第五章
第五章
塾の講師は、裕太が書いた簡単な感想文を添削してくれた。
「なにを感じたか、を考えることは大事だよ。それをもとに、この小説のテーマはなにかを掘り下げてみると、さらに理解が深まる」
講師は志賀直哉に限らず、芥川龍之介など、次々と短編集を紹介してくれた。
小説を読むだけでなく、それについて思索することは、裕太の内面に新たな感覚を芽吹かせていた。語彙が自然と増え、言葉がゆっくりと自分のものになっていく感覚があった。それは、これまでただ呼吸するように過ぎていた日々に、はじめて意味を求めようとする試みだった。
国語の教科書に芥川龍之介の「鼻」が掲載されていた。
裕太は、それを題材に感想文を書き、塾の講師に提出した。
「長い鼻を笑われていたのに、短くなって禅智内供はもう笑われないと思ったのに、今度は、鼻を気にしてたこと自体を笑われるようになった、って感じました」
「そうだね。その解釈は作品の心理描写に即している」
「でも、あんまり実感が湧かないです。そんなに笑うほどのことなのかな、って」
「この変化が示しているのはね、人の視線というものが一貫していない、ということなんだ。腹を抱えて笑うというより、ひそひそと、陰で笑う。そういう種類の笑いだよ」
「人の視線が一貫してないって、同じじゃないってこと?」
「周囲の嘲笑は、必ずしも本人の苦しみと一致しない。つまりこれは、人間の心理の微妙なねじれを描いている部分なんだ。禅智内供の鼻が長かったときは『笑いの対象』だった。でも、短くなると、今度は『鼻を気にしていたこと』が笑われる対象になる」
講師は少し間を置いてから、ゆっくりと続けた。
「つまりね、人間は相手の変化に対して、その都度ちがう理由でからかう。そういう冷淡な社会の仕組みが、この作品には描かれている」
「笑う材料をいつも探してる、ってことですか?」
「そう。いわば『傍観者の利己主義』だ。人は、他人の不幸には一見、同情するように見えて、その不幸が解消された瞬間、どこか物足りなさを感じてしまう。そして、無意識のうちに、またその人を不幸に引き戻そうとする。そんな心理が働く」
「傍観者の利己主義? う~ん、なんか難しい。どういう意味ですか」
「簡単に言えば、自分が直接関係のない他人の出来事を、都合よく解釈し、利用してしまう。そういう心の動きのことだよ」
講師は、裕太の目をじっと見た。
「裕太くんは、誰かの見た目や欠点をからかったこと、あるかな?」
「あると思います」
「たとえばその人が太っていたとして、それをからかう。でも今度はその人が痩せたら、今度は『気にしてたんだ』と、また別の理由でからかう」
裕太は、その言葉を完全には理解できなかった。だが、胸の奥に、なにか引っかかるものがあった。
あのとき、教室でひとりの女の子が、みんなにからかわれていた。誰も止めなかった。自分も、その場にいて、笑っていた。
「傍観者たちっていうのは、相手の変化に応じて、自分たちの楽しみ方もすり替えていく。禅智内供の鼻が長かろうが短かろうが、どちらでも笑える対象として見る。ただ、それだけなんだ。彼らは相手の苦しみに目を向けず、自分たちの視点だけで世界を消費してる。これが、傍観者の利己主義だ」
「たとえば、ブスって言われてた女の子が整形して美人になったとき、周囲の男たちは、今さら相手にされないって分かると、今度はその子のことを悪く言ったりする。こういうのが、そうなんですか?」
「うん、その構造は『鼻』における傍観者の心理と、とてもよく似ている」
「ブスのときも笑ってたけど、美人になったら『気にしてたんだ』って、今度はそこを笑う。そんな感じ?」
「その通り。それがまさに『鼻』で描かれている構造だ。人は、ブスでも美人でも、笑える。禅智内供の鼻も同じ。長くても短くても、笑えるようにできてしまってるんだ」
結局、人の視線というものは、相手の心とは無関係に、そのときの都合で「笑いの材料」をすり替えていくのだった。
それは、変化を喜ぶ感情ではなかった。むしろ、「相手の苦しみが消えること」に対する、妙な不快感。
人間関係は、誰かが「不幸なままでいること」で、かろうじて均衡を保っていた。だが、その不幸が取り払われると、その瞬間にバランスは崩れ、妬みという名の影が人々の心に忍び寄る。
やがて、こう聞こえてくるのだった。
「調子に乗ってる」
禅智内供も、整形した少女も、「変わらなければ笑いの中で守られていた」。けれど変化してしまったがゆえに、新たな攻撃の対象となったのだった。
「君は、気づいたかい。長い鼻を笑っていた人々が、なぜ鼻が短くなった後も笑っていたか」
「変わったことが、滑稽だったから?」
「ちがう。彼らは、“変わってしまった”ことに、怒っていたんだ」
「怒っていた……?」
「そう。彼は“長い鼻”という、彼らにとって都合のいい“異形”を持っていた。だからこそ笑えた。自分より劣った存在がいるということで、安堵できた。だがそれが、彼らと同じ顔になった瞬間、突然、彼は“同等”になってしまった」
「それが許せなかった……?」
講師は机に肘をつき、やや疲れたような微笑を浮かべた。
「人間はね、マイノリティ(少数派)を笑うことで、自分が“数の側”にいることを確認するんだ。あの笑いは、ただの娯楽じゃない。多数派による、自身の幸福の再確認だよ」
裕太は、息をのんだ。
「君がこれから生きていく社会では、そうした構造がいくらでも転がっている。誰かの失敗を“ネタ”にし、誰かの苦しみを“笑い”に変え、そうすることで“私はまだ大丈夫”と安心する。笑う者たちが加害者ではないという仮面をかぶりながら、彼らは実に器用に、誰かを抑えつけていくんだ」
「……そんなの、ひどい」
「でも、それが社会ってやつだ。だからこそ、君が文学を書くなら、真っ先に、その欺瞞を見抜く目を持たなくてはいけない」
塾の講師との出会いは、裕太にとって、今までの生活すべてに意味、命を与える物だった。一つひとつの物に、こうした意味を与える事は、裕太にとって新鮮な驚きだった。まさに世界が変わるような出来事だった。
社会が欺瞞に満ちていると感じられずにいられなかった。
この世の目に見える社会は欺瞞で、その裏に本当の世界があるようだった。人間は不幸だけを喜ぶように作られていて、他人の幸福などに興味はなかった。他人の幸福に触れると、浮かぶのは羨望か嫉妬ばかりだった。
幸福になった人間も他人に対して優越感しか持っていなかった。
人は幸福を比べてしまう。他人が不幸なら安心し、逆に幸せそうだと妬む。だから、本心を隠して祝福するふりをする。
人間の本質は、砂糖をたっぷり含んだ生クリームで覆い隠されていた。本質を暴くと世の中がうまく機能しなかったからだ。隣近所、社会のコミュニケーションを滑らかにしょうとすれば、偽善という仮面を被る必要があった。たとえ相手が気に入らないとしても、だ。
裕太は、他人と接するたびに、その人間の欺瞞を探るようになった。しぜんと口数はすくなっていた。家族や周囲は、それを思春期だから、と片付けていた。裕太は自分こそが正しい目を持っていると感じていた。
二年生に進級し、裕太の顔にもうっすらと髭のようなものが生えてきた。その髭が濃くなるころ、高校へ進学した。
中学を首席で貫いた裕太は、県都の進学校へ賄付きの下宿から通うようになった。その下宿は、顔の広い父の知り合いの紹介だった。
その高校は、県内各地から裕太のような生徒が少なからず在籍した。彼らは皆な学校の近くに下宿していた。その高校には寮というものがなかったからだ。
おびただしい数の秀才が、その高校には通っていた。全員と言っていいくらいだった。この中にあって、裕太自身も秀才の波に浚われ海に溺れるようだった。
裕太は、下宿の二階の窓から、見えるはずのない産まれ在所の海を遠くに見る事が間々あった。こうしたとき、裕太は郷愁にとらわれている自分がいると感じていた。
父や母に募るほどの想いは感じていなかった。
かといって、嫌いではなかった。それは家族であるがゆえに、許される感情だと思っていた。裕太自身は、彼らを理解できるような歳になったと気がついた。生理的な嫌悪感がなくなったという事でもあった。
高校の初めての考査で、裕太は上位を獲得した。
その順位は裕太の勉強に火をつけた。努力してどこまで順位を上げる事が出来るか、それがひそかな愉しみになっていた。
裕太は、クラスメイトと気軽に話すタイプではなかった。性格的に軽佻浮薄な人間が好きではなく、沈思黙考で塗り固めた堅固な壁を作っていた。クラスメイトと話す必要に迫られたとき、あの塾の講師の姿が思い出された。彼ならどういう口調、説明をするだろうかと考えた。しぜん彼らとも口数は少なかった。
ある雨の日、教室のガラスに霜が降りたように細かい水滴がついていた。
入って来た生徒たちが、そこに指で落書きをした。
女子生徒は、相合傘を描いて、気になる男性のイニシャルを入れて「これ、だれなの?」と盛り上がっていた。
担任が教室に入って来て、窓ガラスを見るなり、「しょうもない落書きをするんじゃない」と生徒たちを叱った。担任はつかつかと歩いて、まだ落書きされてない窓ガラスに、「Boys & girls, be ambitious.」と書いた。
担任は、英語の教師でもなく、決して堪能な人ではなかった。その行動が裕太には粋に見えた。
お洒落に縁がなかったわけでなかった。
ダメージのジーンズにパーカーという格好で、裕太はよく郷愁に浸っては、「人を恋ふる歌」を、口ずさむでいた。それは誰かに届けるような祈りの歌だった。
小首を傾げて口の端を歪める癖は、いつのまにか自分の中に染み込んでいた。ただ、ふと胸の奥に、誰かの気配が宿っているように思えた。
本来の自分が冷静に見ている中で、気取っている自分がいるのは確かだった。
図書館に行くこともあったが、利用方法の違いから、足遠くなっていた。都会の洗練された図書館のシステムに馴染めなかった。
図書館で借りた「罪と罰」がいけなかった。
何度か挑戦してみたものの、最初の長い手紙の部分で、つまずいていた。物語にどうしても入り込めなかった。読んでいても、ほかの事を考えている自分に気づいた。結局、その本を図書館に返して、それ以来、縁が切れてしまった。
急激な環境の変化がわざわいしたのか、裕太は熱を出した。
ただの風邪だと思って、市販の薬だけで治癒させようと考えたのが悪化させたらしく、何日も寝込むことになった。母親が駆けつけて来て、とりあえず病院に連れて行かれ、そのまま入院することになった。
母に告げられた医師の診断は、急性リンパ性白血病(ALL)だった。