第二十一話「人類はなぜ月に行くと思う」
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それから数日が過ぎる。
僕にとっては奇妙な停滞感だった。神咲先生のあまりやる気のない授業と、バイオスフィア部での日々。今にも何かが起こりそうなのに何も動き出さない。梅雨時の湿度の濃い空気の中に自分が溶けていき、「よいち」の衝撃波ではっと我に返るような日々。
「海洋モジュールで空気漏れが起きたみたい」
9回目のシミュレーションは隕石の衝突という結果で終わっていた。もっとも非常装置が働いたため機能停止は第一海洋モジュールだけで済んだ。その後、自暴自棄になったクルーの職務放棄が起き、争いに発展したらしい。
環境も良かったとは言えない。厳選した植物はさらに数を減らし、昆虫相はやはり数種を残して絶滅。森林エリアだった場所は荒廃しきって雑草しか残ってない。黄色く変色した草をかき分けると住居があった。集団を離れ、ここで単独で生活したクルーがいたらしい。
「ねえ竹取くん、どうして常緑樹まで枯れるのかなあ」
「土壌の劣化もあるけど、もともとバイオスフィアが太陽光を取り入れる効率が40%ぐらいなんだよ」
採光窓は天井にまばらに開いている。空気漏れを防ぎ、直径0.1ミリ以下の微小隕石に耐えるためにアクリルで分厚く作ってある。もともと採光窓は少ないんだけど、さらに経年劣化により透明度が下がり、内部はどんどん暗くなっていく。樹木はあまり成長しないようだ。
「月面では何もかも少しずつ少ないんだ。光も、風の流れも、土壌の微生物も」
「採光窓を大きくできない? それこそガラス張りの温室を作るとか……」
簡単にはいかない。モジュール内部は一気圧に与圧しているんだ。一平方センチあたり1キログラムという大気圧。ガラスドームでは何十年とは耐えられない。
母なる地球。この星が数億年かけて作り上げた土壌、大気組成、川の流れや緑の濃い森。
その一部を月に持ち込む、ただそれだけのことがこんなに難しいなんて。
「竹取くんに不来方さん、私たちは方針を考え直すべきじゃないかしら」
「方針というと……」
「百年の間バイオスフィアの環境を維持するんじゃなく、ひとまず人間が生き続けられればいいという考え方よ。腐らない食料だけなら百年分ぐらいは何とかなるし」
「ううん……」
渋い顔をするのは不来方さん。伊勢先輩にしても心からそう言ってるわけではないだろう。部長としての義務的な提案だ。
「その場合、クルーのメンタルが持つかどうかが問題だと思うんです。今までも、心が病んでしまったクルーはたくさんいたんです」
不来方さんはその事に心を痛めている。僕だってそうだ。ログでクルーたちの足跡を追うと胸が痛む。
クルーとなるNPCは生身の人間ではないけど、心理面を構成するMODは彼らにかりそめの魂を与える。人員は厳選した上で十分な訓練を積んでるけど、それでも百年の孤独はあまりに永いようだ。これまでの9回のシミュレーション。半分はクルーの暴走によって終わっていた。
「百年、ただ基地のような無味乾燥な場所で過ごすのは耐え難いと思うんです。自然がないと……」
「学習素材を用意するとか、娯楽で何とかできない?」
伊勢先輩はそう言うが、空々しい言葉であることは何となく共有されていた。百年、補給も来ない世界で勉強していったい何になるのか。
先輩は僕の方に水を向ける。
「竹取くん。例えば……外敵を設定するとかはどうかしら」
「外敵ですか?」
「そう、ときどきモジュールを襲撃する謎の宇宙生物。それでクルーの団結力を高めるの」
「このMOD構成は現実に準拠してるので、月面で生存できる生物を作るのは無理ですね……」
「じゃあ、クルーは地球で英雄になってることにして、地球とコミュニケーションを取らせてモチベーションを保たせるとか」
「地球からの補給はないというルールです。コミュニケーションは情報を補給していると見なされないですかね」
「だから、受け答えをするのは対話型AIで……」
伊勢先輩はそこで言葉を止め、タブレットを机に置いて目頭を絞る。
「ごめんなさい。あまりに非人道的ね。すべて忘れて」
「いえ……大丈夫です。僕も検討はしてましたから」
自然環境の再現を放棄し、あらゆる手段を使ってとにかく百年をクリアする。本当に手段を選ばなければ何とかなるのかも知れない。僕たちの部の主旨から離れすぎているが、一度は試すべきかもしれない。
「食糧庫を3倍に増やしましょう。森林エリアを破棄して、比較的維持の簡単な竹林と草原だけにします」
「うん……植物も暗いところに強いのがいいよね」
不来方さんが同意する。
「ポトスとかモンステラとか。海洋エリアにガジュマルも植えようか。魚もフナとか飼育が簡単なやつだけにしよう」
モジュールの維持のためにクルーが行う仕事を最小限に。施設のメンテナンス頻度も減らして、それでいて太陽光パネルは今よりも増やす。ある程度破損してもエネルギーを確保できるように冗長性を持たせておく。
結果として、クルーは誰も生き残れなかった。
なぜそうなったのかはあまり述べたくない。10回目のシミュレーションは、これまでで最も短命に終わった。
※
「私は、あの子が月夜町の選別プログラムの適合者じゃないかと思うの」
また別の日、伊勢先輩がタブレットを操作しながら言う。
「適合者、ですか」
「そう、私たちみたいにBやDの存在じゃなく、Aクラスの存在。つまり圧倒的な才能を持った新人類とも呼べるような子」
そんな子がいるんだろうか。あの年齢でウィザード級のスキルを持つとすれば、それは確かに異能の域だけど。
不来方さんが小さく手を挙げる。
「私、実は月夜小に行ってみたんです」
「え、そうなの?」
「うん、あの子の似顔絵を描いて……小学校の子たちに聞いてみたんだけど、誰も知らないって」
月夜小の子ではない……。では外部の子だろうか? あるいは学校に行かず、どこか特殊な施設で英才教育を?
「月夜町のどこかに教育施設があるのかな」
「ほら、「よいち」の敷地内だよ。きっと「エンダーのゲーム」みたいな英才教育をする施設があって」
「はずれ」
肉声が響いた。久しぶりに聞く小生意気な声だ。
でもそれは僕たちのタブレットからじゃない。部室の入り口がからからと開く。
「ていっ」
入ってくるなりスネを蹴ってきた。痛っ。
「ちょ、ちょっと」
「あんときゃよくもやってくれたな。あのあと逆さまになった防犯ロボ引き倒すのどんだけ大変だったか」
ふんと鼻を鳴らして、緑バニーは高い位置で腕を組む。
「「よいち」施設内の衝撃波のエグさ知らねえだろ。あんなとこで子供の教育なんかできねえんだよ」
やはり小学生のようにしか見えない。ひっつめにして後ろで縛った髪は色素が薄く、輪郭の小ささに対して目は大きい。その目はぎょろりと動いて僕たちを眺め渡す。パーツは整っているけど、何というか発達途上の肉体に見られる一種の非整合。作りかけのプラモのようないびつさが残る顔立ちである。
単純に言うと幼いんだ。
「で、どうなんだよご主人ども。百年クリアできたのか」
「……無理だった」
それは認めなくてはならない。
数百回、試行を繰り返せば一度くらいはクリアするかも知れない。でも僕たちは思いつく限りを試して、その結果として成果がなかった。それはきちんとさせておく。
「やっぱそうか。あたしも何億回とやったけどダメだった。根本的に月でバイオスフィアを維持するのは無理がある。有機物も生物も、絶え間なく補給し続けねえと絶滅しちまう」
「もしかして、無理ってことを確認させたかったのか?」
「いいや、成功したならそれはそれで良かった。月夜町の子供ならやってのけるかも知れないと思ってたよ」
どうもチグハグな印象だ。
バイオスフィアの課題は無理だと予想していたのに、成功すればそれはそれで良いらしい。
「なあT、君の目的は何なんだよ」
「バイオスフィアは人類の課題だった。月面でもずっと研究されてるが、なかなかうまく行かねえ」
部室の扉は開け放たれている。人けのない月夜中の校舎が見えており、緑バニーは足元の小石を蹴ってくるりと回る。
「ご主人どもは気づき始めた。やはり宇宙で生きていくのは無理かも知れないと。補給を繰り返して、人間を入れ替え続ければ基地は維持できるけど、そこから先へは行けないってな」
「そこから先?」
不来方さんが疑問を漏らし、緑バニーはぱちりと指を鳴らす。途端に、僕たちのタブレットが暗転する。
「そこの青バニーのご主人、人類はなぜ月に行くと思う」
「私? ええと、それは月面の土砂に含まれるヘリウム3を使った核融合発電と、さらに遠くの惑星に行くためのロケット打ち上げのため」
「エネルギー問題ってのが盛んに議論されたのは何十年も前だ」
また指を鳴らす。タブレットに映像が出る。
それはフランスにある高速増殖炉「スーパーフェニックスII」だ。スーパーフェニックスの後継であり、高速増殖炉の実証炉として成功を収め、世界中の同タイプの発電所の雛形になった。
「高速増殖炉はウラン238のエネルギーをかなりの効率で引き出せる。これの完成によって人類はエネルギー問題から解放された。より正確に言やあオイルサンドとかの利用もある。わざわざ月面に核融合炉を作って、効率の悪いマイクロ波送電なんかやる必要なくなったんだよ」
「じゃあ……さらに遠くの星へ行くために」
「行ってどうすんだよ。火星は大気があるから月面よりわずかにマシって意見もあるが、物資を送り込む難易度が数十倍だ。木星はガス惑星だから衛星のどれかに降りることになる。月に輪をかけてなんもねえ上に、太陽からも遠い。太陽と木星の距離は5.2天文単位だから地球の5倍だ。太陽光の恵みは少ない。もっとも、核融合エンジンなんてもんが実用化されるならエネルギーの心配なんていらねえがな」
タブレットにはいくつかの惑星が浮かぶ。大きなリングを持つ土星。青白く輝き、公転方向に対して垂直なリングを持つ天王星。岩塊のようにも見える冥王星も。
「太陽から冥王星までの距離は39.5天文単位。仮に行けたとしても岩しかねえ。そこから先は光年の世界だ。現行技術で想像できる最高のエンジンができたとしても、最寄りの恒星系まで行くのはあまりに大きな壁だ」
伊勢先輩が口を開く。
「では、移住のためというのはどうかしら? 地球では人が増えすぎてるから、宇宙に新天地を」
「テラフォーミングか? 宇宙ステーションか? やってどうする。月の面積は地球の13.5分の1しかない。火星はどうだろうな。昔のアニメみてえに火星を完璧にテラフォーミングできたとして、地球の4分の1の面積に何人が住めるっつーんだよ。それを達成するには何百年もかかる。火星が埋まっちまったら次はどうするんだ?」
「それは……それは何百年も先のことでしょう。我々はの進化の中間点にいる。いつかは人間がもっと進化して、宇宙の困難を克服するかもしれない。その過渡期として我々がいるのよ」
「進化のために困難に立ち向かうのは順序が逆だ。どうしても宇宙に行きたい理由があって、そのために進化するんだ。食える葉っぱが低い位置にしかないなら、キリンの首は長くなったりしねえ。宇宙に行く理由がないなら進化なんか必要ねえ」
「それは、そうかも知れないけど……」
……。
根源的な問いだ。
宇宙に挑むものは、いつかその問いを投げられるのではないかと怯えている。
ロマンに満ちた言葉で返すこともできるし、それらしい理屈をつけることもできる。でもそれは、問いから逃げているとも言える。
その問いは、二股の分かれ道のよう。
答えによってすべてが分岐する。僕から見た主観的な世界も、世界の在り方も一変する。その問いにはそういう力がある。運命を占う力が。言葉の霊が宿っている。
「「よいち」マニアのご主人はどうだ」
「特異点を目指すためだ」
僕は答える。
用意していた答えじゃない。いま思いついたこと。「よいち」を眺め続けてきた僕の内側から編まれる答えだ。
「特異点ってのは何だ?」
「技術的特異点、つまりグレート・フィルターだ」
この宇宙について、疑問に思われてることが一つある。
人類の歴史が始まって400万年。文字による記録が始まってから5500年。
その間、なぜ宇宙人は地球を訪れてくれないのか。
仮定としての答えがある。どのような科学力を持つ宇宙人であっても、恒星間航行を可能にする宇宙船を作ることはできないから。
宇宙を渡る永い永い旅に耐えられる肉体を持てないから。
その仮定が真であれば地球人はけして宇宙に出ていけない。偽であればいつかは行ける。
真か偽か、それを証明する方法は簡単だ、自ら行けばいい。
地球人類が恒星間航行を可能にしたなら、同等の文明は宇宙のあらゆる場所で生まれる可能性がある。
あるいは人類が冥王星の公転軌道の外側へ行き、第三宇宙速度を超えた瞬間、宇宙のあらゆる場所から祝福のメッセージが届くかもしれない。おめでとう、君たちは我々の同胞となる資格を得た、と。
つまり、今この場所こそが現実とSFの境目。
人類が地に足のついた科学世界から脱却し、新たな地平に旅立てるかどうかの境目なんだ。
その境目を、垣根を越えるのは並大抵のことではない。SF小説の住人たちは、みなそこを架空の理論で、あるいはいつの間にか超えているんだ。
僕は、自分の意志で超えたい。
不可能の壁を超えることは、世界の枠を広げることだ。
そのために戦う。そのために挑むんだ。
「ご主人らしい答えだ」
緑バニーはそのように言う。ため息をつくような、何かに安堵するような曖昧な表情である。
「だけどなご主人、宇宙へ行くためには人類はあまりに弱すぎんだよ」
「……肉体的なこと?」
「そうだ。放射線に弱い、寿命は短い、無重力状態だと骨も筋肉もすぐにモロくなる。とても宇宙の旅には耐えられない。だから一部の人間は、次の世代に託そうとした。人類の次なる世代にな」
「え……」
「あたしの名はタブレット」
僕たちの前にあるタブレットが、自然に立ち上がる。立てかけ用のスタンドアームが動いたんだ。
三枚のタブレットは、いや、壁にある棚からもタブレットたちがまろび出てきて立ち上がり、振動によって動き、緑バニーに正対する。
まるで、目の前の少女に敬意を示すかのように。
「人類の後継者らしいぜ。寿命も長くて、放射能とも無縁。とにかく頑丈さが必要なのさ。こないだ赤バニーのご主人に倒されたやつみたいにな」
「まさか……」
そして緑バニーは。
自分の「顔」を、がちゃりと開けた。
「つまり、ロボットだよ」




