第十四話「最初の一人は、私がいいな」
伊勢先輩の言葉は、金魚のように空中を泳ぐ。誰もその言葉の意図がつかめず、言葉の霊だけが浮遊する。
「ばっかばか、しい!」
言葉を蹴り飛ばすような脚の振り。一瞬遅れて暴風が吹くような感覚。
「穂香、月面の環境について知らないわけないでしょう。もし生身で立ってみなさい。呼吸ができないどころじゃない。極低圧の世界では液体の沸点が極端に下がる。体液が沸騰して即座に死ぬのよ」
確かにそうだ。伊勢先輩がそのことを理解してないはずはない。
でも、それでも伊勢先輩は声に出した。言葉としてこの世に存在させたんだ。
「宇宙服は、私にとっては役割の象徴だったの」
合成音には伊勢先輩の心が宿っている。脳波で生み出した言葉なら、ある意味ではもっとも純粋な言葉だろうか。
「それを着れる人間はあまりにも少ない。でも誰かが着なければいけない。私は、そんなものと無関係に宇宙に行きたい。月に立ちたいの!」
「……伊勢先輩」
人間の歴史を技術の歴史とするなら、人間はとても多くのことができるようになった。
速く走れない人間でも車に乗れる。暗算が苦手でも電卓がある。
しかし、月の環境はあまりにも過酷。そこで活動するには重く大きく、動きにくい宇宙服を着るしかない。そして宇宙服が進歩を続けているとは言っても、月が低重力だとしても、最終的には宇宙服の不便さを超克できる人間が着るしかない。
すなわち、力で宇宙服をねじ伏せられる者。
宇宙の孤独に耐え、生命維持装置の複雑な機構を理解し、動きにくさを体力でカバーできる人間にしか着ることはできない。
宇宙飛行士とは、キャスターガードとは、いわば個人資質というものの最後の牙城だ。
伊勢先輩はそれを捨てたいと言っている。
月に行けるのに、月に行きたいと言っている。
大いなる矛盾。だから伊勢先輩ほどの人でも解決できなかった。架空の人格を生み出し、悩みから逃れようとした。
「穂香! キャスターガードがどれほど名誉な仕事か分かっているの!」
赤バニーが廻る。全身のバネを連動させた後ろ蹴り。両腕をクロスさせて防ぐのは120キロのサンドバッグ、それを数センチ浮かせるほどの威力。
「あなたは月に行ける! 月でキャスターガードになれる! それなのに、宇宙服とは無関係に月に行きたいですって!? どれだけ傲慢なことを言ってるか分かっているの!」
「分かってる! 私の中にどうしようもない矛盾がある! 思い悩む資格はないのかも知れない! でも私は嫌なの! 宇宙服を着なければ月に行けないことが!」
「どうなのかな竹取くん、生身で月面に立てるの?」
「それは……」
立てる。
そうだ、それが僕の答え。バニー・バニーの精神。
「僕たちは、月に憧れてる」
「うん、そうだね」
「でも、それは月面都市で働きたいとか、月に居場所を持ちたいとか、そんなことと結びつかない場合もあるんだ。役割とか、なぜ行くのかとか、そんなことを伴わない純粋な月への憧れだ。だから先輩は宇宙服が嫌なんだ」
月。有史以来、人間が見上げ続けてきた至高の宝石。あるいは獣や鳥や、無生物すらも憧れ続けてきたもの。
生身で月に立ちたい。
いいじゃないか。たまらなく魅力的だ。
立ちたいから立つんだ。月面で堂々とヘルメットを脱いだっていいんだ。僕たちはすべてを受け入れるんだから。
「月へ行きたいって気持ちは、もっと真っすぐで無垢なものなんだ。バニー・バニーはなぜ月に行ったのか? 人類を導くため? 技術の実証実験のため? そうじゃない。行きたかったから、だ」
「うん、わかるよ……雨の中で傘をささない人がいてもいい、ってやつだね」
言葉は解き放たれた。
伊勢先輩の悩みも迷いも、もう一人だけのものじゃない。あとは問いの答えを探すだけだ。
「くだらない!」
赤バニーのハイキック。人間が到達できる限界かと思える速度の蹴り足。完全に芯を食って入る。
それが当たったとき奇妙なことが起こる。攻撃した赤バニーのほうがよろめいたんだ。軸足で後方に飛ぶ。
「すごいな……蹴りに完全に合わせた」
受付のおじさんが、伊勢先輩のお父さんが言う。
「どういうこと?」
「赤バニーの蹴りと全く同じタイミングで防御の一点に力を集中させた。点と点がぶつかれば穂香が宇宙服の分だけ重い、押し返せる」
そうか、鈍重な着具武道と軽快な赤バニーとはいえ、肉体が接触する瞬間はある。つまり赤バニーの蹴りが当たる瞬間なら伊勢先輩も攻撃できるんだ。
「もともと耐久力なら圧倒的に有利なんだ、穂香! じっくり見ていけ! 急所だけ守れば大丈夫だ!」
「はっ! そんな真似が何度もできると思ってんの!」
赤バニーがステップを刻む。
その姿が目で追えない。どんな方向に飛ぶのか読めない。ジャンプの動作が見えないのに飛んでいる。伊勢先輩の周囲を回る。
「足を使わせるな! リングの端へ行くんだ!」
「いや! こっちも動き回れ! ロープに沿って動け!」
「バニー! 膝の裏を狙え!」
ギャラリーたちも声を張る。
僕らも感じる。決着が近いんだ。
宇宙服は、伊勢先輩は両手を持ち上げてヘルメットを守り、足を自然に開く構え。赤バニーはどんな跳び方をしているのか、人間業とは思えない速度に達している。
着具武道は相手を寝かせれば勝ちとなる。赤バニーの打撃を押し返し、よろめかせたところにタックルできれば――。
そして、赤い残像が。
膝から先が完全に消失するかのような蹴りが。
宇宙服の脇腹に、食い込んで――。
僕にも分かる。11層の分厚い生地を貫通する衝撃。それがマトモに入ったことが。
「な――」
驚愕するのは赤バニー。
その感情が伝わる。あまりにも深く入りすぎてる。宇宙服の中身は完全な脱力。内臓が破壊されかねないほどの蹴りをあえて受け、蹴り足が振り抜かれて。
宇宙服がよろめき。
一瞬、そのヘルメットの中に激甚なる感情が。
吹き飛びそうになる意識を押しとどめる気迫が。
くず折れかける体を起こし、全体重を拳に乗せ、甲の部分が赤バニーの顔面に。
どおん、と。
世界が揺れるような衝撃。赤バニーが吹き飛ぶ。信じがたい滞空時間。リングの金網にぶち当たる。
「こっ……これは! とんでもない裏拳だあ! 赤バニーが初めてダウンを喫したあ!!」
「おい! タンカ持ってこい!」
リングに飛び込むのは受付のおじさん。一瞬遅れて数人の男が入っていく。
「病院に連絡しろ! 車で不来方病院まで運ぶ!」
「歯は折れてないですか? いや、それより首か! 誰か診れるやついるか!」
勝負ありだ。
なんという打撃。データ上はトリエックス宇宙服の人工筋肉は成人男性の筋力を超えないはずなのに……。
「華乃香、お姉ちゃん」
先輩が口を開く。タンカを運んでいた男たちはぎょっとなる。
「おい意識あるぞ!」
「穂香、あまり喋るな」
「誰かクーラーボックスから氷持ってこい!」
僕はタンカに駆け寄る。
「先輩、今は伊勢先輩だね?」
「華乃香……どこかへ行ってしまった、みたい」
決着はついた。
伊勢先輩の葛藤から生まれた華乃香という人格は、悩みを言語化できたことで役割を終えたのか。
「先輩、いつか行けるよ」
僕は担架で運ばれていく先輩を追いかけながら言う。周りは騒然としており、僕の声が聞こえてるかは分からない。
「いつか生身で月に立てる。宇宙服に頼らなくても生きていける。そんな技術が生まれる。月面の環境を劇的に変えることだってできる。僕たちは何でもできる。だから何を望んだっていいんだ」
伊勢先輩が。
内出血と腫れでひどい顔になっている先輩が、僕を見て笑う。
「もし、月面で宇宙服を、脱ぐ人がいるなら」
まどろむように、伊勢先輩は言う。
「最初の、一人は、私がいいな」
ああ、挑戦者だ。
間違いなく、伊勢先輩もバニー・バニーの申し子。
月面で宇宙服を脱ぐと死んでしまう?
でも、まだ誰も試したことはない。
生身で宇宙に出られる技術は存在しない?
でも、答えが見えない問いにも魅力はある。
僕たちはすべてを受け入れる。
無謀な挑戦も、解決不能に思える課題も、自分自身の愚かさすらも――。
※
数日後。
「伊勢先輩、もう大丈夫なんですか?」
「うん、どこも異常はなかったみたい」
部室にて、バイオスフィアを建造しながら話す。
先輩は不来方病院に入院した。精密検査を受けたらしいが、筋肉も骨も、内臓もすべて無事だったらしい。生み出していた人格についても、あの日を境に消えてしまったそうだ。
「ごめんなさい、いろいろ迷惑をかけてしまったわね」
「いいえ、そんなこと」
「それと……あの宇宙服はどうやって手に入れたの? あれは本物のトリエックス宇宙服でしょう?」
その宇宙服はいま僕の家。裏の物置に隠してある。何しろ一着80億円というシロモノだし、米軍の所有物だ。そのうち返すつもりだけど慎重にならざるを得ない。傷とかついてないといいけど。
問いには不来方さんが答える。
「緑バニーさんが用意してくれたんです」
「緑バニー?」
「はい、とっても不思議な子で……今度伊勢先輩にも紹介しますね」
緑バニー、あの夜に僕が見たバニーさんの一人。
宇宙服をあっという間に調達し、クローズドなチャットに簡単に割り込んでくる存在。
やっぱり彼女もハッカーだろうか? 神咲先生と同じウィザード級? でも小学生並に幼かったけど……。
その時、がらがらと戸が開く。
現れるのは白のドレスシャツと、黒のタイトスカートという女性。
「やあ、部活中すまない」
神咲先生だ。僕は即座に席を立って立ちふさがる。
「何しに来たんだ! まさか次は顧問になるとか言う気か!」
「月夜中の部活に顧問制度はないよ。なにせ教員が5人しかいないからね」
と、神咲先生は部室の奥に視線を投げる。
「伊勢穂香さん、あなたにお客さんだよ」
「え、私……ですか?」
「外に来ている」
先生に連れ立って、僕たちも外に出てみる。
来ていたのは車椅子の人物だ。ぬばたまの長い髪と整った顔立ち。大きな一重の目はどことなく、伊勢先輩に……。
「あ……!」
声を上げたのは先輩か僕か、あるいはバイオスフィア部の全員か。
「お久しぶり、家に行ったんだけど、おじさんから部活だって聞いたから……」
その人物が話し終わるのを待たず、伊勢先輩が取りすがるように抱きつく。
「わっ、ちょ、ちょっと」
伊勢先輩は感極まっているのか、それとも適切な言葉が見つからないのか、ともかく抱きしめるばかりである。
「あ、あの人って」
「伊勢華乃香、伊勢穂香さんの従姉妹だね」
何でもないことのように言う。
「だ、だってバイク事故で」
「死んだとどこかに書いてあったかね? 彼女は長期入院のために月夜町を出て、そのまま別の土地に移り住んだのだよ。長いこと会っていなかったのは、単純にそこまで親しい親戚ではなかっただけさ。伊勢華乃香さんもほとんど忘れていたらしい。何しろ3歳と4歳のことだからね」
伊勢華乃香は義足だった。車椅子から立ち上がって、ともかくも抱き返す。
伊勢先輩は信じられないという感情に震えて、だんだんと嗚咽が始まり、大粒の涙を流す。
伊勢華乃香さんはと言うと……実のところ戸惑っていた。どうしたの、とか会いに来なくてごめん、とか言っているけど、2人の間にだいぶ温度差がある。
「伊勢穂香さんのお父さんが連絡して呼んだのだよ。だがまあ、実にチグハグな再会だね。向こうは月夜町のことも覚えてなかったようだし、そもそもの話、穂香さんが従姉妹の消息について一言でも親御さんに聞いていれば、こんな混乱は……」
そのやかましい口をタブレットで押さえる。
世の中、なかなか劇的なことというのは起こらない。
俯瞰してみればこれは愚か者の物語かも知れない。混乱を避けられる展開はいくらでもありえた。
伊勢先輩がちょっぴり優秀すぎて、親に心配をかけない良い子すぎて、そしてバニー・バニーの精神を持っていたがための悲劇かも知れない。
それでもやはり、これは奇跡だ。
伊勢先輩がきっかけとなって、周りの人間を動かして起こした奇跡なんだ。
二人の抱擁はとても長く続き。
世界は今日も、驚きと希望に満ちている。
※
真夜中。赤い光が天を突く。
「よいち」から伸びる緋線。これから数十万キロの旅をして、月にまで届く魔弾。
「もうすぐだな」
Tと名乗っていた少女は、校舎の屋上にいる。
闇夜に埋もれそうな緑色のバニースーツ。ひっそりと声が流れる。
すべては順調に動いている。
カードは揃いつつあり、機は熟しつつある。
カードの名前は竹取テル、不来方まお、伊勢穂香、そしてトリエックス宇宙服。
「問題は、あの銀色バニーか」
衝撃波が月夜中を突き抜ける。月夜町の住人は慣れきっていて何とも思わない。目を覚ますものもない。
「果たして、あたしの敵なのか」
Tと名乗った少女は。
世界から隔絶したような緑バニーは、星空の中に言葉を投げる。
「それとも、共犯者なのか……」




