第1話「葉書の死角」
九条紬は、白昼図書室の開館準備をしていた。都心の片隅にある小さな図書館。地方出身者や学生が静かに集う場所で、街の喧騒から少し距離を置いた安心感がある。
窓の外には朝の光が差し込んでいた。人通りは少ない。だが、顔なじみの常連たちは少しずつ姿を見せ始める。
「おはようございます、紬さん」
声をかけてきたのは、夜間アルバイトの斎藤透。明るく軽口の多い彼だが、観察眼は意外と鋭い。
「おはよう」
紬は小さく返事をし、机の上に積まれた寄贈本の山に目を落とした。そのとき、古い百科事典の間から、一枚の葉書が落ちた。
表面は少し黄ばんでいる。差出人も宛先も書かれていない。ただ、手書きでひとことだけ。
まだ終わらないで
紬は眉をひそめた。文字の勢いは慌てたようでもあり、どこか冷静さを感じさせる。
「これ……誰のですかね」
透が覗き込む。
紬は葉書の裏面に目をやった。数年前に空き家になった町内の家の住所が書かれていた。胸の奥に、微かな違和感が芽生える。
その翌週、図書室の常連だった中年男性・高村正が亡くなった。表向きは心臓発作。しかし紬は、倒れていた現場の椅子の位置や、わずかな血の跡など、普段なら気に留めない細部に目を止めた。
高村は最後まで図書室に通い、穏やかに本を借りていた。なのに、なぜ――紬の直感が告げる。
透と後輩の図書委員・香川遥を呼び、葉書を手渡す。
「ただの心臓発作……かもしれない。でも、何かがおかしい」
二人は頷いた。三人は図書室に残された葉書、古い写真、住所録、会話の端々を手繰り始める。小さな断片を一つずつ拾うたび、過去の噂話や解消されなかった家族の誤解、地域の目に見えない格差の層が浮かび上がる。
「なんか……小説みたいだな」
透は冗談めかして言った。
紬は軽く笑ったが、瞳は真剣だ。
「小説より、もっと現実の方が怖いのよ」
葉書の文字が、まるで問いかけているように感じられた。
まだ終わらないで
日常の陰に潜む、無数の声。紬はそれらに耳を澄ませ、図書室の静かな空間を見渡した。ここから始まるのは、日常の小さな死角と向き合う、新しい物語だった。
読者の視線もまた、葉書のひとことと図書室に残された断片に引き寄せられる。静かで平凡に見える日常の裏側に、誰も気づかなかった秘密が潜んでいる。紬は既に知っていた。そして問いかける——私たちは、何を見落として生きてきたのか。誰の声に耳を傾けていなかったのか。




