第3話 ラフィア
蓮斗は王との謁見を終え、案内役に導かれるまま城内を歩いていた。豪奢な装飾が施された廊下はどこか現実感を薄れさせる。異世界に召喚されたことをまだ完全には受け入れられていないと、彼は改めて痛感していた。
ふと立ち止まり後ろを振り返ったが、陸の姿はどこにも見えなかった。どうやら二人は別々の場所へと案内されているらしい。ただでさえ心細い状況で、唯一の顔見知りとも引き離されたことに、胸の内に不安が広がる。しかし、ここで立ち尽くすわけにもいかず、蓮斗は再び前を向いて歩き出した。
「……本当に、異世界に来ちまったのか」
誰に聞かせるでもなく、乾いた声で呟いた。話から察するに、元の世界へ帰れる保証はないみたいだが、蓮斗はあまり気にしていなかった。
それより気掛かりなのは、自分にどんな力が備わっているのかということだった。召喚されてからそれなりに経つが、身体に目覚ましい変化は無く、内から魔力が湧き上がってくるような感覚も無い。
正直なところ、全くと言っていいほど能力に目覚めた実感がないのだ。早く、俗にいう『能力覚醒!無限チート!』的なイベントが起きてくれればいいのだが……
「蓮斗様、こちらでございます。後のことにつきましては、部屋の中にいる者にお尋ねくださいませ」
「あ、はい。わかりました」
やがて案内役は立ち止まると、そのまま扉を押し開けた。すると目の前に現れたのは、豪華な装飾に満ちた客間だった。分厚い絨毯、繊細な彫刻が施された家具、一歩踏み入れるだけでその重厚さが身に染みた。
しかし、それ以上に蓮斗の視線を釘付けにしたのは、部屋の中央に佇む一人の女性の存在だった。
彼女の銀色の髪は雪のように清らかで、肩の下まで優雅に流れている。長身でしなやかな肢体は、決して華奢というわけではなく、むしろ鍛え上げられた者の持つ精悍さがあった。服装は高貴さを感じさせつつも動きやすさを重視しており、彼女の凜とした個性を存分に際立たせていた。
「……綺麗だ」
無意識に口から漏れ出ていた。はっと我に返り、顔が熱くなるのを感じながら慌てて口を噤む。しかし、彼女は特に気にした風でもなく、ただ静かな眼差しを蓮斗に向けているだけだった。
「はじめまして、蓮斗様。私はラフィア・オルティア・ルヴィエール、この王国の騎士団副団長を務めております。本日より、あなたの護衛を任されました」
ラフィアと名乗った少女は一歩進み出ると、深く頭を下げた。その声は澄んでおり、毅然としていた。
「えっと……津山蓮斗です。こちらこそ、よろしくお願いします」
蓮斗はやや戸惑いながらも、丁寧に頭を下げ返す。
「こちらの部屋は応接室でございます。蓮斗様にお使いいただく客間の準備が整いますまで、今しばらくこちらでお待ちくださいませ」
ラフィアは丁寧に説明を終えると、用が済んだように壁際へと移動した。その一連の所作には一切の無駄がなく、まさに手練れの騎士といった洗練された動きだった。
一方、蓮斗は落ち着かない気持ちでいた。というのも、ラフィアの「護衛」という言葉が少し気がかりだったのだ。勇者として召喚された陸ならばともかく、ただ巻き込まれただけの自分に、これほど高位の騎士が護衛として付くというのは、どう考えても不自然だ。
「あのラフィアさん。あなたが俺の護衛って、本当ですか?」
蓮斗は思わず問いかけた。違和感を拭えないまま、曖昧な表情で彼女を見つめる。
「はい、護衛です。蓮斗様の身の安全をお守りする役目を頂いております。また護衛に加え、城内の案内や魔法の指導、この世界の基本的な知識についてもお伝えするよう申しつかっております」
ラフィアは表情一つ変えずにきっぱりと答えた。話を聞く限り、少なくとも表向きは、この異世界での生活をサポートしてくれる存在、ということになるのだろうか。
「……わざわざありがとうございます。でも、護衛が必要ってことは、俺も何か危険な目に遭う可能性がある、ってことですか?」
蓮斗は探るように問いかけ、ラフィアの反応を慎重にうかがった。だが彼女は表情一つ変えず、静かに口を開いた。
「蓮斗様は、我々とは異なる世界よりお越しになられた稀有な存在。それ故、あなたの身柄はこの国にとって、計り知れない価値を有しております。万が一の事態を避けるため、有力な護衛をつけるは当然の措置かと」
淡々と述べられた言葉は理に適っていた。もしそれが本当ならば、「異世界人」というだけで、相当なVIP待遇をということになる。それならばそれで良いのだが、しかし、蓮斗の胸には拭いきれない疑問が残っていた。
「なるほど。ですが、騎士団の副団長さんが護衛に付くというのは、やはり少し大袈裟なような気がするんですが……」
「……そうですね」
ラフィアは一瞬、何かを思考するように目を伏せた後、再び蓮斗に視線を戻した。
「……蓮斗様がこの国の秩序に対し、どのような影響をお与えになるのか。それを見極めさせていただくのも、わたくしの重要な役割の一つ、とご理解いただければ幸いです」
その言葉に含まれた微かな含意に、蓮斗は背筋に冷たいものが走るのを感じた。ラフィアの声には感情の起伏がほとんどなく、何を考えているのか全く読み取ることができない。
(……でもつまり、そういうことなんだろうな)
あれこれと考えを巡らせた結果、一つの可能性に行き着いていた。
それは彼女は単なる護衛ではなく、異世界から来た正体不明の自分を監視する役割も担っている、ということだ。
というのも、勇者として召喚された陸とは違い、自分は完全にイレギュラーな存在。この国にとって、ある種脅威と見なされてもおかしくないのだ。もしかすると、既に不都合な存在であると見なされ、命を狙われている可能性だって……。
「はは、そうですよね。いきなり現れた異世界人なんて、どう考えても普通じゃないですから」
蓮斗は軽く苦笑するも、警戒心が拭えない。
「……ということは、つまりラフィアさんは、俺がおかしな真似をしないよう監視していて、万が一の際には実力行使も辞さない……そういうことでしょうか?」
少しふざけたような口調で、核心に触れる質問を投げかけてみた。半分は冗談のつもりだったが、ラフィアの反応を試す意図も含まれていた。しかし、彼女は眉一つ動かさず、即座に答えた。
「監視、という表現は適切ではございません。わたくしの主たる任務は、あくまで蓮斗様の安全をお守りすること。ただし、もしもあなたがこの国の安寧を脅かす存在と判断された場合……その限りではありませんが」
冷静かつ正確な返答に、ラフィアが任務に恐ろしいほど忠実であることを改めて感じ取った。もし彼女に本気で命を狙われれば、自分では到底敵わないだろう。そんな不安が頭をよぎり、手にじわりと汗が滲んだ。
「……そうですか。でもまあ、普通に護衛していただける分には、心強い限りですけどね」
そう答えながらも、心中には張り詰めた緊張感が渦巻いていた。彼女はただの世話役でも護衛でもない。場合によっては、自分を排除する執行者にもなり得るのだ。下手な言動は見せられない。
「何かお困りのこと、ご不明な点がございましたら、いつでも私にお申し付けください」
ラフィアは、そう言って微かに口元だけで笑った。
「わかりました」と、蓮斗は表面上は穏やかに返したが、心の中では言いようのない不安が渦巻き始めていた。彼女が監視役として傍にいる以上、これからは彼女の目を常に意識せざるを得ないだろう。
再び沈黙が落ちた。ラフィアは微動だにせず佇んでいるが、蓮斗にはそれが妙に居心地悪く感じられた。沈黙を破る気配もなく、むしろそれを当然とでも言うような態度だ。
(……嘘だろ、このまま黙って見られ続けるのかよ)
気まずさに耐えかねて、蓮斗はわざとらしく咳払いをひとつ挟むと、思い切って口を開いた。
「……あの、ラフィアさん。今後の予定というのは、どうなっているのでしょうか? 護衛のこと以外は何も知らされていないので、正直、何が何だか……」
この状況から逃れたい一心で、蓮斗は少し視線を伏せながら問いかけた。
「ご安心ください。今後の日程につきましては、必要に応じて逐一お伝えいたします。ただ、本日はこの後の夕食を除いて、特に予定はございません。お部屋の準備が整い次第ご案内いたしますので、それまではご自由にお過ごしいただいて結構です」
ラフィアの口調は終始礼儀正しかったが、どこか温度の感じられないものだった。その完璧すぎる立ち居振る舞いには、人間的な温かみや感情の揺らぎといったものが、まるで希薄に思えた。
「そうですか……わかりました。ありがとうございます」
蓮斗は少しぎこちなく笑って返した。正直はところ、彼女とはまだ壁のようなものがあった。会話の糸口を掴もうとしても、またするりと躱されてしまう。
これ以上、気まずさを埋めるような気の利いた言葉も思いつかず、再び蓮斗は口を閉ざしてしまった。
会話が途切れると、また静寂が二人を包み込んだ。
ラフィアは背筋を凛と伸ばしたまま、微動だにせず佇んでいる。その姿は、精巧に作られた氷の彫像のようだった。蓮斗は何か言葉をかけるべきかと逡巡したが、一切の感情の揺らぎを見せないラフィアの横顔を見ているうちに、結局何も言い出せずにいた。
(この人、一体何を考えているんだろうな……)
ラフィアからはいかなる感情の揺れも見えない。蓮斗は、この目の前の美しい女騎士をどこまで信頼していいか、慎重に見極めていく必要があると感じ始めていた。