第十話「どうして会いに来てくれないの」
月夜町の子どもたちは、とても幸せだと思う。
月夜町ではみんな幼稚園時代からの知り合いだ。たまに転出入もあるけど多くはない。仲が良いとか悪いとか、孤立とか集団とかそんな感覚があまりなかった。みんな習い事で忙しそうだったし、月夜町では幼少期から得意分野を伸ばす方針だったからだ。
運動に明け暮れる子もいれば高等数学に取り組む子がいたり、楽器に親しむ子や、積み木をひたすら組み上げてる子がいたりする。先生たちは優しくて、望めば何でも与えてくれた。
僕もタブレットを与えられて、興味の赴くままにプログラムを学び、ネットワークインフラと暗号化技術を学び、ツールの開発についても学ぶ。好きなことにじっと取り組めることが何よりの幸せだ。
「あなたたち、バイオスフィア部に入らない?」
中学に上がったとき、伊勢先輩から声をかけられた。僕と、すぐ後ろにいた不来方さんが誘われたんだ。
話を聞くと、サンドボックス型ゲームでバイオスフィアを構築する部活だという。サンドボックスでのそのような巨大建築、現実を模倣する取り組みは学術的価値があると認められている。
だけど僕は意外だった。伊勢先輩は小学校時代から体力の人。将来はキャスターガードになると噂されていたから。
「どうして僕たちなんですか?」
「別にあなたたちだけじゃないわ。みんなに声をかけてるのよ」
背後にいた不来方さんは、おずおずと声を出す。
「い、伊勢先輩、運動部じゃ、な、ないんですか」
「あら、確かに運動は得意だけど、得意なことだけやればいいってわけじゃないわ。バイオスフィアの構築は生態系のすべてを再現する究極の学問。どんな進路に進むとしても、きっと役に立つわよ」
僕たちはバイオスフィア部に入った。
もともと僕は部活に入るつもりはなかった。月夜中にはプログラミング部はあるけど、学びたいことはネットの中にすべてあるし、協力して取り組むようなことでもないと思ったから。
2ヶ月ほど経ったけど、伊勢先輩がタブレットに向き合ってる姿にはまだ慣れない。確かに万能の人だけど、特に運動に秀でた人だったから。
サンドボックスにはこの世のすべてがあり、バイオスフィアとはすべての学問の交わる特異点。そのように語る人もいる。
でも、はっきりと思う。
伊勢先輩には、やはり、向いていない。
その残酷な印象が、黒い影となって僕たちを見ている、そんな気が……。
※
「私が?」
バイオスフィア部にて、いつものように建設作業をしながら伊勢先輩に聞いてみる。それとなく聞くというのが難しかったので、直接的な言い方になってしまった。赤バニーで月夜町ナイトファイトに出ていませんか、と。
「そんなもの出てないし、出たいとも思ってないけど……」
「……昨日は何をしてたんですか?」
「ええと、夕食のあと19時まで宿題をやって、21時までトレーニングルームにいたわ。その後は入浴して、22時にはもう寝ていたと思うけど……」
僕と不来方さんは顔を見合わせる。不来方さんは椅子を僕に近づけて、何となく僕を盾にするような姿勢で口を開く。
「で、でも私たち見たんです。い、伊勢先輩がバニーガールの格好で、男の人を倒してるのを」
「でも、本当に知らないのよ」
赤バニーさんが伊勢先輩だと確信できてるわけじゃない。確かに顔は似てるような気がしたけど、なんというか印象がぜんぜん違う。伊勢先輩は落ち着いた人だ。対して赤バニーさんは攻撃の意思を前面に出した前傾姿勢だった。相手の攻撃を回避する時は、皮肉げな笑いを口元に張り付けてもいた。
だけど僕も信じることにしてる。僕のお嫁さんが確信してるんだから、僕もそう思うべきだ。
「伊勢先輩、別に僕たち警察に言おうとか、先生たちに報告するつもりなんかないんです。赤バニーであることを言いたくないならそれでもいいんです。問題なのはそれ以外の可能性です」
「それ以外……というと何かしら」
「伊勢先輩にそっくりな人がいる、という可能性です。それならはっきり別人だと示しておかないと、伊勢先輩にあらぬ疑いがかかる可能性があります」
「それは……確かに」
町のBBSに書かれているような興行だけど、アングラなものには違いない。さすがに中学生が素顔で出るのは危険だと思う。あの赤バニーさんが伊勢先輩でなかったとしても心配になる。手足は長いが、かなり若いように見えたから。
「証明できればそれでいいんです。昨日の夜22時。どこかにいたことを証明できませんか?」
「私の家、寝室が離れにあるから夜中は誰とも顔を合わせないのよね。家には道場があって、最近はみんな遅くまで稽古してるけど……」
そこで、はたと動きが止まる。
首長竜のように、空中の記憶の欠片をさがすような仕草。
「華乃香……」
「え?」
伊勢先輩は、眉間のあたりを人差し指で強く押す。なるべく詳しく思い出そうとしてから話す。
「父に聞いたことがあるの……。私には1歳上の従妹がいるって。でも物心つくより少し前に、山に迷い込んで行方不明になってしまったって」
「行方不明に……?」
大変な事件だ。でも聞いたことはない。
物心つく前なら5歳未満だろうか。そんな子どもが行方不明になったら、それこそ今でも捜索の張り紙が出ていても不思議じゃない。
不来方さんが、僕の背中にぎゅっと拳を当てる気配がある。
「そ、それがどうして月夜町、に」
「分からない……生きていたなら喜ばしい事だけど、どうして会いに来てくれないの。それとも私のことも、月夜町のこともまったく忘れてしまったのかしら……」
…………。
何か変だ。
行方不明の子がどこかの家庭に引き取られるなんて、今の日本では非現実的だ。もし自分の名も言えない子が見つかったなら、行方不明者情報と照らし合わせて、伊勢先輩の家に電話があるはず。
それ以前に伊勢先輩だ。どうも思いつくまま話している、という印象がぬぐえない。
僕たちに嘘をついている?
本当は赤バニーとは伊勢穂香であり、それを隠したいだけ? でも今の話が嘘なら、調べればすぐに分かること……。
「ごめんなさい、今はこれ以上思い出せない。部活の方に集中しましょう」
「……はい」
僕たちはまた建設に戻る。
だが、どこか居心地の悪い感覚が残っている。
伊勢先輩が僕たちに嘘を? 何のためにそんなことを。
分からない。
だけど、分からないとばかりも言ってられない。
僕が赤バニーの正体を突き止めなくては。
それが僕の役割であるのだと……。
※
「おおっとお! 見事なハイキックが炸裂だあ! 赤バニーの独走を止められるものは現れるのかあ!」
月夜町の夜のかがり火。盛り上がっているような淡々としているような不思議な空気だ。戦いに興奮するのと、どこか落ち着くような気分が同居している。
今日は割とたくさんの試合が行われた。アマレスのような組みあいとか、16オンスグローブとヘッドギアをつけてのスパーリングもある。前座とメインの区別などはなく、観客が飛び入りで参加したりもする。選手専任の人もいて、試合をするとさっさと帰ってしまう。
「坊主、これで三日連続だな、ハマったのかい」
受付のおじさんが近くに来る。ビール片手だけど別にビール腹ではない。シャツ越しでも分かるほど引き締まった腹筋をしてる。
「ねえおじさん。赤バニーさんって何者なの? 並の選手じゃないよね」
「おっと坊主、こういう場所の選手を詮索するもんじゃないぞ」
がしがしと頭を揉みしだかれる。グローブみたいに大きな手だ。
「みんな事情があるんだ」
「事情……」
赤バニーさんは今日は一試合だけのようだ。プロレスラー風の扮装をした大男をあっさり沈める。
「ねえ、今の人、こないだは柔道家じゃなかった?」
「別にスタイルなんんか自由でいいだろう。みんないろいろと心得もあるしな」
「……おじさん、月夜町に昔から住んでるの?」
「うん? いや、俺はそうでもないぞ」
「十数年前、小さな子供が行方不明になったって話を聞いたことある?」
「知らんな」
答えが少し早いことに気付いた。おじさんはそっぽを向いてしまう。
「今日はもう帰るね」
「ああ、あまり言えた義理じゃないが、夜更かしは感心しないぞ。ほどほどにな」
「うん」
帰り道。
商店街に差し掛かるころ、ふと振り向けばぼんやりと光の柱が見える。
あのあたりがステラ鉄工所だろうか。月夜町ナイトファイトはまだ続いてるだろうか。
夜の商店街は静かで、空気は氷のように動かない。街路樹が揺れるほどの風もない。
「……そうだ。パトカーの位置を確認しとこ」
タブレットを開く。
すると地図の中に、数十個の輝点が。
「……」
輝点はすごい速さで動いている。地図の中でダンスを踊るかのようだ。
光の粒が渦を描き、僕のいるところに集まってきて。
すた、と、誰かがその場に降りるような音が。
振り向けば、銀無垢の姿が。
「……先生」
「やあ、少年」
銀色のバニースーツに真綿色のウサ耳。
手にはひらひらと、二枚の透明なフィルム。
「こんなものをパトカーに貼って、悪い子だね」
「何のことかわからない」
先生は整った顔をにまりと曲げて笑う。人によってはだらしなく見える笑い方なのに、あまりにも美しすぎて妖艶な意味合いが出てくる。
「心配しなくとも、月夜町は平和な町だからね、深夜に出歩いたぐらいで捕まったりしないよ」
「世間一般ではそうじゃないと思うけど」
「じゃあ、月夜町は一般とは違うのさ」
銀バニーの神咲先生は今日も月琴を持っている。静まり返った商店街とはいえ店舗兼住宅も多いはずだ、まさか弾き出さないよなとひやひやする。
「……先生は、月夜町ナイトファイトについて知ってるの」
「もちろん、魔法使いだからね」
「赤バニーさんは伊勢先輩なの」
「私に聞いてどうする? 私がそうだと言ったらそれを信じるのかい?」
歯噛みする。僕に言わせたいのか。その話をさせたいのか。
「赤バニーさんの正体なら分かってる」
「ほう」
「でも、なんでそんなことをあんたに説明しなきゃいけないんだ。赤バニーさんのことも、伊勢先輩のことも、あんたに関係ないじゃないか。それにあんただって知ってるんだろ。この町のことなら何でも知ってるって顔をして」
「少年、よく聞きたまえ」
先生は長身を脱力させ、夜の底で揺れる。それは銀色に光る一輪の花に思える。
「人がこの世でできることは多くはない。月面都市を滅びから救う。今後も人類を月に挑ませる。それは一個人の手に負えることではないかも知れない。しかし、目の前の問題を一つずつ解決することが、いずれ世界を変えることに繋がるかもしれない。人間の強みとは、積み重ねなのだからね」
「……」
「最初に明確にしておこう」
びいん、と月琴が慣らされる。商店街の真ん中である。周りの家に明かりがつきはしないかと周囲を見回す。
「伊勢華乃香という人物は実在しているのか。果たして赤バニーとは伊勢華乃香なのか、それとも伊勢穂香が一人二役を演じているのか。どちらだろうね。それを明確にしておかないと、話が非常にややこしいことになる」
「……実在しない」
「ほう」
「伊勢華乃香という人間はいない。赤バニーは伊勢先輩だ。伊勢穂香だ」
「なぜそう思うのかね?」
「これだ」
僕はリュックからタブレットを抜き出す。表示される画像は赤バニーさん。相手に対峙して構えている様子を、超高精細で撮影したものだ。それに、手のアップ。
「瞳の虹彩を撮影した。それに手のひらにある掌紋。これは従妹どころか一卵性双生児でも異なる。赤バニーさんのそれは、伊勢先輩のものとまったく同じだ」
「お見事」
先生はにっこりと笑う。本当に正体不明な人だ。面白がっているのか何なのか。
「では第二問だよ、伊勢華乃香という人物は実在したのだろうか。少なくとも一瞬だけでも、世界の歴史にその名があったのか」
「実在した。かつて存在していた伊勢先輩の従妹だ。4歳のころ、ふらりと家から出てしまい、行方不明になってしまった」
「ほう、そんな行方不明事件があれば、町をあげて捜索されそうなものだがね。現在でも人探しの張り紙が残っていてもおかしくない」
「……その子は、帰ってきたんだ」
町の図書館で調べた。10年前、その子は。
……無事な姿では返ってこなかった。バイクにはねられたんだ。記事では意識不明の重体と書かれていた。
「おそらく、伊勢先輩にはそのことが説明されなかった。伊勢華乃香は行方知れずになり、ひょっとしたらどこかの家に引き取られて生きているかもしれない、と教えられたんだ。先輩がまだ3歳だったから」
「よくそこまで突き止めたね」
その後、伊勢先輩は従妹の姉に一度も会っていない。普通に考えれば死んでしまったんだろう。
だけど、伊勢先輩の心の中だけで生きている。
世界のどこかで生きているという、伊勢先輩の信念だけがある。
そして月夜町に戻ってきて、赤バニーとして……。
「少年、君が救うべきは伊勢穂香だろうね」
先生は、僕に笑いかけつつ言う。それは本当に笑顔だろうか。ひどく獰猛なものにも思える。
「歪んでしまった心の形。想念にのみ生きる幻の少女。果たして正しいあり方とは何か。迷宮に迷い込んでいる彼女の心は、どのように救われるのだろうね」
……そんなもの、僕にどうすれば。
そんなものを解決できる人間が、一人でもいるんだろうか……。