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第二章

 第二章


 お盆の最後の日、母親は玄関先に陶器製の小さな火鉢を据え、海岸で拾った松の木切れを小さな鋸でひいて大きさを揃えた。それらを井桁に組んで、まるで祭壇のように、母親らしい几帳面さで美しく積んだ。母親はその中に赤く枯れた松の葉を敷き詰め、裕太が火を点けた。

 普段は火遊びをすると怒られるのに、母親公認で火を点けられる事に裕太の心は小さくはしゃいだ。

「なぜ玄関前で燃やすの?」

 裕太が質問すると、母親は答えた。

「送り火と言ってね。お盆で家に戻って来たご先祖様をお見送りするために燃やすの。ご先祖様が道に迷わないように、ってね」

「どこでもやってる?」

「送り火はやらない家が増えたわ。住宅問題とかもあるかもしれない。煙を出すとご迷惑でしょ。でも京都の大文字の送り火とか有名でしょ。『燃えて身を焼く大文字』って、聞いたことない?」

 京都という場所に、裕太は一度も行った事はなかった。ただそこが日本人にとって特別な場所だという思いがあった。社会の教科書にその都市がよく登場するからだった。東京や大阪、名古屋にない思いが京都にはあるのだという意識が植え付けられていた。

 その京都の「大文字」という風習が、裕太の目に浮かんできた。夜の闇に「大」という文字が燃え上がるようすは、この街にない京都だけの特別なものとして映った。

 裕太の家は、代々海産物問屋を手広く営んでいて、敷地も広く、すこしばかり煙が上がったとしても、隣近所に迷惑をかける事はなかった。

 松の脂をたっぷりと含んだ葉はめらめらと燃え、小枝にも赤い炎が激しく立ち上がった。

 井桁の小枝は、次々と燃え移って、自らの身体を犠牲にして、炎をますます高くした。小枝はたちまち真っ黒な炭のようになっていった。

「お盆の最後の日は、こうして送り火を炊くの。こうしないと他所様から、あの家はだらしないと言われるでしょ」

 裕太は、その炎を見て美しいと思った。世の中にこれほど美しいものはないようにさえ思えた。

 なぜこの火を美しいと思うのか、裕太はそれが不思議だった。ほかの人も美しいと感じるのだろうかと疑問に思った。母親にそれを尋ねればいいのだが、恥ずかしさと母子という関係に邪魔をされた。それを聞くには、あまりに心がくすぐったかった。

 目印だというこの火が、生きている自分と死者を繋げるものだと思った。この火を目印に、死んだお祖父さんやお祖母さんが、そこら辺の暗闇に潜んでいるのではないかと背筋が凍り着いた。死んだ人を透かして見るから、この火があやしく美しく見えるのかと思った。

 この火が美しいゆえに、子供は火遊びをするのではないか。そのあやしさに引き込まれるようにして……。

 火の勢いは弱くなって、炎は小さくゆれていた。それにつれて、母親と裕太の影も小さくなって庭の石畳の上でゆらゆらとゆれていた。

 母親の目は、火ではなく、ご近所の窓を気にしていた。


 夏休みが終わり、またバス通学するようになった。

 男子高校生の姿もあった。

 裕太は、彼を見ると、「秘密を知っているぞ」という思いから、なぜか近くに感じるようになった。同じ秘密を享有していると思いからだった。彼と同じ世界にいるという感覚よりも、彼が自分の世界に転がり込んできたように思った。

 雨の日も、晴れの日も、彼はバスに乗り、すっと席に腰かけて、景色を見つめていた。

 名前も知らない、話したこともない。でも、たしかに彼は裕太の世界にいた。

 彼を真似して、裕太も学生服の第二ボタンまで開けていた。

 当初、それはものすごく恥ずかしくて勇気のいる事だった。他人が裕太を見て、不良と思わないだろうか、叱られはしないだろうかと恐れた。稀に学校の先生が、「ボタンをかけろ」と注意する事はあった。ほとぼりが冷めると、裕太はまたボタンを外した。

 夕食が終ると、裕太は自分の部屋にいる事が多くなった。

 もちろん勉強をする事が多かったが、YouTubeで動画を観る事が主な理由だった。YouTubeのTHE FIRST TAKEで英語のヒット曲を聴いて覚えようとしていた。英語の歌詞は、SNSで仕入れていた。その歌詞を見ながら、何度も同じ曲を聴き、口ずさむようになった。時には首を傾げたり、視線を斜に構えたりして歌った。

 父親も母親も、裕太が自室に籠るのに関心はなかった。

 中学になって、勉強がたいへんなのだという意識しか持ち合わせていなかった。もちろん裕太がそう思わせていたところもあった。

 父親は新しい事業に夢中らしく、お金の計算しか興味を持っていなかった。母親は自分の見栄だけで生きているようで、他人からどう見られるかをいつも気にしていた。彼女にとって、成績のいい裕太は見栄の道具でしかなかった。

 いつだったか母親は、裕太の成績が載った通知表や模試の順位表を、冷蔵庫の扉に貼っていた。客が来るたびに、「うちの子、がんばってるでしょ」と誇らしげに言っていた。裕太は、何も言わずに、その通知表や順位表を冷蔵庫から取り除いた。紙を引っ剥がすように強く引くと、マグネットのカチっという乾いた音がして、それらは音もなく裕太の手に滑り落ちた。


 死とは、自分にはまったく関係のない世界だと思っていた。

 お祖父さんやお祖母さんが亡くなったときも、悲しみは湧かず、涙も出なかった。お年玉をくれる人が減った、それだけだった。彼らがいなくなったことを残念に思ったのは、その損失のせいであって、寂しさからではなかった。

 だが、死はすぐそばに存在していた。

 夜、電灯の光が届かないそこかしこに、死者が潜んでいるような気がした。自分のまわりには薄い透明な膜が張ってあって、それを引き剥がせば、死者たちがうようよと現れる。彼らは見るまでもなく、すでにそこにいて、じっと闇の奥から自分を見つめていた。しかもその視線は興味本位ではなく、隙を見せたらすぐにでも憑りつこうと待ち構えていた。

 暗闇とは、恐怖そのものだった。

 そのころから、裕太は電灯を点けたまま眠るようになった。

 朝、明るくなると、その恐怖は消えていた。しかし、忘れていた訳ではなく、裕太の肌にひりひりとへばり付いていた。とつぜん背中に氷を投げ込まれる時のような悲鳴が、裕太の身内に起きるときがあった。そうした時、身体中に鳥肌が立った。神経が過敏になり、空気でさえも肌に触れると痛みが走った。

 それらは一秒にも満たない瞬間で、「ぞくっ」とする感覚はこういう事か、と実感した。

 午前の授業が終わって昼休みになり、窓から校庭を走るクラスメイトたちを眺めていた。あるグループはサッカーを楽しみ、ある女生徒たちは大縄跳びではしゃいでいた。

 残暑がやわらぎ、過ごしやすい陽の光の中、彼らは輝いていた。裕太の悩みなど、彼らの眩しさでは問題にすらならなかった。

 死と隣り合わせになっているのは、裕太だけだった。

 教室の窓から校庭を見ながら、英語の歌を歌ってみた。小首を傾げて口の端をちょっと歪めた。何気ない歌い方をして、すこし憂鬱な表情を作ってみた。きっと今の自分は、あの男子高校生のように見えたに違いない、と悦に入った。

「いまその曲、ヒットしてるんだよね」

 クラスメイトの女子から言われたことがあった。

「うん」

 裕太は、わざと素っ気なく答えた。

 その女生徒は、なにか言いたそうにしていた。彼女の声は耳に届いていたはずなのに、窓の外の風景の方がずっと鮮やかに感じられた。

 この女生徒は、死を纏っていなかった。その恐ろしさや嘆きがかんじられなかった。

 裕太と彼女のあいだには、声の届かない深く大きい谷が横たわっていた。女生徒の眩しいほどの明るさが、裕太の胸に、じわじわと痛みを残すようだった。

 死を身に纏っていない明るいこの女生徒は基準のそとだった。

 自分にはもっと素晴らしい誰かが、まだ見ぬどこかで待っているはずだった。いつも死神に負ぶされ、時に手を繋いで散歩しているような女性がいるような気がしていた。

 その時、彼女の声の奥に、届かない何かが揺れていた気がした。だけど自分はもう、あの「歌」の中に生きていた。


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