第4話 異世界の城
あれから革張りの椅子に腰掛けてみたものの、どうにも落ち着かなかった。身じろぎするたび、椅子の音がやけに大きく響く気がするし、自分の高鳴る心音さえもうるさく感じてしまう。
その原因は、言うまでもなく彼女──部屋に佇むラフィアの存在だった。
何か用があるのかと待ってはいるものの、彼女が動く気配は一向にない。かといって目線は向けられているので、無視できるような状況でも無い。ただ重い沈黙が部屋を包み、耐えがたいほどの気まずさが蓮斗の精神を削っていくのだ。
彼は気持ちを切り替えようと軽く息をつき、先ほどラフィアが「魔法の指導をする」と言っていたのを思い出していた。
魔法。それが一体どういうものなのか、全く想像がつかない。指先から炎が舞い、詠唱ひとつで嵐を呼ぶ。そんな現実離れした現象が、ここでは日常だというのだろうか。
彼女はなぜか蓮斗も魔法を使えると思っているようだが、当の本人にそんな実感は全くない。この世界に迷い込んでからそれなりに時間は経つが、未だに夢の中にいるようなそんな感覚は抜けていなかった。
──それならいっそ、実際の世界をこの目で見てみるべきではないか?
部屋でただ待っているだけでは、結局のところ何も分からない。この世界が現実だと魂に刻み込むためには、この脚で歩き、この手で触れる必要がある。そうして初めて、ここに存在していると認識できる気がするのだ。
心の内で燻っていた焦燥感は好奇心となって膨れ上がり、蓮斗は勢いよく椅子から立ち上がった。それは停滞した空気を振り払う、最初の一歩だった。
「ラフィアさん。急で申し訳ないのですが、城内を案内してもらえませんか? この世界について、まだ何も知らないままですから……」
そう頼むと、ラフィアは驚いたように軽く息をのむ。その一瞬の間に何か考えていたのかもしれないが、やがて彼女は静かに頷いた。
「かしこまりました。それでは、どうぞこちらへ」
彼女は部屋を出ると軽く頭を下げ、無言で歩き出す。蓮斗は少し遅れて、その後ろ姿を追うことにした。
重厚な廊下を進むと、ラフィアは簡潔に指し示しながら説明していく。廊下には絵画や彫刻が立ち並んでおり、まさに城、といった具合に豪華な装飾が施されていた。
「こちらが大広間です」
視線を向けると、巨大な空間が広がっているのがわかった。豪奢でありながら、どこか整然とした気配が漂い、不思議と落ち着きを感じさせる場所だった。
「凄いな、これが城ってやつなのか……」
しかし、彼らは長居することもなく大広間を後にする。そして、ラフィアはまた淡々と説明を開始した。
「ここは食堂です。食事はここでとっていただけます」
「なるほど、ここも広いですね」
やはり説明は簡潔で、声には感情が感じられない。その冷たさに、蓮斗は少し戸惑いを覚えていた。
「それでは、次に移りましょう」
ラフィアは蓮斗の返答を待つでもなく踵を返し、再び迷いのない足取りで歩き始める。彼女にとって城の案内とは、施設の場所さえ確認すれば良いと認識しているようだった。
着いて行きながら彼女の背をしばらく見つめていた蓮斗だったが、ふと、自ら話題を振りたくなった。沈黙が重く感じられたというのもあるが、それ以上に、彼女の人となりをもっと知っておきたかった。
なにせ「今後、あなたを殺すことになるかもしれない」と遠回しに言われたのだ。むしろ、気にならないほうがおかしいだろう。
「あの、ラフィアさん……」
ためらいがちに声をかけると、彼女は歩みを止めずにわずかに顔を向けた。
「なんでしょうか」
「その……ラフィアさんは、ずっとこの城に勤務しているんですか?」
「そうですね。任務で別の場所へ赴くこともありますが、基本的にはこの城に居ます。私の任務は、城を拠点とする騎士団の指揮と、王族の方々の護衛ですから」
彼女の返答は無機質であった。それに少し気後れしながらも、何か話題を続けようとする。
「でもその若さで副団長って、すごいですね。俺と歳もあまり変わらないように見えるのに……。もしかして、ラフィアさんには何か特別な力があるんですか?」
その言葉に彼女は初めて足を止め、ゆっくりと振り返った。微かに眉が上がったようにも思えたが、すぐに無表情に戻り、短く答えた。
「……特別な力など、私にはありません。あるのは力というより、経験です。むしろ、私にはそれしかありませんから」
声はより一層に冷たかった。彼女の過去には、一体何があったのか。気になりはするものの、「それ以上踏み込むな」という空気を感じ、蓮斗はさらに話を続けることはできなかった。
また沈黙が流れ、廊下にはただ二人の靴音が響いていた。何か話さなければ。そうは思うものの、どんな言葉を選べばいいのか分からない。結局、蓮斗は意味もなく喉を鳴らすことしかできなかった。
その時、廊下の先からこちらへ向かってくる人影が目に入った。それは、鎧を身にまとった屈強な騎士だった。腰には剣を吊るし、鋭い瞳は周囲に緊張感を漂わせている。
騎士はラフィアの姿を認めると、迷いのない足取りで近づき、その場で片膝をついて敬礼をした。
「副団長、ご報告いたします」
男は静かにそう告げると、ラフィアも無言で頷き、その場で報告を受ける態勢を整えた。蓮斗も壁際に寄り、彼らの邪魔にならないように静観した。
「城内の巡回、および城下の見回りが完了しました。特に異常はございません。引き続き、警戒を続行します」
「ご苦労様です。異常があれば、すぐに知らせてください」
「はっ!」
ラフィアが短く指示を出すと、男は再び力強く敬礼し、立ち上がった。そのやり取りは無駄がなく、彼らの間に存在する絶対的な信頼関係をうかがわせた。
騎士は踵を返すと、この場を去っていく。その去り際、彼は蓮斗の方に視線を向け、軽く会釈のような仕草を見せた。それは敬意とも、単なる認識とも取れる曖昧なものだった。
(今のは、どういう意味だ……?)
彼から自分は、どのように見えていたのだろうか。ラフィアの客人として振る舞われたのか、それとも「異世界の人間」として扱われたのか。
この城で自分が何者として認識されているのかがわからず、得体のしれない居心地の悪さとして彼の胸に広がっていた。
「すみません、お待たせしました。では、参りましょうか」
ラフィアは報告を終えると、何事もなかったかのように歩き出す。蓮斗は思考の海から引き戻され、静かに彼女の後に続いた。
「次に、礼拝堂をご案内いたします。この先の階段を降りた、地下にございます」
ラフィアがそう言った瞬間、心に微かな好奇心が芽生えた。この世界における礼拝堂とはどのような意味を持つのだろうか。いわゆる宗教的なものなのか、それとも単に歴史や文化の一部に過ぎないのか、そういった疑問が湧き上がった。
大理石の階段を下りていくと、空気はより一層厳かで神聖なものへと変わっていく。壁には石像が立ち並び、備え付けられた燭台の炎が、ゆらゆらと影を踊らせていた。
「こちらが礼拝堂です。中ではお静かにお願いします」
「はい、わかりました」
ラフィアは重厚な木製の扉を押し開けると、蓮斗に中へ入るよう促した。
「おお、これは凄い……!」
足を踏み入れた瞬間、蓮斗は思わず息をのんだ。礼拝堂の中は驚くほど広々としていて、静謐な空気に満ちていた。高い天井には繊細なステンドグラスが嵌め込まれ、床に幻想的な模様を描き出している。そして祭壇の中央には、生命の樹を思わせるような巨大な石像が鎮座し、圧倒的な存在感を放っていた。
「この礼拝堂は、古くから信仰の中心地として機能してきました。人々はここで精霊たちに祈りを捧げ、その恩恵を受けてきた、とされています」
「精霊……ですか」
「はい。この世界では、精霊は万物に宿る世界の理そのものである、と考えられています。風や水、火や土、そして生命の流れ、そのすべてを司るのが精霊であり、我々はその大いなる流れの一部として生かされている。この思想こそが、当国の信仰の根幹を成しているのです。だからこそ人々は精霊を敬い、このように感謝を捧げています」
ラフィアの説明は相変わらず淡々としていたが、その言葉の端々には、この場所と信仰に対する敬意が込められているように感じられた。
「精霊」という聞き慣れない概念も出てきたが、これまで出会った不思議な現象を見るに、異世界なんてこんなものなのだろう。
「ということは、ラフィアさんも普段ここで祈りを……?」
控えめに問いかけると、彼女は一瞬だけ遠い目をして、やがて静かに首を横に振った。
「公的な儀式の際には。ですが、個人的に祈りを捧げるために訪れることは、ほとんどありませんね」
「そ、そうなんですか」
その答えは、彼女の信仰に対する姿勢を物語っているようだった。彼女にとって祈りとは、あくまで形式的なものに過ぎないのかもしれない。それは精霊を信じていないのか、それとも何か別の理由があるのか。
蓮斗は彼女の横顔から真意を読み取ろうとしたが、相変わらずその無表情は鉄壁だった。
その時、蓮斗は自分の周りに不思議な光が漂っていることに気がついた。
それは、塵のように小さく、しかし確かな存在感を持つ、淡い光の粒だった。光は一つではなく、無数に存在し、礼拝堂の静かな空気の中をゆっくりと舞っている。
(なんだ、これは……?)
蓮斗が意識を向けると、いくつかの光がふわりと彼に近づいてきた。そして、まるで興味を示しているかのように、彼の周りをくるくると回り始める。彼は無意識のうちに、その光に向かってそっと手を伸ばしていた。
「どうかされましたか?」
不意に声をかけられ、蓮斗ははっと我に返った。見れば、ラフィアが不思議そうな顔でこちらを見ている。彼女の視線の先には、何もない空間に伸ばされた自分の手があった。
「あ、いえ……なんでもありません」
咄嗟にごまかすと、ラフィアは特に追及することなく、「そうですか」とだけ返し、再び前を向いた。
彼女には、この光が見えていないのだろうか。そんな疑問が頭をよぎったが、深く考える前に、ラフィアが歩き出してしまった。
蓮斗は名残惜しそうにしながらも、彼女の後に続いて礼拝堂を後にした。
その後も、いくつかの場所を足早に見て回った。騎士たちが剣を交える訓練場や広大な書庫、そして、花々が咲き誇る大きな中庭。ラフィアはそれぞれの場所で簡潔な説明をするだけであって、蓮斗も特に質問をすることはなかった。
こうして一通り城の主要な施設を案内してもらった後、一つの扉の前でラフィアは立ち止まった。
「お疲れ様でした。こちらが、今晩お使いいただく客室です。今後、蓮斗様のお部屋としてご利用ください」
深い木の色をした、装飾の少ないシンプルな扉を見つめる。先ほどまで歩いてきた廊下と同じように、この部屋からもどこか冷たい印象を受けた。
「わかりました。今日は色々説明してくれてありがとうございます、助かりました」
「いえ。夕食の時間になりましたら改めてお知らせに参りますので、それまでごゆっくりお過ごしください」
ラフィアはそう告げて一礼し、そのまま静かに去っていった。蓮斗は彼女の背中を見送りながら、少しの間その場に立ち尽くした。
ラフィアはそう告げて一礼すると、音もなく去っていった。その背中を見送り、一人残された蓮斗は、静かに扉を開けて部屋の中へと足を踏み入れた。
室内は広々としていたが、置かれているのは大きなベッドとテーブル、簡素な椅子が一つだけ。これまで見てきた城の豪華絢爛さとは裏腹に、飾り気のない部屋にどこか寂しさを感じる。そして、ベッドに腰を下ろすと、深いため息が自然と漏れ出た。
「はぁ、これからどうなるんだろうな……」
蓮斗はぼんやりと自分の手を見つめる。異世界に召喚され、訳も分からぬまま一日が過ぎた。この手は、この身体は、昨日までと同じであるはずなのに、まるで自分のものではないような、奇妙な感覚に襲われる。
やがて、考え込むことに疲れた蓮斗は、ベッドにゆっくりと横たわった。
見慣れない高い天井をぼんやりと眺めているうちに、抗いがたいほどの疲労感が全身を包み込んでいく。不安も、疑問も、今はすべて重たい瞼の向こう側へと沈んでいくようだった。
「これじゃ、夕食まで起きていられそうにないな……」
心地よい眠気が全身を包み込み、思わず口に出す。異世界での出来事に気を取られていたが、疲れは想像以上に深く、身体は限界を迎えていた。これが夢であることを願いながら、やがて彼は深い眠りに落ちていった。