第七章
第七章
食事の時間、遙香に出逢える愉しみ、学習と自習、入院生活がすこしずつ充実して来た。勉強にも次第に意欲が湧いて来た。
自習しているときに、検針に遙香が病室に入って来た。
「感心だね。なんの勉強してるの?」
彼女は、教科書を覗き込んできた。
「うわぁ! 英語なんだ。なにが書いてあるか分からない。裕太君はわかるの?」
「一度、勉強したから」
「裕太君、賢いんだってね」
「そんな事ないよ」
と、どこか気取ったような、けれど押し隠すような声音で答えた。
この普段やらない会話、「お通じは? 体調は?」という事務的な問答以外のやりとりが、距離を縮められたようで楽しかった。
日曜日、昼から母が来ることがあったが、二時を過ぎるとその日は見舞いに来ない事が普通だった。しかし、遅い午後に、父が女の子を連れてきた。
彼女は中学の下級生だった。生徒数の少ない校舎の廊下を歩くたび、その顔は何度か視界をかすめた。しかし、それが意味を持ったことは、一度もなかった。お互いに通り過ぎて行く生徒で、名前すら知らなかった。
その彼女が父と病室に現れたのは、理解も想像も及ばぬことだった。あまりにも奇異で、おそろしく不可解な風景だった。
「今日は元気そうだな」
「うん」
気のない気むつかしそうな返事、いつものそうした返事を今日もした。
「この子を知っているか?」
「中学の下級生。顔だけは見た事がある」
「お父さんの会社の事務員さんの娘さんだ。アルバイトを探していると相談されたので、裕太の付き添いをお願いしたら、なんでもやりたいと言ったのでお願いした」
直感的に、母が父に介護を押し付けたな、と推測できた。母は、家の外での活動がアイデンティティだったのだ。母は、家の閉塞から逃げ、外へと身を置いた。家族を守るためではない。むしろ、自己を守るためだった。その事で結果的に家族の崩壊を喰い止めていた。それが母の選んだ生き方だった。
それを非難するほど母に愛情を持っていなかった。父に対しても同じようなものだった。母が毎日、病院にやって来て付き添いをしてくれれば、また違った愛情があったかもしれなかったが、濡れ落ち葉のように干渉されるのは考えただけでも辟易した。
「この子には、法律上、ボランティアとしてやってもらうから、裕太もそのつもりでいてくれ」
もちろん異存はなかった。それで表向きの家族の平安が保たれるのであれば、だった。
その下級生は、父のうしろから、申し訳なさそうに白石奈緒と云った。
美人ではなかったが、不細工でもなかった。惹かれるわけではないが、不快ではなく、愛嬌こそ乏しかったが、どこか手頃な可愛さを湛えていた。安心できる顔、つまり、しごく普通の女の子だった。遙香と比べれば、容姿は雲泥の差だった。
奈緒は、浮ついた明るさはなく、かといって、暗い印象はなかった。静かな感じだったが、そこには静謐な冷たさは感じられなかった。
驚いたのは、彼女が、
「お兄ちゃん」
と呼んだことだった。
後に彼女は、「名前を訊かされていなかったから」と言い訳のように笑った。
だがその声音の奥には、最初からそう呼びたかっただけかもしれない、という疑心が生まれたが、その「お兄ちゃん」という甘酸っぱい言葉に、兄弟に恵まれなかったので、悪い気は起きなかった。
その呼び方が、いつしか二人のあいだの約束になり、「お兄ちゃん」、「奈緒」と呼び交わすのが常になった。看護師の中には、二人が本当の兄妹と勘違いする人たちが多かった。
奈緒は、こうして放課後の火曜、木曜、土曜の三日間、七時まで付き添いをしてくれた。
シングルマザーで育った奈緒は、母親の家計を助けたかったと言った。
彼女の母親は、二つのパートを掛け持ちで、生計を立てていた。食費のやりくりは奈緒の役目で、毎日の食事も彼女が作っていた。
付き添いの日の火曜、木曜、土曜には、放課後すぐに帰宅し、大急ぎで夕食をこしらえてから、バスに乗って病院へ向かった。
母親は、奈緒の手料理をかきこんで、二つめのパートへ出かけていった。
薬の所為で、時折り、吐くことがあった。
その吐瀉物を、奈緒は顔色を変えずに処理してくれた。
夕刻の七時に吐いた時があって、奈緒はその処理に追われて、帰るのが遅くなった。
「奈緒、ごめんな。帰るのが遅くなったな」
「お兄ちゃん、気にしないで。どうせバスの時間を待っているだけだから」
「バスの時間がないのか? いつも何時のバスに乗ってるんだ」
「七時五十三分のバス。それまでいつも病院のロビーで時間を潰していた」
「一時間もボーっとしているのか?」
「ボーっとしてないわ。宿題とか勉強をしてる」
その会話のあと、携帯で父に事情を話して、タクシーチケットの手配を頼んだ。父は快諾して、翌日には仕事中にも拘わらず、病院まで持って来てくれた。いくら仕事が多忙とは云え、病気と格闘している息子に後ろめたさがあるのは明らかだった。
「お父さんは、あまり見舞いに来られないけど、欲しいものがあったら、何でも云いなさい」
まるで自分の行為を弁解するように云った。
奈緒は、そのチケットを病院からの帰りだけに使っていた。
「家から来るときも使えばいいだろ」
「ご近所の目があるの。あの家は貧乏なのに、いつもタクシーに乗っていると噂が立つわ。帰りもいつも家の手前で降ろしてもらうの」
世の中には、こういう気苦労もあるのだ、という新鮮な驚きだった。
奈緒は、洗濯もしてくれた。
当初は、病院のコインランドリーを使っていたが、順番を待たされる時があったので、土曜に持って帰って日曜に洗濯して、火曜日に持って来てくれた。
遙香が、用事で病室に入って来たとき、
「今日は妹さんが来てくれたのね。いつも仲がいいわね」
と羨ましそうな言い方をした。
彼女も兄妹と勘違いしている一人だった。あえてそれは否定していなかった。恋の相手に変な勘繰りをされたくなかったからだ。
こうした遙香とのすこしの会話が、無機質な病室に潤いを与えていた。彼女との会話の、そのひと言ひと言が天から降臨してくる天使の言葉であり、甘い囁きだった。たったひと言、ひとつの言葉を交わすだけで、その日は気分がよかった。その思い出に浸るだけで、終日、幸福を感じる事が出来たからだ。
その思い出には、彼女の香りも含まれていた。
香水や化粧品ではなく、シャンプーや石鹸の香りだった。彼女には、きつい香水は似合わなかった。金木犀や沈丁花などの、神の手による自然の産物である必要があった。
奈緒は、すぐにこの恋情に気がついた。
「お兄ちゃん、遙香さんが好きなんでしょ」
いたずらそうな目で、心の奥を指摘して来た。
「好きになるはずがない。六つも歳上だぞ」
そう否定してみたものの、やがて奈緒に彼女への恋慕を吐露するようになった。
隔離された変化のない病室に、遙香の幻影を投影するとき、遠い目でそれを愉しんでいた。
奈緒は、「遙香さんの事を考えているの?」と鋭く洞察されていた。
「あの人には彼氏がいるのかなぁ。あれだけ美人だからきっといるだろうな」
「いるかもしれないね。でも美人は近寄りがたいって言うわよ」
妙な慰めをされる事もあった。
無機質な病室の清潔な天井を見つめるしか出来なかった。
そこには遙香の幻影があった。