第1話 魔法陣
夜の10時を過ぎた頃、津山蓮斗は公園のベンチに腰を下ろしていた。冷え込む夜風が頬をかすめる。大学での長い一日を終えた身体は重く、頭もどこかぼんやりしていた。それでも、すぐに帰る気にはなれなかった。何かから逃れるように、この寒空の下に身を置いていたかった。
ふと、吸い寄せられるように空を見上げる。
そこには、透き通るような冬の星空が広がっていた。
──あれ、星ってこんなに綺麗だったっけ……?
寒さが空気を浄化するのか、その輝きはいつも以上に鮮明だった。普段気にも留めない星々が、不思議と彼の目を奪って離さない。
「ぷはぁ……」
手に持っていた缶コーヒーを喉に流し込むと、意思とは無関係に深いため息が漏れた。白い塊となって夜の闇に溶けていくそれが、今の自分自身のように思える。
今日も研究は成果なし。何時間もかけた実験も、何ひとつ形にならない。霧の中を手探りで進むようで、ただただ時間だけが過ぎていった。
周りは着実に成果を上げているというのに、自分だけが足踏みをしている。自分だけが、もがき苦しみながら沈んでいく、そんな感覚。
――このままじゃ、ダメだ。
そんなことは、誰よりも自分が一番わかっている。わかっているのに、打開策が何一つ見いだせない。
「マジでこの先、どうすりゃいいんだよ……」
額に手を当て、そのままぐしゃりと顔を覆った。声にならない呻きが、再び白い息となって夜空に吸い込まれていく。
手の中にあった缶コーヒーは、いつの間にかすっかり冷め切っていた。
「あの……大丈夫ですか? 」
突然、声をかけられた。凛とした、少し高めの男の声だった。
顔を上げると、近隣の高校の制服を着た少年が、心配そうにこちらを覗き込んで立っていた。短めのブロンドヘアに整った顔立ち。そして、スラリとした長身が目を引く。絵に描いたような美しい容姿で、黒い瞳は宝石のように輝いていた。
しかし、どうやらぼんやりしすぎていたみたいだ。彼がすぐそばに来ていたことに、全く気がつかなかった。
「えっと、君は……?」
突然の出来事に言葉が詰まる。その少年の圧倒的な美貌に、ただ息を呑むばかりだ。
「お兄さん、最近よくこの公園にいますよね? 昨日も……一昨日も見かけた気がします。なんだか辛そうだったので、声をかけようかずっと迷ってたんです」
「……ああ、確かに最近はずっといたかもしれないな」
ここ数日、研究室を飛び出しては、この公園で時間を潰すことが常態化していた。
少年はその返事を聞き、照れくさそうに笑みを浮かべる。その笑顔は、張り詰めていた蓮斗の心を微かに和らげた。
「その……もしよかったら少し話をしませんか?俺もちょうど、誰かと話したい気分だったんです」
その真剣な表情に蓮斗は戸惑いながらも、どこか断れない空気を感じる。
「……まあ、なんだ。とりあえず座ってくれよ」
仕方なく隣を促すと、少年は素直に腰を下ろした。どうしようかと呆然と顔を見合せていると、彼は「ほらほら、早く話してくださいよ」と言わんばかりに顔を頷かせる。
その純粋な笑顔に、蓮斗は自然と心を開く気になっていた。普段は他人に悩みを打ち明けることなどなかったが、この少年の前ではつい抱えている不安を話し始めていた。
「悩み……というか、ただ情けない話なんだけどさ。ここ最近、何一つとしてうまくいってないんだよ。自分はこの道に向いていないんじゃないかって、本気で思い始めてるんだ」
自嘲気味な笑みが、言葉と共に漏れる。蓮斗は、目の前に広がる夜の街並みへと視線を移した。
「っていうのも、大学での研究が思うように進まないんだ。朝から論文を読んで、実験をして、データを解析して……でも、思うような結果が出ない。繰り返し挑戦しても、壁にぶつかってばかりでさ。締切は容赦なく迫ってくるし、周りの連中はどんどん成果を出していく……な、嫌になるだろ? 正直、もう心が折れそうなんだ」
蓮斗はふっと乾いた笑いを漏らし、力なく首を振った。
「大学院に進んだ時は、もっときらびやかな世界だと思ってたんだ。寝食を忘れるくらい研究に没頭して、誰も見たことのない新しい発見をして。そんな、理想ばかり追いかけてた……。けど、現実はそんな甘くなかったんだ。何も上手くいかないんだよ。このまま続けて、本当に意味があるのかって。もしかしたら、もっと早くに別の道を選ぶべきだったんじゃないかって……最近はそんなことばかり考えてしまうんだ」
「……なるほど。そういうことだったんすね」
少年は蓮斗の言葉を遮ることなく、じっと耳を傾けていた。そして、少しの間考え込むように視線を落とし、やがてゆっくりと口を開いた。
「俺もこう見えて今、受験生なんすよ。さっきまで塾の自習室に籠ってて、その帰り道だったんです」
改めて少年の姿を見ると、確かに肩には少し膨らんだリュックサックが見える。それでこんな時間に制服姿の高校生が一人でいたのか、と蓮斗は合点がいった。
「俺、元々スポーツばかりやってたんで、勉強は苦手で。でも行きたい大学があって、そのために今はそれなりに頑張ってるんすけど、なかなか上手くいってなくて……」
少年は軽く肩をすくめ、それから改めて蓮斗の目をまっすぐに見つめた。
「でも……結局のところ、失敗とか成功とかって、最後までやってみないと分からないじゃないですか」
「……つまり、どういう意味だ?」
蓮斗は少年の言葉の真意を探るように、問い返した。
「いや、上手く言えないんですけど……やっぱ人生って、結局は『運』だと思うんすよ。どんな環境で生まれて、どんな才能を持ってて、どんな人と出会って、そして、どんな選択していくか。結局その全部は、運の連続なんじゃないかって気がしてて……」
「へぇ、結局人生は運次第……か。面白いこと言うな、君は」
蓮斗は少年の意外な言葉に、思わず聞き返す。高校生にしては随分と達観した考え方だと感じていた。
「だから何か上手くいかなかったとしても、それは努力が足りなかったとか、才能がなかったとか、そういうことじゃないって思うようにしてるんです。もちろん、頑張ることは大前提ですけど、失敗の原因についてはあまり考え過ぎない方がいいのかなって……。そんなことを悩んでる時間より、今自分に出来ることを積み重ねていくのが大事だと思うんです!」
「……今できることを頑張る、か」
「はい! その方が、運も味方してくれるような気がしません……?」
そう言って、少年は少し照れたように笑った。
「なんて、すみません。高校生の俺が偉そうなこと言っちゃって。何の解決にもなってないですよね……」
「いや、そんなことはないよ」
蓮斗は静かに首を振った。確かに、具体的な解決策が見つかったわけでも、目の前の問題が消え去ったわけでもない。しかし少年の言葉には、不思議な説得力と、人の気持ちを軽くする何かがあった。凝り固まっていた思考がほぐれ、心が安らぎ温まるような、そんな気分にさせてくれた。
しばらくの間、二人の間に沈黙が流れる。蓮斗は、少年の言葉を胸の中で反芻していた。
「運を味方につけるために、今できる努力をする、か……。うん、悪くない。確かに、俺は色々と考えすぎていたのかもしれないな」
蓮斗はしみじみと呟いた。心の中で重くのしかかっていた靄が、少しずつ晴れていくような感覚があった。少年はその言葉を真剣な表情で受け止め、静かに頷いていた。
「……ありがとう。なんだか、少し楽になったよ」
蓮斗がそう言うと、少年は目を見開き、やがて恥ずかしそうに笑った。
「い、いや、そんな……俺、別に大したことは……」
「いや、十分さ。そういう素直な言葉って、案外、大人になると聞けなくなるんだよ」
「そ、そうなんですか……」
少年はきょとんとした顔をしたあと、ちょっと考え込むようにうつむいた。蓮斗はそんな様子を微笑ましく感じ、小さく笑いながら、ふっと目線を空へと向ける。
「それにしても、君は受験生か……懐かしいな。俺もそんな時期があったっけ」
蓮斗は遠くを眺めながら、自身の受験時代を思い出していた。受験のプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、ひたすら勉強に打ち込んだ日々。そして、努力が実を結んだあの瞬間。思い返すと、思わずふっと笑みがこぼれた。
「お兄さん、絶対頭良さそうですもんね。いいなあ、俺も早く受験終わらせて、大学生になりたいっすよ」
「はは、もう少しの辛抱だって。……なんなら、俺の受験の時の話でも聞くか? ちょっとは気分転換になるかもしれないぞ」
冗談交じりにそう提案すると、少年は顔を輝かせ、「ぜひ! お願いします!」と身を乗り出すようにして答えた。普段話し相手もいなかった蓮斗にとって、この瞬間は少しだけ貴重に感じられた。
夜も11時をとうに過ぎているというのに、二人の会話は尽きなかった。受験の話に始まり、大学生活の話や今の高校生の流行りや悩みなど……話題は次から次へと移り変わった。お互いに抱えている悩みや不安はあったはずだが、この瞬間だけはそれを忘れ、ただ純粋に会話を楽しんでいた。
「よし、じゃあそろそろお開きにするか。お互い、明日も早いだろうしな」
蓮斗が名残惜しさを感じながらもベンチから立ち上がると、少年もそれに続いた。
「そうっすね……あの、今日は本当にありがとうございました! なんだか、すごく元気が出ました!」
「いや、こちらこそだよ。俺もだいぶ霧が晴れた気がする。またよかったら話そうな」
「はい! 俺もまた話せたら嬉しいです!夜なら、だいたいこの辺うろついてるんで!」
「おう、じゃあまたな。受験頑張れよ」
そう軽く手を挙げて別れを告げようとした、その瞬間だった。
──ゾクッ
突然、周囲の空気が一変した。静かに吹いていた夜風はピタりと止まり、何か異様な雰囲気が辺りを包み込む。
「ん、なんだ……?」
蓮斗は眉をひそめ、反射的に周囲を見回した。その視線が、足元へと落ちた時──彼は息を呑んだ。
地面に見たこともない複雑な紋様が、淡い光を放ちながら浮かび上がってきている。それは生きているかのようにゆっくりと、しかし確実にその輪郭を形成し、明滅を繰り返しながら煌めいていた。
「な、なんだよこれ……!? おい、見ろよ足元!」
「……えっ!?」
あまりに突然の出来事に、心臓が鼓動を早くする。光り輝く円形の模様、その内側に緻密に描かれていく不可解な幾何学模様──これが何なのか、知識としてではなく、本能が叫んでいた。これは、フィクションの世界でしか見たことのない「魔法陣」だ。
現実とは思えないほど神秘的で、不気味な光景が目の前に広がっていく。
「お兄さん! こ、これって一体……!?」
少年の声が震え、蓮斗に問いかける。その表情は驚きと恐怖で歪み、その声は急激に高くなっていた。何が起こっているのか、理解できていないのは二人とも同じであった。
「さ、さあ。俺に聞かれても、何が何だか……おい、危ないからとりあえずこっちへ来い!」
咄嗟に少年の腕を掴もうとしたが、それよりも早く、魔法陣は急速に膨張を始めた。そして、網膜を焼き尽くさんばかりのまばゆい光を、一気に放ち始めた。
「うっ、眩しいっ……!」
光は瞬く間に周囲を飲み込み、視界の全てが真っ白に染め上げられる。その直後、身体がふわりと、重力から解き放たれたかのように浮き上がる奇妙な感覚が、蓮斗を襲った。
「え……嘘だろ。身体が浮いてる……!?」
「お兄さん!これ、どうしたら……!!」
いやいや、嘘だ。
こんなことが現実に起こるはずがないだろ。
あまりにも現実離れした感覚に、思考が完全に麻痺し、混乱で満たされていく。
しかし何か言葉を発する間もなく、光はさらに強さを増していく。そして、ついには目を開けていられないほどになり──
その瞬間、蓮斗たちの意識は途切れた。