ごめん、ねえ」

「こっちで話そうよ」


竹取さんは言われたとおりに歩いてくる。ヒール付きの靴はあまり歩き慣れないようだ。歩道から道路に入る段差で少しふらつく。


「部活に出てきてほしいよ。マルチはまだ止まったままなんだ。これから海洋モジュールを作っていきたいんだ」

「うん……ごめん」

「授業とか大丈夫? 今は学校に行かない人もたくさんいるけど、やっぱり対面授業のほうが効率いいらしいし」

「うん……テキスト進めてる。三輪先生が注釈付きのを送ってくれてるの」


不来方さんはいつもより落ち着いてるようだ。たどたどしい話し方が取れて、猫の歩みのようなゆっくりした話し方になっている。


服装のせいだろうか、と僕は思う。不来方さんにとってバニーガールは平穏が得られる服なのか。


「不来方さん、何か悩んでるなら話してほしい」

「……」


不来方さんは、横目でちらりと僕を見る。そこには迷いがあった。言葉にするのを恐れるような様子。


「大丈夫、どんな悩みでも受け止める」

「で、でも、私の悩みは」

「僕たちはバニー・バニーの申し子だ」


不来方さんが僕を見る。結い上げた髪の先で、余った髪がわずかに揺れた。


「バニー・バニーの二人はどんな悩みでも共有した。彼らには秘密も遠慮もなかった。だから個別の名前すらいらなかった」


不来方さんは。

ごくり、と唾を呑みこみ、両足を噴水の外縁に持ち上げて膝を抱える。


「わ、笑わないで聞いてくれる?」

「うん、笑わない」


誰かの悩みを聞く、それは名誉あることだ。誇りこそすれ笑うものか。


「わ、私」


不来方さんは丸い膝の上で、手の指をもじもじと動かしながら言う。


「大人に、なっ……なりたいの」


言葉が、夜の底に流れる。


僕は……しばらくじっとしてたと思う。その言葉の意味するところがよく分からなかったのもある。


大人になりたい……それは確かに、僕だって思う。早く大人になって、月面開発のメンバーに選抜されたい。極低圧労働者ロープレスワーカーか、技術者エンジニアか、それとも往還ロケットのパイロットか。


でも、そんなことではないような気がする。僕は不来方さんの言葉を待つ。


「私、早く結婚して、子供を産んで、家庭を築きたいの。一刻も早くそうしたいの」

「一刻も、早く……」

「た、竹取くんは、人生の残り時間って、考えたことある?」


残り時間?

確か、いまの日本人は95歳ぐらいまで生きるはずだ。でも健康寿命という事ならもう少し短くて、88歳ぐらいだったかな。


「わ、私は、明日にも死ぬかもしれない」

「そんなこと」

「わ、わからない。じ、事故に遭うかもしれないし。び、病気で倒れてしまうかも。この心臓の鼓動が、ま、前触れもなく、と、止まるかもしれない」


一瞬、不来方さんが何か病気を抱えてるのかと思った。


でもそれはない。銀バニーのお姉さんは健康問題ではないと言っていた。


これは死への恐怖タナトフォビアだろうか。

人間はいつか死ぬ。それがいつになるかは誰にもわからない。

いきなり命を落とす可能性は低いけど、ゼロとは言えない。もし死の恐怖を無限大と解釈した場合、その確率が極小であっても、リスク値が無限大になってしまうという奇妙なことが起こる。人間は、人生の残り時間を意識した瞬間、何かをせずにはいられない衝動に駆られるのか。


「わ、私たち、大人になるまであと何年だろう。高校を出て、大学も出て、パートナーを見つけて、そんなことが、果てしなく遠いの。お、大きな壁に思えるの」


それは、おそらく大なり小なりみんなが抱く感覚。


未来という、想像もつかないほど巨大なもの。


「だから、バニーガールになったの。こ、この格好。女らしいでしょう? ヒールを履いて、背伸びをして、す、少しでも、大人に近づきたかった」


そうか、不来方さんにとってバニーガールは大人という記号。それを身にまとうことで、少しだけ心を落ち着かせていた。


僕は。


僕の思考はくうとなり、となる。


何も恐れることはない。

僕の背後に偉大なるバニー・バニーがいる。僕が自然につぶやく言葉が、唯一無二の僕の答えだ。


そうだ、人生は一度きり。


けして悩むことなき選択を。



「じゃあ、結婚しようか」



不来方さんは。

僕を見て、震える瞳に涙をたたえる。


「い、いいの?」

「子供はまだ無理かもしれない。でも結婚で心が満たされるなら、結婚しよう。それも不来方さんにとっての人生の目標でしょう?」

「わ、私たち、あんまり友達らしいこと、してこなかったよ」

「そんなこと問題じゃないさ。会ってその日に結婚する人だっているんだ」


浅はかな決断?


考えなしの暴走?


なんの法的根拠もない?


知ったことじゃない。

僕たちはバニー・バニーの申し子。


心のおもむくままに、人生を楽しみ、あらゆることを成し遂げるんだ。


不来方さんは。

手を伸ばして、僕の手をぎゅっと握る。


「……ありがとう、竹取くん」

「こっちこそありがとう。僕もいつかは結婚したいと思ってた。それが13歳でできるなんて、パートナーが見つかるなんて、とんでもなくラッキーなことだよ」

「うん、本当に……本当にありがとう」


僕たちは固く抱き合って。頬を重ねて。


ぱち、ぱち


はっと、顔を上げる。

ラウンドアバウトに立ち尽くす姿。それは銀色の妖精のよう。


ウサギの耳に月光をたくわえ、重力から解き放たれるような高いヒール。



銀バニーの、お姉さんが――。


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― 新着の感想 ―
認識間違ってたら申し訳ないんですけど、これネクロフォビアというよりタナトフォビアじゃないですか?
すごい
ものすごく良い!死の受容と決断。 ある種の無軌道。 MUMU先生はやはり天才だと思います。
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