第四章
第四章
裕太が勉強に打ち込む日々の影で、両親の生活もまた、それぞれの世界で静かに進んでいた。
父親は、海産物問屋を代々受け継ぎながら、漁業関係者とのつながりを活かして魚介レストランも経営していた。
目立った利益はなかったものの、堅実な商いだった。
しかし彼の関心はそこに留まらず、海産物のネット販売で得たノウハウをもとに、IT関連企業の立ち上げに夢中になっていた。
その営業方法を異業種の企業にまで売り込もうと試みていたのである。だがそれは多額の初期投資が必要だった。プログラマーまで雇ってプラットホームを構築しょうとしていたからだった。
彼の興味はもっぱら企業の経営に向けられていた。
母親は、福祉団体などの理事をしていて、その会合や活動に忙しくしていた。その所為で帰宅が遅くなることがあったが、高齢の家政婦がその日は夕食を作ってくれていた。家政婦は、掃除や洗濯などの家事もこなしてくれていた。
彼女は、夫が他界して遺族年金で暮らしていたが、それだけでは生活が出来なかったので、裕太の家に家政婦として来るようになった。
裕太が学校から帰って来ると、まず彼女に挨拶をした。でないと彼女が帰られなかったからだ。すれ違いの関係だったので、彼女とは親しく話す事もなかった。
秋が過ぎて、冬が来た。
寒そうな病葉が、北風に煽られて、冷たい道端にへばり付いていた。
期末考査でも、裕太はトップが取れなかった。しかも順位もひとつ落として学年四番だった。その成績表を目にしたとき、胃の底からぐつぐつと熱いものがせり上がって来た。胸糞が悪いとはこの事かと裕太は知り、「本当は、自分はバカではないか」と自虐的になった。
学年四番とはいえ、生徒数六十人、わずか二クラスの中学では、その成績に誇るほどの価値はなかった。裕太としては、都会の何百人の中学でも一番の成績が取れる実力でなければならなかった。
こんな田舎で足止めを喰らう訳にはいかなかった。
裕太の目標は、全科目100点満点を取る事にした。100点を取れば、必然的にトップになった。同点でトップが複数になる事はあったが、二番になることはなかった。裕太は、「数字で証明するしかない」と思った。
冬休みになって、裕太は毎日、図書館に入り浸ることにした。
あさ、遅めに起きた裕太は、父親が出勤するのに鉢合わせした。いつもは裕太のほうが家を出るのが早かったので、父親とあさ、顔を合わせる事は滅多になかった。
彼は、靴を履きながら、
「最近、頑張っているじゃないか」
と褒めてくれた。
裕太は、「うん」とだけ返事をした。
父親は、靴を履くと、鞄を持って足早に家を出た。
キッチンに来て、母親が挨拶をした。裕太は「おはよ」と面倒くさそうに返した。挨拶を返さなくても良かったのだが、それをしないでいると面倒な事になりそうだったので、気のない挨拶を返した。裕太は、自分が気むつかしい年ごろだと知っていたし、両親の前ではそれを演じていたようなところがあった。
「今日はどこか行く?」
裕太は、なにげなく母親に聞いた。
「今日は、予定はないわ。ずっと家にいるつもりよ」
「弁当つくってくれ」
「図書館にでもいくの?」
裕太が「うん」と返事をすると、弁当を面倒くさがった母親は、裕太に昼食代を渡してくれた。
海から五分のところに裕太の家はあった。二隻の漁船が係留されている小さな漁港に行くまでに空き家が五軒あった。幼いころは、もっと漁船があったような気がしたが、よく覚えていない。
どっちにしろ過疎の漁村だった。
その中で、裕太の家はひと際大きく、敷地も広かった。
自宅の近所には何もなかったが、中学校のまわりには生活に困らない程の商店があった。
図書館は、中学校からほど遠くない場所、五階建ての市役所の隣に続いて建っていた。その近くの交差点にはコンビニがあり、昼食を買うのに不便はなかった。
地図だと、市役所の隣にコンビニがあったが、いつも数台の車しか停まってない、閑散とした無駄に広い駐車場を横切った。さらに裏口から警察署の、また同じような駐車場を通り抜けて行かなければならなかった。
図書館には、私服姿の、あの男子高校生の姿もあった。
裕太が時間前に図書館に行くと、彼は玄関の植木の煉瓦塀に片足をあげて、静かに開館を待っていた。
彼は、ジーンズにインディアンブルーの毛糸のトックリで、蒼鷺色のダッフルコートをだらしなく前ひらきにして着こなしていた。肩からは、使い古された灰色の帆布のショルダーバッグを下げていた。そのバッグが彼の気怠げな空気を際立たせていた。そこだけが、実生活とはかけ離れた青春小説のようだった。
開館すると、彼は受付カウンターにむかった。
裕太も返却の本があったので、入館してから彼と同じところを歩く事になった。
彼は、受付カウンターで、返却の本を出した。女性スタッフがそれを受け取り、手続きを行った。そのあいだ裕太も、返却の本をリュックから取り出した。女性スタッフが手続きを終えて、彼が借りた本を横に置いた。裕太は、その女性の動きに釣られて、置かれた本のタイトルが目に入った。
その本はドストエフスキーの「罪と罰」だった。
裕太は、その題名は知っていたが、読んだことはなかった。
駐車場をあるいてコンビニに行く途中の事だった。
並木の木陰で、男子生徒と女子生徒の姿が見えた。女子生徒は、あの松林にいた女性だった。彼らは言い争いをしているように見えた。とつぜん女生徒が踵を返して走り出した。裕太には彼女が泣いているように見えた。男子生徒は、冷たい目で彼女の姿を見ただけで、ショルダーからタバコを取り出して火を点け、空にむかって煙を吐いた。
事件とは唐突にやって来るものだ。
この街で、男子高校生が自殺した、という噂が流れた。だがPTA会長の母の情報では、受験苦が理由の確かな事件だった。
母の説明によると、冬の海にボートで漕ぎだして身投げしたらしかった。
図書館で勉強をしていると、近くにすわった男子高校生たちが、その自殺の話題でひそひそと盛り上がっていた。そこから推察すると、自殺したのは、あの男子高校生で、受験苦ではなく、恋愛による自殺だという事だった。
その話はこうだった。
その男子高校生は、女子生徒との交際が彼女の親の知るところとなって、猛反対されて唯一の連絡手段であった携帯も没収されたらしい。彼女の親の反対理由が、彼がある集落の人間だった事らしく、それを悲観して自殺したという事だった。
裕太は、彼らのひそひそ話を聞いて、「恋とは死ぬ事と見つけたり」という男子高校生の言葉が蘇った。女子生徒が「バカね」と言った事で、ただの冗談だと思っていたが、彼は本気だったのだと衝撃を受けた。
「すごい」
ただそれだけが裕太の心を揺り動かした。
まだ大人になり切れてない裕太は、自分の気持ちを説明するには充分な語彙を持ち合わせていなかった。ただ「すごい」としか感じられなかった。それは一種の感激、憧憬であり、彼に対する哀悼の感は微塵もなかった。彼は自分の信念を忠実に実行したのだ。信念の忠実なしもべとなったのだった。その行き様が「すごい」という表現になった。
裕太は、恋愛というものに憧れがあったが、どこか遠いものとして捉えていた。しかし、目の前でその「信念」に殉じた人が現れたことで、恋の意味が窯変した。単なる甘さだけではなく、激しさ、侠気、情熱を目の当たりにした。そして、その選択を「哀れ」ではなく、「すごい」としか捉えられなかったことが、この事件を消化できないでいた。
驚きと衝撃の間に、一瞬の「理解しきれないものへの敬意」が生まれた。裕太の中で、まだ言語化できない「すごい」が、憧れと感激を伴って芽生えた。
年が替わって正月が過ぎ、裕太は図書館で予習をしたお陰で、授業に余裕が出来ていた。三学期で唯一の期末テストで、数学95点、英語100点などの高得点を取り、初めてトップになった。心残りは、国語の82点だった。国語の勉強方法が裕太には見つけられなかったのだった。
塾の講師に相談したところ、
「本を読んだらどうだ? ただ読むのではなく、簡単でもいいから感想を書くんだ。それで読解力が養われる」
と提案された。
裕太は、即座に、
「ドストエフスキーの『罪と罰』が読みたい」
と講師に言った。
「それはまだ無理だ。短編小説にしたほうがいい」
講師は、志賀直哉の短編集を勧めてくれた。