エピローグ
月の裏側。
かつてのSFでは月の裏には大都市があると想像されたらしい。不来方さんからそんな話を聞いたことがある。
今はそれが眼下にある。集積回路のように広がるモジュール群。月面開発用の重機とクレーン。稼働中の3Dプリンティングマシンもある。おそらくタブレットが動かしている。
僕たちのスペースプレーンは、月に一箇所しかない滑走路に着陸。
僕たちは宙港ロビーを歩く。天井の広い贅沢な空間。観葉植物や水槽などもある。そして人はいない。
「本当に誰もいないの?」
「ああ、全員帰してしまったからね」
月の裏側に点在する千以上のモジュール。そのすべてが無人というのは物悲しいものだった。ふわふわする感覚のままで通路を歩く。
鍋の蓋のような小さな窓から外を見れば、いくつかの重機が動き出している。素体のままのロボットが機械を整備している。すでにタブレットの仕事が始まっているんだ。
「ねえ、僕たちって地球ではどう報道されてるの」
「知らないほうがいい」
やっぱりそうなのか。覚悟の旅だったとはいえ、いざ大騒ぎになってると知ると嫌なもんだなあ。
「ねえ先生」
「何かね」
「始まりの魔法使いが言ってたこと。なんで先生は魔法が使えたの? バニー・バニーが何か残してたわけじゃないの?」
「秘密だよ」
先生は片目をつぶり、いたずらっぽく笑う。
「バニー・バニーは何も知らなかった。ロケットを提供してくれた人物のこともね。疑問はあったがそれでも旅立った。だから偉大なのだよ」
なんかごまかされてる気がする。というかバニー・バニーの名前を出せば納得するだろうと思われてないかな。
先生が魔法を使える理由。
一つは先生が本当の天才であり、始まりの魔法使いとはまったく異なる理屈で魔法を、ウィザード級ハッカーの中でも突出した能力を持つまでに至ったという可能性。
もう一つは。始まりの魔法使いと同格の存在から魔法を与えられた。
同格? そんな人がどこにいると言うんだろう。
そんな人が地球にいたなら、始まりの魔法使いに好き勝手にやらせるはずが。
地球、に。
「……宇宙人」
その言葉は、実際には発音されなかった。
僕はそんな言葉で謎を説明したりしない。
これは蓋然性の問題である。バニー・バニーが宇宙人に出会った可能性より、先生がたまたま天才であった確率のほうがずっと高いからだ。フェルミのパラドックスを持ち出すまでもないことだ。
「これからどうするかね、少年」
先生は、僕の背中をぽんと叩いて言う。
「? 何いってんの。まずバイオスフィアを作るのと、核融合ロケットの開発でしょ」
「ほう」
と、先生は口角を上げる。
「いいのかね。私の力なら君に別の名前を与えて地球に戻すことも可能だよ」
「でも月は滅びるんでしょ」
バニー・バニーの存在と、第二次月面開発競走は、魔法使いが仕組んだこと。自然に生まれることではなかった。
本来ならば、人類は月に都市など作れなかったんだ。
だから火星や木星に行くこともなく、地球でひっそりと種の歴史を終えたんだろう。
でも。
「バニー・バニーの偉大さだけは嘘じゃない」
魔法なんか関係ない。
策略があったとしても、月へ旅立ったのは彼らの意思だ。
人間は、月に行ける。
火星にも木星にも、もっと遠くへも。
それを、僕が証明する。
「人類」がどんな大人になるかって?
それはもちろん、星の海へ出ていくんだよ。
無数の星を渡って、数え切れない宇宙人と出会うんだ。
誰かが諦めても、僕は絶対に諦めない。それがバニー・バニーの魂だから。
「先生は帰りなよ。あとは僕と、タブレットの分身たちでやるから」
「おや、つれないね」
先生は僕に寄り添い、肩に腕を回す。
「私も付き合うよ。子供を一人にしておけないからね」
「僕はもう大人だよ、既婚者だし」
「結婚は解消ではないのかね。君は結婚詐欺に遭ったようなものだし」
そっか、不来方まおという人物は実際には存在しなかったわけだから、まあ離婚になるのかな。
「じゃあ再婚しようかな。子孫を残すのも大事だし」
「おや、急な告白だね」
先生の言葉に、僕はきょとんとする。
「いや、結婚はタブレットとするけど」
間。
「え?」
「タブレットの分身って性格も容姿もいろいろ生まれるだろうし、バイオスフィアができたらお嫁さん探すよ」
「いや、タブレットはロボットでは」
「今どき変なことでもないでしょ。子孫については自家クローニングとかで何とかするよ。月面では凍結卵子の研究もやってるんだっけ」
「あのね、私とか」
「ぼく年上はちょっと」
「おーいご主人どもー」
がちゃがちゃ、と音を立てて走ってくるのはタブレットだ。まだバニースーツが用意できてないので、むき出しのアルミボディのままである。頭部はスピーカーだけが乗っているのでロボット感が強い。
「どうしたの」
「いちおう全モジュールの検索が終わった。人間はいないし必要な物資の所在も把握したぜ」
早いなあ、僕たちが着陸してから30分も経ってないのに。
「バイオスフィアはどうなってるの」
「もう作り始めてんぜ。3Dプリンタ建築と、モジュールをいくつか解体して作る。居住区ができるまで7時間。すべての完成まで715時間」
一ヶ月ぐらいか。月面であることを考えるととんでもない早さだ。
タブレットはロボットなので、仕事にちょっとした休憩とか間を取るとかが一切ない。ロボットから見ると人間の会話は超スローモーションに見えるとか聞くけど、建築もそうなんだろうな。
「じゃあその間にやっておくことは……勉強とかかな」
「それなんだが、ちょっと妙なものが見つかってよ」
「妙なもの?」
「こっちだ」
僕たちはタブレットの案内で歩く。月面基地には網の目のように通路が作られているが、そのすべてを与圧しておくのはコストがかかるので、バイオスフィアが完成したら大半は閉鎖することになるだろう。
途中で機密型のモービルに乗り替えて、通路のない区画を横断する。
地球からは見えず、こちらからも地球の見えない月の裏側。どこか遠くの星、誰も知らない銀河の果てに来たような寂しさを覚える。
「ここだ」
僕たちは簡易的な宇宙服を着て降りる。月夜中で練習していたよりも早く着れた。やっぱりあの練習用のダミー宇宙服は欠陥品だと思う。当たり前だけどタブレットは骨組みのままで降りる。
「こいつだ」
「これって」
穴だ。
とてつもなく深くて大きな穴。直径は20メートルほどあって、穴の中は暗黒しか見えない。
上空にはスラスター噴射型のドローンが飛んでいる。タブレットがこれで月面を調べていたらしい。というより目の前に立ってるタブレットは目も耳もないので、こういうドローンとか、各所のカメラが「目」なんだろうな。
きっと同時に数百の画面を見てるんだろう。ロボットの視覚は僕たちとはまるで異なるんだ。
「これってクレバスかなあ。別に珍しいものでもないでしょ。月にはこういうのたくさんあるよ」
「そうだね。深いものもあるから気をつけないといけないよ」
クレバスの中は太陽風や宇宙放射線を防げるし、微小隕石も防げるので、居住区として利用できないか検討されたこともある。
だけど今のところ実現してない。地下に住むことには不便も多いし、隕石がモジュールを破壊するのは百年に一度あるかないか、という程度の確率だからだ。
「確かにそうなんだけどよ、この穴はどこか変だ」
「変って?」
「わずかに大気がある。97%の純酸素だ」
大気……そういえばスラスタードローンの軌道がおかしい。この穴の上に差し掛かると起動が乱れている。気流があるんだろうか。
「このあたりは0.04気圧。穴の大きさからすると結構な量の酸素が噴き出してる。深い場所なら呼吸できるかもしれねえ」
「何があるんだろう。月面都市の人たちは知らなかったのかな」
「分かんねえ。月面の調査記録がすべて消されてる。痕跡も残ってねえ」
消されている。痕跡も。
その力って、まるで魔法のような。
「先生は何か知ってるの?」
「……」
先生はと言うと、きょとんとした顔をして見返してくる。なんだか幼い印象があって、始めて見る表情だ。
「……タブレット、ドローンを穴の底まで下ろしてみてよ」
「もうやった。でも深さ900メートルあたりで電波が届きにくくなる。それ以上は自立プログラムを組むか、中継点を残しながら降りねえと。それと……」
タブレットは、人間くさい部分のある彼女にはままあることだけど、頭をがしがし掻いて、困惑するような声で言う。
「地下600メートルあたりからの壁面が、なんか妙だった」
「妙って?」
「人工物くさいというか……まるで、その、古代遺跡みたいな」
「……」
月の古代遺跡。
それは実にセンスオブワンダーだ。
でも僕は「ありえない」とは言わない。可能性はゼロじゃないから。ただ小数点以下にゼロをいくつ並べても足りないぐらい低確率なだけだ。
「……調査する必要あるよね。準備を整えてから」
「やっぱりそうなるか」
タブレットは金属製の腕を組み合わせる。
「なんだか妙なことが多いんだよな。いくつかのモジュールにも変なもんがあるし」
「変なものって? もう全部言っといてよ」
「その……月面にデカい動物はいないはずなんだが、フランスのモジュールに明らかに水牛の骨があった。ロシアの方のモジュールにはなぜか古いラジオが大量に置いてあった。インドのモジュールだと正体不明の草が育ってた」
「草?」
「金色の草だった。遺伝子解析に回そうとしたけどよ、切れねえんだ」
「切れないって」
「ダイヤソーでも切れねえ」
……。
「なに、心配ないさ」
先生が、ぽんと背中を叩く。
「私とタブレットがついてる。一つずつ調べていこう」
僕はほうと吐息を放つ。ヘルメットの内側が一瞬、白く曇った。
なんだか、僕の物語はまだまだ始まったばかりのような気がする。
宇宙の果てに行くとか、ロボットが人間になるとか、宇宙人だとか月の古代遺跡だとか、妙なことを研究してたらしい各国のモジュールとか。
果たして僕はどんな人生を送るのか。
そして人類は?
いつかは宇宙の果てに出ていくのか、それとも地球にいたまま至高の文化を目指すのか、争いあって滅びてしまうのか。
それとも、まったく想像もしなかった未来があるのか。
何も分からない。
でも、それもまたよし。
「どんな事が起きても、恐れないよ」
僕は言う。
「僕は、バニー・バニーの申し子だから」
僕の人生も、人間という種の人生も、今ここからが本番なんだ。
「あ、そのバニー・バニーだけどよ、ちょっと大変なことがわかって」
「先に言ってよ!」
(完)
これにて完結となります。短い間でしたがお付き合いいただきありがとうございました。
さて今回もというか、このお話も実はダイダロス・シリーズの一つです。
拙作「迷宮世界のダイダロス」から派生した作品となっています。
おそらく勝利したのはアルテミスでしょうか。どこかの段階で彼女が勝利していたなら、こんな物語が生まれたかも知れませんね。
ダイダロスの世界観はお気に入りなので、今後も何かの形で書いていければと思っています。同じくシリーズの一つ「ヒトコトノベル」とあわせてよろしくお願いいたします。
ではまた、いつかどこかで。
2025 11 04 MUMU




