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月琴の魔法使い 〜月夜中学校バイオスフィア部の日々〜  作者: MUMU
第三章 緑バニーは投げ出したい
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第二十三話「デリカシーがないよ」





「さて、月面には現在どのぐらいのモジュールがあるのか、詳細を明かしていない国も多いのではっきりとは言えませんが、およそ1200あまりと言われています。現在も次々とモジュールが建設されていまして、地下の開発なども行われていますね。また軌道上に待機している衛星も数多くあり……」


神咲ささか先生の授業はまとまりがない。

さっきまで更級日記の解説をしていたかと思えば、ふとしたきっかけでムガル帝国の話に飛んで、今は月面のモジュールの話をしている。まあ月夜中ではカリキュラムなんてあってないような物だけど。


「月面都市のモジュールはおもに3Dプリンタで作られています。パネルを組み合わせたものは旧時代のものですね。でも3Dプリンタ建築って歯磨き粉を積んだみたいで好きじゃないんですよね。このぶよぶよした感じだけ何とかならないものでしょうか」


それは3Dプリンタ建築の特性だからしょうがない。コンクリートで気密性を確保するにはある程度の厚みが必要なんだ。あのぶよぶよ感はどのような混合比のコンクリートが使われ、何時間ぐらいで建設されたかの目安になる。それが見て分かることにも意義があるんだ。そのへん触れてほしい。


「さて月面のトイレについても説明しておきましょう。SF小説などでは大小便は完全にリサイクルされるとか書かれますが、簡単ではなくてですね。し尿は一次処理されて農業用水などに使われますが、総重量の8%ほどの汚泥が出るのでそれはガヴェッジモジュールと呼ばれる場所に廃棄されます。有機汚泥ですので活用を考えてるそうですが、高分子ポリマーなんかも混ざってますし、医療廃棄物に該当するものもありますからね、今のところ難しいようです」


月面はトイレが十分に整ってないモジュールもあり、各所に高分子ポリマー、つまりオムツも用意されてる。トイレの完備はこれからの課題だ。


オムツ。


まさかこれが原因で、あんな事が起きるとは……。





「困っているの。どうしたらいいのか」


部室に入るやいなや、伊勢先輩は頭を抱える。


「どうしたんですか」

「タブレットさんの作戦の件。私なりに検討してみたんだけど」


僕と不来方さんはとりあえずサンドボックスを開く。現在は緑バニーの課題が宙に浮いた形になっているが、他にやるべきこともないのでまだ取り組んでいる。


「宇宙服で11.7キロを走破するとなると、やっぱり2時間ぐらいかかってしまうの。その間、もし生理現象が来たらどうしたらいいのか……」


110キロのトリエックス宇宙服を着てのマラソン。しかも1Gの環境。おそらく人類で誰もやったことがない。本当にできるのかも分からない。検討すべきことも山のようにある。

だけど、伊勢先輩のその疑問になら答えられる。


「それは、オムツ履くしかないんじゃないでしょうか」


僕がそう言うと、伊勢先輩は椅子の中で体を縮めて、どんよりとした気配を放つ。気力のない目が床に落とされる。


「……どうしても、かしら」

「当然です」


宇宙飛行士はオムツを履く。

当たり前のことである。ガガーリンもアームストロングも毛利さんも履いていたんだ、たぶん。


「ちょっと竹取くん、デリカシーがないよ」


不来方さんにたしなめられる。

いやでも、ここで引くのは宇宙っ子として良くないと思う。宇宙っ子は今思いついた言葉なので意味は分からない。


「伊勢先輩、昔の宇宙飛行士はみんなオムツ履いてたんです。何も恥ずかしいことじゃないです。今のオムツは高機能ですから大きい方をしても匂いとか少ないですし、宇宙服には消臭機能も」

「わーん」


伊勢先輩が顔を覆ってしまう。不来方さんのつま先が僕のすねに当たる。


「わかってるの……必要があれば履かなくちゃいけないのよね……。でもまだ、覚悟が。それにオムツってどこで買えばいいのかしら……」

「ドラッグストアとかで売ってますよ。ああでも月夜町にはないから、商店街の薬局にあると思います。スーパーにもあるかな?」

「先輩、うちの病院にもあるので、お父さんに頼んで分けてもらいましょうか?」

「ううん、私が買わなくてはいけないの」


伊勢先輩は涙をぬぐって(泣いてたのか……)、決然と視線を上げる。


「明日は土曜よね。買いに行きましょう。竹取くん、付き合ってくれる? 竹取くんなら詳しいと思うし」

「僕ですか? いいですけど」

「じゃあ土曜の14時に噴水前で」





想像できるだろうか。


土曜の15時、僕と伊勢先輩は東京駅にいた。


「なんで……?」


僕はちょっと今日の道程を見失う。すごいデジャヴがある。先週も来たから当たり前だけど。


「駅の構内にドラッグストアあるかしら。どこかで案内板を見ましょう」

「先輩、普通に進めようとしないでください」


とりあえずリストバンドで精算したけど、いくらになってるかあまり考えないようにしよう。まあ月夜町の子供はいろいろアルバイトしているので、東京までの電車賃ぐらい払えるけど。


どうしてこうなったか考える。そう、たしか伊勢先輩が、商店街の店で買うのは恥ずかしいから、一つ隣の駅まで行きましょう、と言ったんだった。


二人で電車に乗って、次の駅が近づくと。


「知り合いに会うかも知れないから、もう一つ先に行きましょう」


次の駅に止まると。


「なんだか田舎すぎてドラッグストアがなさそう、次の駅にしましょう」


その次の駅は。


「あまり名前がよくないわ」


その次。


「ひと雨きそう」


その。


「なんとなく右開きの駅で降りたい気分だからここはちょっと」


それでずるずると東京まで。

つまりはオムツを買う勇気が出なかったらしい。まあともかく、二人で八重洲口にあるドラッグストアに向かう。


東京駅は今日も人だかりである。そしてデモ隊もいるらしい。「よいち」についてのシュプレヒコールが遠く聞こえてくる。


ドラッグストアに到着。東京駅構内にある店なので、さすがにお客もいっぱいいる。


「ちょっと混んでるわね、中央線で八王子とかに」

「伊勢先輩」


さすがにちょっと声を強める。伊勢先輩は悄然と肩を落とし、一緒に店内へ。


ところで並んで歩くと伊勢先輩の背の高さがよく分かる。僕より頭半分ほど高く、足が驚くほど長い。筋肉質のはずなのにがっちりした印象は薄く、モデルのようにすらりとした体型に思える。普段は見ない茶のベルボトムと赤のハーフジャケット。都会的とは言えないけど、独自のスタイルを確立した人みたいにも見える。すれ違う人が振り返るのが分かる。


「えーと、成人用オムツだからこれですね。先輩、タイプどっちにしますか?」

「た、タイプ?」

「オムツにはパンツタイプとテープタイプがあります。パンツタイプはそのまんまブリーフを膨らませたようなやつ。テープタイプは生理用品に近いタイプです。パンツタイプは吸収量が多いですが激しく動くとズレやすいのでパットなどを重ねて使用します。テープタイプはインナーの下に使用できます。近年の宇宙服は昔ほど着込まないので、どちらのタイプも使えます」

「な、なぜそういうことに詳しいの?」

「オムツ買いに行くから調べたんですよ。当たり前です」

「そ、そうね、ごめんなさい」


本当は普通に知ってた。宇宙飛行士の苦労話としてよく出てくる話題だから。


「よく分からないから……両方買っておきましょう」

「そうですね。じゃあウエストとヒップのサイズいくつですか」


伊勢先輩は、周りを気にしながら僕に耳打ちする。


「えっ……ウエスト細っ。ほんとですか? 正直に言ってくださいよ」

「ほ、本当よ。トレーニングのあとによく測るから」


そう言えば赤バニー姿の時も腰回りがくびれていた。かなり腹筋もあるだろうにすごいなあ。


……まあ、よく考えなくても伊勢先輩が自分で選ぶべきなんだけど、これ以上時間かけられるのも困るので僕が購入する。


レジへ向かうとき、なぜか伊勢先輩が僕に隠れるようについてくる。そして二の腕を掴まれる。


「ね、ねえ竹取くん」

「どうしました」

「……特殊なプレイだと思われないかしら」

「あの先輩、若い人が成人用オムツ買うとかありふれたことなので」


身内を介護してるとか、なんらかの疾病があるとか、理由はたくさんある。伊勢先輩の発言は、一見するとそういう人たちに失礼かも知れない。

だけど、誰もが最初からそれを理解してるわけじゃない。恥ずかしい時期もあって当然。大切なのは経験して学習していくことなんだ。だから変なプレイとか。

……ちょっと想像しそうになったので自分のモモをつねって打ち消す。


ようやくオムツは買えた。というか、まだタブレットの作戦をやるとも決めてないのに、オムツ買うだけでこんな苦労してて大丈夫なんだろうか。


「竹取くん、ありがとう」

「いえ別に。僕も東京に来たかったですし」

「そうなの? どこか寄る?」


言われて、僕は少し虚を突かれる。


いま、僕は「東京に来たかった」と発言したけど、別に用意してた言葉じゃない。するりと自然に出てきた言葉だ。


僕は東京に来たかったのかな? 確かに不来方さんとのデートは楽しかったけど。


まだ16時なので、帰りの電車を考えるとショッピングぐらいは行けなくもない。でもそれはさすがにためらわれる。伊勢先輩とのデートになってしまう。


「いえ大丈夫です。東京の匂いを嗅ぎたかったって意味ですから。特に行きたい場所とかはないです」

「そう? じゃあせっかくだから夕飯おごらせて」


眺めの良い場所がいいとのことで、僕たちは東京駅隣接のデパート、その上層階へ。なんとステーキレストランである。


「こんな高そうなところ、いいんですか?」

「大丈夫、道場で社員の皆さんの指導してるんだけど、その指導料をもらっているの」


伊勢先輩の実家は「よいち」の保安を担当する警備会社であり、伊勢先輩の実家には柔剣道場もある。そこでアルバイトをしてる形のようだ。


ちなみに僕のアルバイトはAIプログラミングのバグ取りである。AIが書いたコードを人力でチェックする仕事だ。2時間チェックして1000円。バグ取りができると一つ600円。あまり稼げるとは言えないけど、欲しいものぐらいは買える。


「本当、賑やかな街よね東京って」


窓の外からは東京駅と、呼吸する大気分子の具現化のように行き来する人々。乗降客数の世界ランキングを総なめにしている日本の鉄道駅だけど、ビジネスのオンライン化がどれだけ進んでも状況は変わらない。いったい東京のどこにこれほどの人がいるんだろう。この移動のエネルギーが可視化されたなら、東京駅は真っ赤に燃えるかがり火のように見えるだろうか。


「おまたせしました。赤身肉のタルタルステーキでございます」


持ってきてくれるのは、ぴっちりとしたバニースーツの。


「うわ出た」

「なんだね竹取くん、ずいぶんじゃないか」


銀色のバニーガール。神咲先生である。いつものバニースーツに加えて今日は蝶タイを付けていた。給仕モードなんだろうか。


「あら……神咲先生。ほんとに神出鬼没なんですね」

「伊勢穂香くん。頼むからオムツぐらい月夜町で買ってくれないか。いちいち東京まで来るのも楽じゃないんだから」


別に来てくれとか頼んでないけど。


店内を見回すが、他のお客はいない。まだ暗くなってないからかも知れないけど、これが神咲先生の仕業だとしても驚かない。


「さてお二人とも、オムツを買ったということは、計画には乗るつもりかね」


やっぱり知ってるのか。いったいどうやって……。


「まだ決めてない。これは念のための準備だ」


……決めてないとは言ったが、そもそも計画に乗るという選択肢があるんだろうか。僕がタブレットの計画に乗るにはあまりにも失うものが多すぎる。


僕はバニー・バニーの申し子でありたいけど、さすがにそれだけで実行できる話じゃない。それに、まだ計画自体の検討も済んでない。


神咲先生は料理をテーブルに置き、にこりと笑う。


「じっくり考えるといい。だがその前に、解決すべき問題があるのではないかね?」

「問題?」

「そう」


神咲先生は、僕たちの隣のテーブルに直接座る。荒い網タイツに包まれた足を持ち上げ、大きな動きで足を組んだ。先生のくせに行儀の悪いことだ。


近くの椅子に月琴が立てかけてあり、先生はそれを取り出して一節ひとふしかき鳴らす。


「第三の鍵とは、永遠」

「永遠……?」

「バイオスフィアはなぜ百年持たないのか。なぜ人は宇宙の孤独に耐えられないのか。なぜ長大な持続性を持つはずの人形たちが、宇宙に出ていくことを嫌がるのか。それは、永遠というものが果てしなく高い壁だからだよ」


永遠の概念……それは何というか、僕の中では漠然とした言葉だ。

形も色も浮かばない、知識としての言葉だけがある。永遠を恐怖とか障壁と考えたことはない。


「思春期には誰しも、永遠や死について考えるものだ。永遠とは大いなる謎であり、いわゆる宇宙的恐怖でもある。君たちが永遠について解き明かした時に……」

「ちょっと待ってほしい」


するり、と絹の布のような動きで伊勢先輩が立ち上がる。ベルボトムのズボンを肩幅に開き、わずかに重心を落とす。


「神咲先生、あなたは本当にテロリストなの? 月世界の破壊を望んでいるの?」

「月面都市はやがて滅ぶ、そう予言したことがあるだけさ」

「いっそのこと、あなたを半年ほど入院させれば平和が来る気がするのだけれど」


神咲先生は、ほとんど分からない程度に口角を上げる。逃げる素振りも、伊勢先輩に対して構える素振りもない。


にわかに緊張が訪れる。

どうするつもりなんだ、神咲先生。



あるいはこのぐらいのこと、想定してるとでも言うのか……。


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