第六章
第六章
落ち着いたころ、県都から父の車で地元の病院に移った。
そのころには、すでに頭は自らの意思で丸刈りにしていた。故郷に近くなると、「海がみたい」と浜辺近くを走ってくれるように父に無理を言った。死を間近にしている裕太の願いを、父は断る事は出来ず、躊躇いもなく、「すこしのあいだなら」と海が眺望できる浜まで車を近づけてくれた。
松林に垣間見える五月晴れの海は、きらきらと輝いていた。白い砂浜には人寰の影すら落ちていなかった。世界から剝離されたかのような孤独が、海の蒼と空の光とを同質に感じさせた。茫漠とした海を前に、裕太は身を投じてみたかった。しかし、それは自殺ではなかった。たとえば、自分自身が海になるような、溶け込むような、一体感だった。
海は常に裕太の身近にあった。
そこに海がある、というだけで充分だった。海が特別なのではなく、ただの日常だった。どんなに静かでも、荒れようとも、海は海としてあった。海のない街に暮らす人たちに憐憫の情を禁じ得なかった。その感情は、海を見ると、石を投じてみたくなるのと似ていた。
感傷的になっていたのでなく、これが見納めの海となる惧れがあったからだった。
その事を母に言うと、「縁起でもない」と一蹴された。
「むかしは不治の病だったけど、裕太の白血病は、八割は治るそうだ」
父は、ネットで検索して調べた、とも付け足した。
病院はリゾートホテルようだった。屋根と軒先に、オレンジのフレンチ瓦が葺かれ、それが漆喰風の白壁にも、松林の青にも映えていた。
しばらくのあいだ、母は看病に来ていたが、地域の交流に忙しくて間遠になった。経営者の父は、入院のときに手続きをしただけだった。
独りの時間は永遠に続くのではないかと思われた。
時間の長さが、嫌と言うほど、のし掛かって来た。たびたび時計を見るのだが、壊れて針が止まっているのではないかと思うほどだった。一秒ごとにじわじわと鈍い痛みが、肉体よりも精神を蝕んでいた。救急患者が痛みゆえに「殺してくれ」と願うように、ナイフで一気に心臓を刺してくれと頼みたかった。時間がゆるやかに首を絞めるさまは、恐怖もなにも感じず、命を削りながら重苦しい精神だけを育てていた。
有り余った時間は、つい死に対する恐怖へと変貌していた。豚のようにまるまると肥えた鬱屈した精神がついに死へと突き落としていた。八割の患者が死から生還するという事は、二割は確実に死ぬという事だった。その二割に自分が含まれるという死、自分という存在がこの世から消滅してしまう恐怖に囚われ始めていた。
死を達観するにはあまりにも若すぎた。達観するには、人生経験も年齢も少なすぎた。少なくとも恋を知らずして死ぬ事はあまりにも寂し過ぎた。
人生そのものも、まだ知らなかったのだ。
その膨大な時間に、救われるような瞬間が二つあった。
ひとつは、食事の時間だった。だがこれもその味ゆえに三日もすると飽きてきた。
もうひとつは、看護師たちの検針だった。
その時間が、瞬間としか思えないほど短かった。雲の切れ間から垣間見せる光の瞬間だった。そこで看護師たちがちらっとほほ笑んでくれると、みんなが天使のように優しく感じた。恋愛経験も人生経験も浅い若者が、恋に墜ちるのは簡単だった。
看護師の中に、陰りというものをまったく感じさせない、涼しげな顔立ちの女性がいた。彫りが浅くて、大きな瞳が印象的だった。
「体温計を?」
細く高く、涼しい声だった。体温計を渡すとき、その女性と目が合った。その目をまともに見られなかった。彼女は体温計を受け取るとき、少しほほ笑んだ。その笑い方が清潔だと思った。この女性こそ天使の中の天使だと感じた。仮に、天使に位階があるなら、この女性は頂点にいるべき人だった。
もし、この女性と恋を体験できるとしたらどうだろう。恋に墜ちてみたかった。
その天使の胸の名札には、「加来遥香」とあった。
遙香が巡回に来ると、胸の高鳴るのを感じた。
血液が一気に流れ込む生理的反応が、胸の高鳴りとして現れるのだろうか。感情とは生理現象の結果に過ぎないのかもしれない。だが、その理屈を知っていても、この胸の昂りが虚構であるとはどうしても思えなかった。この昂進が自分の正直な気持ちなら、これが恋といっても差し支えないのではないか。
孤独を持て余しているとき、看護師が検針にやって来ると、それだけで嬉しかった。それが今、遙香でなければ、その日、一日が無駄な日になった。長い時間ずっと待っていたのは何のためだったのかと落胆した。
母が塾講師と一緒に見舞いにやって来た。
学業の遅れを取り戻すためという、病院側の特別な計らいだった。県内でも有数の進学校に通っていたことが功を奏したのかもしれない。
母は数冊の教科書を持参し、講師は数冊の参考書を携えていた。
「なにか、ほかに欲しいものはある?」
「まだ分からない」
「じゃあ、思いついたらまた言って。お母さん、ちょっと用事があるからこれで行くね。では、先生、どうぞよろしくお願いします」
「病院とは三十分だけの約束なんだ。今日は初日だから勉強の段取りだけを決めようか」
かつては、どんな問題でも最速で解いて、誰よりも前を走る事を目指していた。今は薬の副作用で目の前の一行を読む事すら耐えがたかった。トップを取ろうとしていたあの頃の自分が、病魔との戦いで、遠い過去、腐敗した記憶に成り下がっていた。
勉強道具を差し出されたとき、それが「生徒」としての自分に向けられたものか、それとも「哀れな病人」への慰めなのか、つい勘ぐろうとする自分がいた。
勉強の再開は肉体を生に引き戻したが、精神の一部はまだ、死の観念を抱きしめていた。
人生を諦めるのか、病魔と闘って勉強を再開するのか、まだ決めかねていた。病魔と闘いながら、数理の計算や暗記の苦しさと立ち向かうつもりなのか、その覚悟はあるのかと自問していた。
「段取りの前に、ひとつだけ言っておく。生きるつもりなら、まずはできることから勉強しろ。そうでなければ、勉強なんて無意味だ。どっちを選択するかは君だ」
遙香との恋を成就するためには、まず生きる必要があった。死ぬような恋をしたいと切望しながら、恋をするために生きようとするのは矛盾ではないかと疑った。
「僕が……」
講師は深いため息のあと、続けて言った。
「僕がこれから生きて行くにしても、ノーベル賞を取る科学者や、プロ野球選手にはなれない。いくら努力してもそれは無理だ。可能性と言うなら、君はまだノーベル賞を取る事はあるかもしれない。プロ野球選手は無理だけどね。僕は自分より若い人間が死ぬと、しながい塾講師がこのまま生きていていいのかと罪悪感に苛まれるんだ」
彼は教科書を手に取って、パラパラとめくっていた。
「君への家庭教師を引き受けたのは、そういう理由だけではないけどね。子供も新しく産まれて稼ぐ必要があった。この家庭教師の仕事はいい収入になるんだ。それに午前中だけというのがメリットなんだ。塾の仕事はどうしても夜がメインの仕事だからね」
この正直さが、この講師に好意を抱く理由のひとつだった。小さな街の個人塾では、生徒の募集には限界があり、経済的に裕福でないのは、どこか感じていた。それでも彼の人柄と教え方のうまさ、やる気を引き出す力が評判を呼んでいた。
順位が下位の同級生が、この講師に感化されて、有力な進学校に合格できた。この噂は、小さな街の受験生のあいだで、たちまち広がっていた。あの自殺した男子高校生の噂のように……。
講師は、めくっていた教科書を閉じて、手渡してくれた。
「やってみるかい? いま決めなくていい。次に来るまで考えてみたらどうだ」
その教科書を受け取ると、まるで昔の自分に会うような気持ちで、一頁ずつゆっくりと目を通した。勉強した箇所に触れるたび、あの頃の机の冷たさや、夜の静けさが、ふいに胸に戻ってきた。
両親には決してあり得ない尊敬を、この講師に抱いていた。
次の学習の時間を待つことなく、
「勉強してみる」
と承諾した。
「それなら復習からやってみようか」
こうして月曜、水曜、金曜の週三回の学習時間が組まれていった。