第三十話「それは、僕だ」
スペースプレーンは急速に近づいてくる。しかし揺れてるようには見えない。宇宙空間用の姿勢制御スラスターを使って振動を抑えている。空に巨大な鏡があり、それに機体が映っているような錯覚にとらわれる。
一気に並列になり、ばね仕掛けのように伸ばされるドッキングユニット。数万分の一の大気とは言え時速1000キロ近く出ているのに、完璧にブリッジを接合させる。
「ちくしょ、こっちのドアロックが解かれた、いいのかよご主人」
「抵抗しても無駄なんだ、向こうに任せるしかない」
それに、もし仮にこちらが何らかの抵抗を見せたとして、あのブリッジが外れたり密閉が破れでもしたら、大気の薄い世界に暴露する。それは想像する事すら恐ろしい。
乗り込んでくるのは、やはり銀色のバニースーツ。
丸胴の月琴を持ち、ウサギの耳を天井近くまで伸ばすのは神咲先生。
「やあ、二人とも」
「せ、先生……」
不来方さんもさすがに怯えを見せる。僕は彼女に後ろへ下がるように合図する。
「先生、あなたがどうしてここに来たのかは分かってる」
「そうかい?」
「そして準備もしてる」
がちり、と。
抜き放つのは大口径の拳銃。
「! 竹取くん!」
「不来方さん、もっと下がって」
メタリックなシングルアクション銃。デザートイーグルだ。タブレットになるべく大きな口径のものを調達してもらった。
「先生、動かないで。これは破壊力の高いホローポイント弾。先生に当たらなくてもスペースプレーンのアクリル窓を破壊する可能性がある。そうなれば真空暴露でただじゃすまない」
「物騒なことだね」
「た、竹取くん。ダメだよ。いくらなんでも、そんなこと」
「聞いて、不来方さん。これはすべて「始まりの魔法使い」が仕掛けたシナリオなんだ」
銀バニーは、神咲先生は動かない。僕たちとの距離は10メートルあまり。先生は目の奥に油断のない光を宿しながらも、口元をわずかに緩ませる。
「どんなシナリオだと言うのかね」
「すべての人間が、求めてやまない願いがある。始まりの魔法使いが求めたこと。それを獲得するためのシナリオ」
人が望むこと、その究極とは何だろう。
豊かさや快楽を手に入れる。多くの尊敬を集める。自己の興味を追い求める。それもまた幸福の形。
だけど「始まりの魔法使い」は神をも恐れぬ人物だった。その持てる力のすべてを使って仕掛けたシナリオがあった。それは。
「主人公になること」
僕は言う。
言葉はしかし、その場にはっきりとは残らない。曖昧で雲をつかむような、とても人間のなし得ることとは思えないほど巨大で、肥大した、虚ろな言葉。
「誰もが、自分の人生の主人公だよ」
先生は言うが、僕はかぶりを振る。
「そうじゃないんだ。始まりの魔法使いが巻き込んだのは全世界。これまでの人間の歴史。生まれてきた技術。積み上げてきた資源。そのすべてをつぎ込む巨大な物語。これまでの人類史のすべてが、ある一組の夫婦が宇宙に出ていくためのプロローグに過ぎない。そんな物語を編もうとした」
旧時代の宇宙計画において、ロケットとは花火の先にくくりつけられたアリに喩えられた。
大変な量の燃料と、人員と資金。それを湯水のように注ぎ込んで、そうしてやっと数百キロの荷物を月へ送り込める。
では、もっと遠くへ。
宇宙の果てに行くためには、どれほどの資源が必要になるんだろう。月に持ち込んだ何兆ドルもの資材が、そのすべて食いつぶすほどのロケットが必要なのか。
「幸せとは唯一性。優位性。独自性だと考える人もいる。始まりの魔法使いは人類が宇宙の果てに行くという、その凄まじい物語の主人公になろうとしたんだ」
「仮にそんな魔法使いがいたとして」
先生は柔らかいものを撫でるように言う。
「私がそうだとでも言うのかね。始まりの魔法使いがバニー・バニーに力を与えたと言うなら、それは20年以上前の人物だ。私がそこまで年嵩に見えるかね」
「始まりの魔法使いは人知を超えるほどの力を持っていた。その力の前には外見も年齢も意味を持たないんだ。どんな箱も覗き、どんな場所にも現れ、どんな事でも可能にする。あるいは、自分を赤子にまで戻すこともできる。始まりの魔法使いとは」
銃を。
大口径の銃を、僕のこめかみに。
「それは、僕だ」
押し当てられた銃の感触。銃は十分な口径と威力のものを選んだ。撃つべきポイントも分かっている。確実に僕の脳を吹き飛ばしてくれる。
「竹取くん!」
「君が、始まりの魔法使いだと言うのかね」
「奇妙だった。何もかもだ。なぜ僕の周りにバニーガールが4人もいるのか。なぜ僕たちはバイオスフィア部に集まったのか。なぜ僕と不来方さんは結婚して、伊勢先輩という特別な人が部長で、タブレットという自我を獲得したロボットが月夜町に生まれて、僕たちを送り出してくれたのか。そのすべてが」
始まりの魔法使い。
僕は恐ろしい。
どれほどの演算を行えばここまでの舞台装置が作れるのか。多くの人の運命を操り、天文学的な資金を動かして。それはもう数百キロ、数千キロに及ぶパターパット。それをカップにねじ込むのは人間の想像を超えている。
バニー・バニー、第二次月面開発競走、月面都市、月夜町、人材育成計画、人工知能。
万能の詠唱者。
「竹取くん……竹取テルくん」
神咲先生は、目元に陰を宿らせて言う。
「仮にそんな計画があったとして、私はそこにどう関わると言うのかね。私もまた、始まりの魔法使いが仕掛けたキャストの一人。君たちの旅立ちを阻まんとする物語の悪役だと言うのかね」
「違う」
そうだ、それは違う。
神咲先生は僕たちの物語に必然じゃない。それにウィザード級ハッカーという役どころがタブレットと重複している。物語のキャストとして不自然だ。
「あなただけは違うんだ。魔法使いの影響を受けていないのは、魔法使い本人を除けばただ一人。あなただけなんだ」
「では、私が何をきっかけにこの物語に割り込んできたのだろうね」
「「よいち」の奇妙な動きだ」
そうだ、それは僕たちの物語の最初に起きたこと。月の運動に従って約25時間おきに射たれるはずの投射体が、まるで異なる時間に射たれた。
――僕はこれが異常事態だと分かる。
――何しろ昨夜……いや、深夜1時過ぎだったからほんの14時間ほど前のことだ。僕は「よいち」が投射体を射ったのを見たんだ。
「神咲先生、最初はあなたがやったことと思っていた。でも違う。あれこそは物語の火蓋を切る音。始まりの魔法使いが仕込んだことなんだ」
「どっ……どういうことなの、竹取くん」
不来方さんをちらりと見る。彼女が僕を制止しようとする可能性はある。僕は銃を奪われないように数歩離れる。
「あれは月への狼煙。あれは予定にない発射であり、月のどこかの施設が破壊された。少なくとも安全圏の外側に着弾したはずだ」
――もし「よいち」が乗っ取られれば、月面のあらゆる場所に投射体が撃ち込まれる。
――迎撃も防御も不可能な秒速数キロの金属塊、どの施設が狙われるか分からない。人間は月に住めなくなる。
「月面は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。でもそんなネガティブな情報は降りてこない。月には莫大な投資がされてるから」
まずは日本の「よいち」が徹底的に調べられたはずだ。職員の一人一人、プログラムの一行に至るまで。
その中で僕の両親。不来方さんの両親の汚職が見つかり、みな海外に逃げてしまった。僕たちは都合よく両親を失った。これすらもすべて計画のうちだというのか。ばら撒かれた無数の歯車が、一つの無駄もなく連動して動く感覚。
「そして……世界が気づいた。異常な射出の痕跡がまったく見つからない。人間レベルをはるかに超えた存在が関わっていると。実際にはトリガーは何年も前から「よいち」に埋め込まれていただろうけど」
――世界は理解したのさ。本物の魔法使い。あるいはそれに匹敵するぐらいのハッカーが存在してる。
――この世界には確実にネットワークの支配者が、魔法使いがいるってな。
「誰もがその存在を恐れた。逆らいようのない相手だ。多くの国は月面基地を放棄、あるいはいったん人員を離れさせて様子を見るしかなかった」
――ここ最近、暗号通信が慌ただしく交わされてる。あたしにも解読できねえけど日本とアメリカが特に多い。
――他のモジュールもスペースプレーンの往復が増えてるし、全体的に人員を減らしてる感じがある。
「逆を言えば、それは始まりの魔法使いが仕掛けたシナリオの開始を意味する。だからあなたは月夜町に来たんだ」
――私はね、君たちに会いに来たんだよ。
――君たち?
――そう、月夜町の少年少女たちにね。
「あなたなら月夜町の人材育成プログラムのことぐらいすぐに知るはず。あなたは日本に、月夜町に始まりの魔法使いがいると考えた。だから僕たちに接触した。付かず離れず。常に僕たちを観察していたんだ」
そして月夜町には、すでに三人のバニーガールがいた。
「あなたは物語に「参加」することを考えた。だからバニースーツを着て僕に接触した」
「では」
先生の言葉が硬い芯を持つ。
重大な質問がなされようとしている。金貨を置くような先生の言葉。
「動機は何かね。私が、君たちに接触した動機とは」
「それは」
「あなたが、バニー・バニーの子供だから」
僕の言葉が、世界に刻まれる。
口に出した瞬間、世界に固定される。新たな元素のように。発想が不来方さんにも伝わる。彼女はわななくように口を押さえる。
「ま、まさか……」
「バニー・バニーは月面でセックスを行い、妊娠した最初の人間だ。バニー・バニーの2人が最後の通信を行ったとき、女の方のバニー・バニーのお腹は大きく膨れていた。その通信を最後に、バニー・バニーの消息は知れない。死体も見つかってない」
「出産に成功したと言いたいのかね」
神咲先生は髪をかき上げる。その声には挑戦的な響きがあった。君にその話を最後まで語り切ることができるのか、と煽っているようにも見える。
「過酷な月の環境で、新生児を育てることができたと」
「可能性はいくつかある。公式にはアメリカがバニー・バニーの住居を訪れたのは1年後だけど、それ以前にどこかの国が来ていた可能性。アメリカはバニー・バニーが見つからないと報告したけど、実は見つかっていて保護された可能性。バニー・バニー自身が月着陸船を再起動させて帰ってきた可能性だってある」
そして、バニー・バニーJrとでも呼ぶべき存在が生まれた。それは女性だった。
彼女は始まりの魔法使いの存在を知っていた。成長する中で第二次月面開発がなぜか伸び悩んでいることを知り、魔法使いの本当の目的に気づいた。すなわち、月面都市すべてを乗っ取り、宇宙に旅立つ計画。
「彼女には動機があった。始まりの魔法使いのだいそれた計画を止めようとしたのか。それとも、バニー・バニーをそそのかし、未熟な彼らを月に送り込んだことを恨んだのかもしれない」
「大きく譲ってそうだったとして、なぜその赤ん坊がウィザード級ハッカーになれるのかね。偶然に才能に恵まれていたとでも?」
その質問には意図的なものを感じる。君にそこまで分かっているのか、と挑戦されている。
「仮説は立てられる。始まりの魔法使いが、バニー・バニーに魔法を授けていた可能性だ」
「ほう」
「でもバニー・バニーは魔法使いにはなれなかった。猛獣とムチを与えられたからって猛獣使いになれるわけじゃないのと同じだ。だけどその子供は違った。残されていた魔法を理解し、使いこなし、世界から演算リソースが減少したあとでもわずかに魔法を維持していた」
魔法とは、世界中のマイニングマシンの演算リソースを利用したものと言われている。仮想通貨の凋落によりその総量は減少した。魔法使いは世界に最後の魔法をかけたあと、魔法そのものすら世界から奪った。
だけど……すべてが消滅したわけじゃないかもしれない。とにかくバニー・バニーの子供は魔法の杖を手にしたんだ。
「では、その子供は」
先生は、細く長い指をぴんと立てて言う。
「何を求めているのかね」
「始まりの魔法使いを見つけて、罰すること」
そして、それが僕。
この僕こそが、始まりの魔法使い。
魔法使いには年齢や外見など意味を持たない。この世で操れないものは無いからだ。
始まりの魔法使いは自らを「物語の主人公」にした。すべての記憶を消して、月夜町の平凡な人物として生まれ変わった。
だから月夜町は静かだった。静かで平和で、東京にあるようなアンチ・マルチキャスターの運動とも無縁だったんだ。物語にノイズは必要ないから。
僕は、裕福な家に生まれて、家族にも恵まれて、結婚して冒険して、莫大なリソースを食いつぶして宇宙の彼方に旅立つ。そういう物語の主人公なんだ。
バニーガールという奇妙さも、夜な夜な行われる格闘技のイベントも。少しの悲しみも。それを涙とともに克服したことも。
そのすべてが、舞台装置に過ぎないのか!
「あなたはそれを止めに来た。だから僕たちに接触したんだ。バニーガールという奇妙な物語の中に、始まりの魔法使いがいると感じたから」
ああ、めまいがする。
なんと遠大で緻密で、神をも恐れぬ所業なのか。人間に許される範囲を超えすぎている。
それはやはり、裁かれるべきだ。いくらバニー・バニーの申し子が跳躍者でも、先導者でも、放蕩者でも。
だから、終わらせよう。
何も思い出せないけれど、それでも罪は罪だ。
すべての人類に、月夜町の人々に、そしてバニー・バニーにも、あまりにも申し訳が立たない。
「不来方さん」
そして不来方さん。
料理が上手くて可愛くて、読書好きで優しくて、素晴らしいお嫁さんだった不来方さん。君が僕と結婚したのも、きっと、舞台装置に過ぎな――。
「ごめん!」
「竹取くん!!」
引き金を引く。
撃鉄が落ちて銃弾の雷管を叩く。極限の感覚の中で時間が引き延ばされる。弾丸が打ち出され、高熱の空気とともに銃口を飛び出て、僕のこめかみに当たって。ばあんと砕けて拡散して。
「私は」
先生が。
引き伸ばされた感覚の中で話している。僕の足から力が抜けて膝をつく。
「ずっと、君ではないと思っていたよ」
何を。
いや、それより。なぜ意識が。
弾丸が貫通してない。骨に響くような衝撃だけど。それだけだ。
空砲。
どうして。
タブレットが。いや、まさか先生が。
「幸福な人間に生まれ変わることは幸福だろうか」
先生が月琴を爪弾く。
瞬間。不来方さんが全身を硬直させる。その体に電極と、バネのように螺旋を描く導線。テーザーガンだ。
「私はそうは思わない。たとえ生まれ変わりを確信できても、記憶をすべて失うことは死ぬことに等しい。しかし君たち2人とも何も覚えていないようだった。おそらくは何らかのショックで思い出す仕組みなのだろう。空砲を自分に撃つ衝撃は十分条件と思われる。それ以外となると電気ショックが手っ取り早い」
「が……」
不来方さんが、全身を震わせている。高電圧によってオゾン臭が発生している。
「空砲にすり替えたことは緑バニーにも把握されていない。そしてこの場の空気にもすでに手を加えている。脳の記憶野に働きかける成分だよ。そろそろ目覚める頃だろう。古き魔法使い」
「なぜ」
不来方さんが、目を見開く。己の胴部に刺さった電極を引き抜く。
まさか、大男も悶絶させるようなテーザーガンを食らってすぐに反応できるなんて。
そしてその顔が。表情が。筋肉が。
何と言えばいいのか、まったく知らない人物のような。
「なぜ魔法を使える。私はすべての魔素を封印した。マイニングマシンにも、世界のあらゆるOSにもアップデートを仕掛けた。魔素は失われて、二度と生まれることもない。もう演算リソースなど残っていないはず。なぜ魔法を使えるの、なぜ」
その体が。
骨格、筋肉、体格すらも変わっていく。長い髪で隠れていた顔立ちは、まるで老婆の、ような。
神咲先生が、冷徹な目を向ける。
「真なる魔法使い。あなたが把握できないことも世界にはある。バニー・バニーはそれに触れた」
「何を言っているの。私は世界のあらゆることを知っていた。魔法はもう無い。それだけは確実に言える」
「人類以上の知性」
不来方さんが、はっと硬直する。
「まさか!」
「終わりだよ、魔法使い」
月琴を、びいんと鳴らす。
すると、あろうことかスペースプレーンが横倒しになる。
僕の体はシートの一つに引っかかるが、不来方さんは掴むところがなく落下。どしんと落ちるのはエアハッチの真上。むろん、すでにドッキングユニットは外され、もう一台のスペースプレーンは消えている。
「な」
不来方さんの全身が総毛立つのが分かる。だがまだテーザーガンのダメージが残っているのか、動きがにぶい。
「魔法のない世界の魔法使いとは、何者なのだろうね」
横向きのシートに立ち、神咲先生はバッグを放り投げる。パラシュートのバッグだ。不来方さんがそれを引っ掴んだ瞬間。
「きっと、何者でもないのだろう」
エアハッチが1.7秒だけ開閉。
エアプレーン内の空気の4割が吸い出されて。
そして魔法使いは、もうどこにも。




