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第九章

 第九章


 病室の窓の外では、薄曇りの空がゆっくりと広がっていた。梅雨明けの七月の終わりの陽射しは強くカーテンを透かし、松の青さと白砂はさかりの夏を演出していた。部屋の中は、耳を澄ますと換気扇の機械音が気怠く、ゆるんだ時間を刻んでいた。まるでそれは、午睡を誘おうとしているかのようだった。

 裕太はベッドの上で体を横たえ、目を閉じていた。体の痛みは少しずつ和らぎ、呼吸は静かに、規則正しくなっていた。頭の中のざわめきも薄れ、換気扇の音が深い静寂を包んでいった。

「奈緒はまだ来ないのか」

 心の中で呟いた。

 看護師の巡回が終って、奈緒がいないこの時間は、日常のリズムを乱すことなく、まるで緩やかな川の流れのように静かに過ぎていった。

 過去の苦しみや未来への不安は、この静けさの中で少しずつ溶けていった。目を閉じれば、遠い記憶がほのかに浮かび上がり、暖かな光に包まれた。

 その光は、幼い頃に母が差し伸べた手の温もりであり、父の厳しさの裏に隠された優しさであり、そして奈緒の穏やかな微笑みでもあった。

 心の内側で、ゆっくりと波紋が広がっていく。孤独も寂しさも、すべてはひとつの流れの中の揺らぎに過ぎなかった。

 窓の外で、鳥のさえずりが聞こえた。小さな命の声が、命の連鎖を伝える。

「生きるとは、こういうことなのかもしれない」

 そんな思いが胸の奥に静かに満ちていった。

 手にした小さなノートを開く。そこには、講師から渡された英単語帳のページが広がり、まだ見ぬ世界への扉をそっと開いているようだった。

「百回、いや千回でもいい。単語と出会い、その一つ一つを自分のものにしよう」

 自分にそう言い聞かせると、目の奥に新たな光が灯った。

 その光は、苦しみの深淵を見つめた者だけが得られる、静かで確かな希望だった。

 少ない愉しみのひとつ、昼食が終ると、寡黙な狂者のようにひたすら英単語の復習をした。のめり込んだのは時間を忘れるためだった。奈緒の来てくれる刻限が近づくと、何度も時計を見て確認した。

 こうして時間を過ごしていると、奈緒が病室に入って来た。

「頼まれた本が届いたので、持って来ました」

 奈緒は、その本、「罪と罰」を差し出した。

「お兄ちゃんは、むつかしい本を読むんだね」

「退屈なだけだ」

 難解な本を読んでいることで、どこか優越感を覚えていた。だが、何度読んでも物語に入り込めない自分を恥じてもいた。それが、ああして謙遜して云った理由だった。

「こんな長い本を読もうとするだけでも、さすがお兄ちゃんだな、と思う」

 この手の本を読んで理解出来なければ、人生を語る資格がないと感じていた。

「お兄ちゃん、私の短歌が校内コンクールで優勝したんだ」

「へぇぇ、すごいな。どんなの?」

「ちょっと待ってね」

 奈緒は、メモ用紙にその短歌を書いて見せてくれた。


 茜さす

 日の出の海を

 ひた走る

 連絡船も

 ピンクに染める


「すごいね。色が鮮やかに浮かんでくる。ピンクに染めるというのが新鮮な気がする」

 短歌という芸術がそれほど分かる訳ではなかったが、中学生らしさが現われていると感じていた。これなら学内のコンクールで優勝するだろうと思った。

「お兄ちゃんが喜んでくれてよかった」

 その奈緒の喜び方は自然だった。そこには裏の顔は感じられなかった。

「朝起きたとき、日の出の中に連絡船が走るのを見て作ったんだ」

 きらきらと朝の光を受けて、ピンクに輝く連絡船は、奈緒そのものに思えた。何かに向かって、希望に満ちた未来へと、まっすぐに走っている姿だった。そこには、死の影など微塵もなかった。彼女は、死というものからあまりに遠くにいた。まるで死神が、彼女を避け、見ないふりをしているかのようだった。


 裕太は、短歌の書かれたメモを、目を細めて見つめた。そこから本当に光がこぼれているわけではない。けれど、その調べと奈緒の姿は、確かに眩しかった。

 罪と罰を手に取って読み始めた。もう何度も読み返していたので、最初の部分は記憶の中にあった。

 奈緒は、雑誌を読んでいた。

 長編小説に飽きたとき、奈緒の雑誌に目がいった。そこには「食房探訪」というタイトルで都内のレストランと寿司屋が紹介されていた。

「ちょっと雑誌を見せて」

 彼女は軽くうなずいて雑誌を手渡してくれた。

 レストランには分厚い神戸牛のサーロインステーキと魚介のオードブルが並んだ写真が掲載され、寿司屋には鮪や鯛、雲丹やいくらの軍艦が二貫ずつ載っていた。そのどれもがたまらなく美味しそうに見えた。味気ない病院食から見れば、天上の食事だった。

「おいしそうだね」

 奈緒の顔が、息遣いを感じられるほどに近くにあった。

「でも高そうだね。お兄ちゃんはどれがいい?」 

「う~ん、ステーキかな。奈緒は?」

「ぜんぶ!」

「ずるいぞ! どれかひとつだ!」

「だって、お寿司もステーキも食べた記憶がないから、分かんない」

 彼女の家の経済状況が瞬間的に見えた。

「退院したら、一緒に食べに行こう」

「嬉しい! でもこれ、東京だよ」

「東京か。遠いな」

「タブレットで検索してみようか。近くのレストランとお寿司屋さん」

 次々と食事処を検索して、これがいい、あれがいいと言っているうちに時間が瞬く間に過ぎ、奈緒の帰る刻限になった。

「お兄ちゃん、約束だよ。退院したら絶対に連れて行ってね」

 小指を隠したが、彼女は覆いかぶさって来て、強引に指を取った。もう、為すがままだった。彼女は、握りしめていた拳の小指をひらいて「嘘ついたら針千本、飲ま~す」と指切りをした。

 そのあと、携帯を持っていない奈緒のためにタクシーを呼んでやった。タクシーがすぐ来るというので、彼女は身支度をして、「雑誌は置いておくね」と云って、ほほ笑みながら手を振って病室を出た。


 遙香は、数日間、別のフロアに移動となった。その替わりにやって来たのは、よく喋る看護師だったが、ほとんど会話の相手はしなかった。

 気難しい無口な病気の高校生でよかった。

 面白くもない会話に、わざわざ愛想を浮かべる気などなかった。相手によって、こうも露骨に態度を変える自分が、どうにも気に入らなかったが、これは思春期の特権だったし、元来が口数のすくない偏屈な高校生だった。

 奈緒が次に来てくれた日、虫籠に蛍を入れてきた。

「残り蛍だよ」

「ここは無菌室だから禁止だよ」

「そうなの?」

「でも内緒で飼おう。見つからないように隠そう」

 看護師が来る時間帯はいつも同じだった。そのときだけ虫籠を隠せば問題はなかった。

「ふたりだけの秘密が出来たね」

 奈緒はいたずらそうに笑って舌を出した。その仕草が、どうしようもなく初々しく見えた。

「この蛍、光るのかな?」

 毛布を被せて暗くし、少しの隙間から覗き込んでみた。蛍は黄色く光っていた。その隙間には奈緒も覗き込んできて、頭がコツンとぶつかった。

「牡かな? 牝かな?」

「よく光るからきっと牡だ」

「牡のほうがよく光るの?」

「比べて見た事はないけど、そうらしい。この光は異性を呼ぶ光だそうだ」

「お兄ちゃん、何でも知っているんだね。こうやって光って、恋人を呼んでいるんだなんてロマンチックだわ」

 蛍が光っているあいだだけ、奈緒の鼻筋、輪郭が浮き上がった。光が消える一瞬だけ、奈緒は消えていた。

 長いあいだ、毛布の隙間から蛍の光を鑑賞していた。その時間がどれくらいの長さなのか分からなかった。ただ飽きるまで覗いていたのは確かだった。

「蛍は幼虫のときは、カワニナを食べているけど、梅雨前に成虫になってからは一週間か十日しか生きられない。そのあいだ何も食べない」

「そのあいだに恋人を探すんだ。見つけられなかったら侘しいね」

 その蛍をベッドの横のナイトテーブルに置いて、二人でタブレットを覗き込みながら、料理屋の写真を次々と見ては、ああでもないこうでもないと夢中になった。

 虫籠は、こうして無菌室の病室に隠された。寝るときは、小さなロッカーに虫籠ごと入れて隠した。戸を閉める寸前に、蛍は光り始めた。狭いロッカーの中で、光り続ける蛍を想像して戸を閉め切った。

 蛍はその後も光り続け、四日後に息絶えた。

 その蛍がなぜか羨ましくも思えた。


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