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第三章

 第三章


 裕太の未来は、燦々と輝いているはずだった。

 この輝く未来には、他の誰でもなく、裕太という自分にふさわしい相手が必要だった。それで自分の人生が構築されると思った。

 まだ見ぬ誰かが、自分を待っている気がしてならなかった。


 裕太は勉強が苦手ではなかった。

 どちらかと言えば、得意なほうで、教師の言っている事はすべて理解出来ていた。しかし、次第にそれだけでは収まらなくなっていった。

 ふさわしい相手、つまり相手から見て、裕太自身もふさわしくなる必要があった。裕太は、洋楽を聴きながら、一心に勉強をした。解けない問題に出会うと、胸の奥がざわついた。悔しさと、焦りがないまぜになって、どうしても納得できなかった。理解できないところがあると、それが裕太のプライドを傷つけた。

 小学生のころは、理解できないところがあっても、なすがままに過ごしていた。欲がないと言えなくもなかったが、やれば出来るという変な安心感もあった。それでいてテストの点も通知表も悪くなかったから、あまり気にしていなかった。


 クラスで、いや学年で一番になりたいと、裕太は本気で思い始めていた。

 それまで何気なく通っていた塾も、いつしか「智の戦場」のように感じられるようになっていた。

 解けない問題にぶつかるたび、裕太は講師に質問した。なぜか、その講師には素直に尋ねることができた。

 理屈を押しつけることも、答えを急かすこともせず、いつも静かに裕太の疑問の輪郭を拾い上げてくれた。

 なにより彼は、裕太の質問に面倒がらず丁寧に答えてくれた。それは裕太に限らず、他の塾生に対しても同じだった。

「考えるってことは、痛みと同じなんだ。けど、それは悪い痛みじゃないよ」

 そんなふうに言われた日から、裕太はその「痛み」を恐れなくなっていった。

 むしろ、質問することが楽しくなってきたのだ。質問したいことをノートに書き留め、講師に尋ねることが日課のようになっていた。

 そして彼は、そのひとつひとつに、言葉を選びながら丁寧に応えてくれた。

「人間は、考える葦どころか、ただの悩める草だ。陽に灼かれ、風に弄ばれ、文句ばかり言って枯れるんだ。しおしおに、な」

 講師は、裕太の質問に答えるだけでなく、大げさな身振りで、人生訓も語ってくれた。

「陽に灼かれ、風に弄ばれ、文句ばかり言って枯れる。それが人生だ」

 諦めのようなムードで、講師は楽しそうに言った。

「今こうして講師でいる僕は、今までの人生でやって来たことの『結晶』だよ。ま、悪い意味でね。文句言っても、人生の帳簿にはマイナスしか残らない。不満があるなら、勉強でもして飛び出しゃいい。簡単じゃないけどね」

 講師の語気はどこか演劇めいていて、裕太は思わず笑ってしまった。けれど、ふとした拍子に、彼のその言葉が脳裏に浮かぶことが、これから何度もあるとは、このとき思いもしなかった。

 裕太はふと、講師に質問してみたくなった。

「先生、愛とはその本質は何だと思いますか?」

「愛というのは、苦しみを甘く包んだ毒だ。だが中毒性がある。失恋して、もう二度と恋はしないと思っても、その甘さゆえに、また人を好きになる」

「火傷すると分かっていても、また愛に近づこうとするのですね」

 裕太は、気づけば講師の口調や哲学的な言い回しを自然と身につけていた。それは真似をしているというより、自分を説明するのに「都合がよかった」からだった。


 学校では絶対に質問はしなかった。

 その質問をして、裕太が他人から「そんな事も分からないのか」と思われるのが嫌だったからだ。

 学校の成績はみるみるうちに上がっていった。

 中間考査で、学年で三番の成績を取ると、裕太の意欲はますます湧いて来た。

「もっと勉強すれば本当に一番になれるのではないか」

 裕太の目標が現実味をおびてきて、それから必死で勉強した。

 帰宅して家事手伝いの女性に挨拶すると、ひと息つく間もなく、2階の自室に上がり、宿題を始めた。まず宿題を片づけて、夕食後の勉強に集中するための時間を確保しょうとした。夕食までの余った時間は、大てい犬の凜をつれて浜辺を散歩した。

 母は仕事を持っていなかったが、たくさんの団体の理事などをしていたので、留守がちだった。裕太が中学生になると、PTAの会長も依頼されていた。

 しぜん凜の世話は、裕太の役目だった。

 誰も居ない秋の浜辺を、凛と歩きながら英語の歌を歌った。歌詞を忘れたら、メモを見て歌いながら暗記した。それだけだと時間がもったいないと感じたので、英単語を覚えていった。中学で習わない単語が殆どで、テストに関係ないものの、先で役立つと思って覚える事にした。

 そのメモには、単語の意味が空きスペースに所狭しと書き込まれていた。浜辺のほどよい石の上に腰かけて、凜を相手に歌を歌った。凜は、裕太の口から出る言葉を理解しょうとして、さかんに首をひねった。裕太は、凛のその仕草が好きだった。彼が悩んでいるように見えたからだった。

 座っていると海風が肌寒かった。いよいよ本格的な秋になろうとしていた。

 夕食は、一般家庭よりも遅いほうだった。

 両親とも帰宅は早いほうではなかったので、夕食は遅くなっていた。裕太も塾のある日は、帰宅が遅くなっていた。

 裕太は、時間が出来ると、「時間がもったいない」と思って、机にかじりついた。勉強したいというのではなく、勉強しなければならないと自分に言い聞かせていた。

 勉強すれば、脳が異常に発達して、自分を救ってくれると信じていた。勉強は苦しい事に違いはなかったが、問題を解くたびに、英単語や歴史年表を覚えるたびに、その苦しみが報われたような気がした。この苦しみが無駄ではないと知ると、苦しみさえも友達のように思えた。

 苦しみを噛み締めるほど、それは胃液のように彼の内に溶けていき、血となり、肉となって、やがて栄養になっていった。

 これだけ苦しんでいるのだから成績は上がるはずだった。逆説的に言えば、成績を上げるためには、苦しまなければならなかった。

 裕太は、修行僧のように勉強した。その苦しみは、アスリートが勝利を目指して筋トレに励む姿に似ていた。それは苦しむ事で、法悦の域へと誘うものだった。


 いつものように宿題を終えて、凛と散歩していたとき、海岸から中に入った道路わきの畑に赤い花叢を見つけた。

 花というものに興味を持った事はなかったが、真っ赤な鮮やかさに惹かれて、裕太の足がその畑に吸い寄せられた。

 畑の畔に、おびただしい数の真っ赤な花が燃えていた。咲いているというより、まるで燃えているという表現が正確だった。

 土の匂いと草いきれが湿り気をおびて、細い花びらが風の吹くたびにゆれた。裕太は、そこにあるはずのない炎を想い、恋とはこうあるべきなのだと思った。

 その花の名前は知らなかったが、直感で季節的に彼岸花だと思った。裕太は、携帯で花の写真を撮った。

 帰宅して、写真がインターネットにヒットしたのは、やはり畑で見た彼岸花だった。また、曼殊沙華は仏教で「地獄に咲く天界の花」という意味で、字面、語韻が裕太を惹きつけた。さらに花言葉は、「想うはあなたひとり」だった。

 驚くことに、この花には毒があった。畑の畦道に植えられたのは、飢饉で死に瀕した時、この球根を毒抜きして食べた。害獣からの防御にもなっていた。

 まさしくこの花は、裕太のためにある花だと思った。裕太は、この花を自分の好きな花にしょうと決めた。

 もし、「好きな花は?」と聞かれたら、裕太は「曼殊沙華」と答えようと考えた。


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