第十五話「月にも水があるだろ」
月夜町の空を飛ぶ影。
それは月面との往還を行うスペースプレーンだ。主に人間を運ぶことに特化しており、パイロットとアテンダントを除いた26人を運べる。
その洗練された二等辺三角形のフォルム。スクラムジェットエンジンの青い炎。
「よいち」の周辺はまさに日本の技術の結晶だ。最新型の高速増殖炉、スペースプレーン発着場、そして月面に物資を届ける「よいち」がある。
何もかも順調に見える。月面開発も、月夜町も。
世界全体で一兆ドルとも言われる予算を組み、世界中の最高峰の頭脳が結集して、ふたたび月面の開発熱が燃え上がっている。
それは目が眩むほど素晴らしいことで。
生まれてからずっと憧れ続けていることで。
だから、それに不安など持たない。持つはずがない。
不穏な予感など、あるはずもないから。
※
「状況を整理します」
バイオスフィア部にて僕が宣言し、不来方さんと伊勢先輩のタブレットに資料が表示される。僕が適当にまとめたやつだ。
「神咲先生はウィザード級ハッカーです。ウィザード級といってもピンからキリまであるのかも知れないけど、とりあえず「よいち」をハッキングできるレベルとします」
あれをハッキングするなどとても想像がつかない。まだ呪文で海を割るほうがあり得そうに思える。
先生の技を直接見たことがあるのは僕だけなので、二人にそれを信じてもらえるか分からない。でもまあ、先生が「よいち」をハッキングできないならそもそも何の問題もないんだ。とりあえず最大限の脅威と仮定しておく。
「先生は、月面都市は滅びかけてると言ってました。だから「よいち」をハックして、月面に人が住めないようにすると」
「完全に滅んでしまう前に自分の手で止める……そういうことかしら」
「そうだと思います」
そして、画面には3つの鍵が表示される。形式的に青、赤、緑で塗られた鍵だ。画面上部を鳥のように旋回する。
「先生は3つの鍵を探せと言ってました。その3つの鍵が見つかったとき、月面都市は救われるんだと」
バニー・バニーの名前が表示される。彼ら2人の画像も。
「こうも言ってました。3つの鍵が見つかったとき、バニー・バニーは世界のどこにでも生まれうると確信できると」
四角い画像だけだと味気ないので装飾もしてる。天使の輪っかと三対六枚の羽根。画像の背後では七色のガーベラの花がくるくると回転する。
「……これ竹取くんが作ったの?」
「そう。バニー・バニーの偉大さを表現してみた」
「うん、ええと、素敵」
不来方さんに褒められると嬉しくなる。会議資料の作成は初めての経験だったけど、僕もう外資系で働けるかもしれない。
話を進める。3つの鍵のうち、青い鍵と赤い鍵は回転しながら画面下に降りてくる。
「3つの鍵のうち、1つは不来方さん、もう1つは伊勢先輩のことだそうです。2人はそれぞれ問題を抱えてたけど、いちおうの決着というか、進展はしました」
「うん、そうだね」
「二人には感謝してるわ。従姉妹にも会えたし」
それで、問題は3つ目の鍵。
「緑色のバニースーツを着た女の子、この子が3つ目の鍵じゃないかと思うんです」
「なぜそう思うのかしら?」
「彼女もまたウィザード級のハッキング能力を持ってました。少なくとも只者じゃないです。伊勢先輩の事にも協力的だったし、凄腕のハッカーというだけじゃなくて、この月夜町で起きてる事象の原因と言うか、根本的な何かを知ってるような気がするんです」
「なるほど……」
伊勢先輩は、じっと考えてから言う。
「……緑バニーが神咲先生の仲間という可能性はないかしら」
それは少し考えた。
神咲先生は僕たちに課題を投げるけど、手を貸すこともある。前回の件では緑バニーの子を通して手伝った可能性が。
「それはないと思います」
と、不来方さん。
「不来方さん、どうしてかしら?」
「一流のハッカーは仲間を持たないって、小説に書いてあったんです」
なるほど。
ウィザード級は何もかも一人でできて当たり前。仲間を増やすことはデメリットしかない。その理屈も分かる。
「その緑バニーさんは、どこにいるのかしら」
「僕と不来方さんは校舎の三階で会ったんですけど、また放課後にでも行ってみようかなと」
画面が。
机に置いたタブレットに変化があった。周辺視野がそれを察知する。
視線を下げれば画面下。チャットメッセージが。
――おい、バイオスフィア作れよ。
「! 来ました、こいつです!」
――こいつじゃねえ、Tだ。いいからサンドボックスを開けよ。
いちおう、タブレットを起動させるときにチェックツールを走らせてる。僕のアカウントについてもバックドアや攻撃の形跡がないかを確認してる。
だけどあっさりと侵入された。あまりにも格が違う。
「竹取くん、とりあえずサンドボックスを開いたほうがいいわ」
「でも、こいつの言いなりになるのは」
「敵じゃないんでしょう? 大丈夫よ」
……。
逆らっても何がどうなるわけでもない。僕もサンドボックスを開く。
伊勢先輩は実に落ち着いた人だ。こんな正体不明な存在をもう受け入れてる。あの小学生のような姿も見てないのに。
僕はまだ脅威に感じてる。ウィザード級ハッカーとは、僕たちを守るセキュリティの城壁を飛び越える存在。僕たちが立脚している世界の法則。ネット世界のルールを無視する人々だ。それは妖怪とか怪物の概念に近い。
仕方なく、僕たちはサンドボックスを開く。前回の部活動では食堂を作るところだったので、周りはできかけの状態で……。
緑のキャラがいる。
三次元のドット絵のような荒っぽいテクスチャながら、バニースーツとウサ耳が表現されてる。僕たちの操作キャラより一回り小さい。
「何だこれ、緑バニーがNPCにいる」
「別に驚くようなこっちゃねえだろ」
僕たちはぎょっとする。タブレットから声が響いたからだ。
バイオスフィア部が使っているのは古典的なサンドボックスにMODを山積みしたもの。でもNPCが会話できるようなMODは入ってない。村人と呼ばれる友好的NPCは自然発生的に湧くけど、それは唸り声のような、鼻を鳴らすような声しか発しないはずだ。もちろん建設現場は月面の設定なので湧かない。
「T、きみいったい何者なの?」
「気にすんな、かわいらしいサンドボックスの妖精だ」
「かわいらしい?」
「ああん?」
僕のタブレットが激しく振動。内部の振動発振モーターが全力で動いてる。
「ちょっと、やめて」
「いいからご主人どもはバイオスフィアを作れよ、もともとそういう部だろ」
画面の中の緑バニーがふいに消える。
「だめだなこりゃ、海洋エリアに来い」
ミニマップを表示、なるほど海洋マップに緑バニーのアイコンがある。移動したのか。
僕たち三人もそこへ行く。海洋エリアは直径40メートルのドームの中にあり、三分の一が浜辺、あとは180立法メートルの海水をたたえた海である。
海はポンプによって波を生み出し、たくさんの魚介類、海藻類、浜辺の生き物、そしてプランクトンなどが。
緑バニーが両手を振りながら飛び跳ねる。
「小さすぎる。なんだこりゃプールより小せえじゃねえか」
「しょうがないじゃないか、この施設は月面に作ってるんだぞ」
学校のプールの容積は、一般的な25メートルプールで400から500立法メートルぐらい。
現実のバイオスフィア2においては、海洋エリアの水量は実に2650立法メートル。深さは最大で7メートル。人工のサンゴ礁が作られ、バイオスフィア内での水循環と大気調整の要となった施設だ。
だけど、そんなに大量の水を地球から運ぶのは現実的じゃない。スペースプレーンで、あるいは運搬用ロケットで水だけを何百往復も運ぶわけにいかないんだ。
僕がそう言うと、角ばった緑バニーは腰に手をあてて憤慨。
「なに言ってんだよ。月にも水があるだろ」
確かに、月の極点には氷の状態で水が存在する。人類が大規模な月面都市を作るにあたって、その水はおおいに利用された。
その総量は6億トン程度と言われているが、人類が採掘できるのがその数パーセント。それでも数百万トンという量になる。
「でもこれって技術的な実験というか、小さいと言うならモナコ水槽なんてもっと小さいし、僕たちとしては少ない水でいかにバランスを取るかが大事で」
「ちいせえこと言ってんじゃねえ。いいか、熱帯魚の水槽だって大きい方が簡単なんだよ。小せえとすぐに水が汚れるからな。バイオスフィア2の実験は失敗だったが、もうちっと施設がデカければいろいろな問題が吸収できたと言われてんだよ。結局のところ自然ってもんはデカさでバランス取ってんだよ」
それはその通りだけど、ざっくりした言い方がなんかハラ立つなあ。
バイオスフィア2は総工費2億ドルという施設だったが、それでも十分ではなかった。地球の奇跡的なバランスを、環境調節機能を再現するには小さすぎたんだ。
「海水は本家よりも大量に必要だ。浜辺だけじゃなくてマングローブとか泥の干潟とかも作れよ」
「干潟って、月には潮の満ち引きがないけど」
「そんなもん機械的に再現すりゃいいだろ、とりあえず作りゃいいんだよ。案ずるより産んじまえよやす子って言うだろ」
「言わない」
緑バニーの周囲にウインドウが浮かぶ、表示されるのはバイオスフィアのデータだ。
「いまざっとシミュレートした。これじゃ三か月も持たねえ。プランクトンの大量発生で海が腐るし、熱帯エリアは根こそぎ枯れちまう」
「熱帯エリアについては……まあ、今後の課題というか」
「百年だ」
緑バニーはデジタル時計を出現させる。それは鉄柱で地面に固定されており、エイトセグメントは2つずつコロンで区切られたものが6つで計12個、すなわち秒、分、時、日、月、年だろうか。
「クルーは10人未満、それで百年持たせろ。実験中に人数が増える分には問題ない」
「そんな、僕たちの目標は20人のクルーで2年だよ」
「人数じゃねえ、環境の方を見直せ。施設を人の手で調整する必要があるようじゃダメなんだ。人間がいなくてもそのままの姿を保てるぐらいが理想だが、まあ施設がコンクリートやら鉄やらでできてる以上はメンテが必要なのはしょうがねえ。だから10人までは許容する」
そこで、伊勢先輩の操作キャラが腕を振り上げる。
「ちょっと待ってほしい、あなたは何故そんなことを要求するの? 私たちに何をさせたいの」
「ご主人ども、あんたらは知らなきゃいけないことがある。だけどバイオスフィアを極めてないやつには教えられねえ。だから百年だ、いいな」
緑バニーは消える。
言いたい事だけ言って去ってしまった。あとに残ったのは、まだスイッチの入ってない巨大な時計だけ。海洋エリアの砂浜にぽつんと佇んでいる。
不来方さんが、砂浜を歩きつつ言う。
「どうしよう、作り直す?」
「いや、作り直すと言っても、この大きさでもかなり時間かかったのに」
本当は9月まで作り続けて、秋の文化祭で公開展示するはずだった。VRゴーグルつきで展示して、自由に入ってもらえるように。
その予定で工程表も組んでる。毎日1時間の部活で週5時間、夏休みは10日ほど集まって、それで三人合計で300時間ほどのロードマップだ。
海洋エリアの広さを、今の5倍……? いや、本家以上となると10倍……。
「と、とても時間が足りない。だいたい、そんなことやってたら何か月もかかる。いつ神咲先生が行動を起こすか分からないのに」
「ああいちおう言っとくと」
タブレットから肉声が。
どうもゲーム内キャラの音声という感じがしない。ボリュームを大きめに設定してるのか。
「あたしを探そうとすんなよ。タブレットを通して全部見てるからな」
「ち、ちょっと、僕たちのプライバシーは」
「ない」
ぶつ、と何処かわざとらしいノイズ。会話を打ち切ったという意思表示か。
「……二人とも、タブレットを置いて外へ」
先輩が言い、僕たちはそっと席を立って外へ。外へ出ると日差しが暑い。まだ6月に入ったばかりというのに。
「私は、バイオスフィアを拡張してもいいと思ってるわ」
伊勢先輩はそう切り出す。
「いろいろと問題点が見えてきたところなの。小規模でうまくバランスを取ったものを作るつもりだったけれど、大きくすれば小さな問題点が吸収されるのも確かだと思う」
「竹取くん、建設を早めることってできるかな」
「早めるだけなら、まあ」
今までもすべてのブロックを手で置いてたわけじゃない。マクロやツールも使ってる。
それとは別に自動で整地を行うマシンや、建設資材を調達してくるマシンなどを開発すれば効率化できる。この用意は僕が家でやれる。
「でも百年は……難しいと思います。同じような取り組みをしてるグループのブログを見たことがあるんですけど、どのグループも2年から5年ぐらいが目標でした。やっぱり、補給なしでは絶対に解決できない問題があって」
「分かったわ、じゃあ双方向作戦で行きましょう」
「双方向作戦?」
「バイオスフィアは作るけど、同時に緑バニーも探しましょう。緑バニーは探すなと言っていた。裏を返すと探されると困るのかもしれないわ」
「でも、タブレットを通して見てるって」
それではお手上げだ……。どんな行動をとってもTに筒抜けになってしまう。カメラとマイクを塞いだとしても、GPS信号は出てるだろうし、持っているだけであらゆるデータが。
と、僕はふと気づく。不来方さんと伊勢先輩が奇妙なものを見る目してる。
「え、どうしたの?」
「ええと……竹取くん。タブレットで覗かれるなら、置いておけばいいんじゃないの?」
「そうよね。それで問題ないと思うけど」
タブレットを、手放す?
「え、いや無理」
「竹取くん、そんな常に離すわけじゃないよ。緑バニーさんを探してる間だけ」
「て、手放してる間に誘拐でもされたらどうするんだよ。天変地異に遭ったら」
「教室から部室までの間も手放してるじゃない」
「学校ならどこにでもタブレットあるし。でも10メートル以上離れると不安。酸素みたいなもんだから」
「……現代っ子だね」
伊勢先輩がつぶやく。いや年齢ひとつしか変わりませんけど。
とにかくタブレット手放すのは無理!
絶対に無理!!!




