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第十三章

 第十三章


 白のペイントやゴムボートの情報集めは、まるで遠足の前日のように楽しかった。

 数ある商品のうち、ゴムボートの耐久性、価格などを比較する作業が、すでに目的へ一歩ずつ近づいている手応えがあった。

 どれが最も白いペイントなのか、白さの基準は何処にあるのか、どこのメーカーが最も白いのか評判なども検索してみた。

 実行日の服装はどうするか、学校の制服にするのか、白のスーツにするのか、カジュアルな白にするのか、夢は広がっていた。

 現代では、葬式などは黒の衣装が一般的だが、歴史的には白が普通だった。白こそが最も死を連想させるものだった。

 下着やアンダーウェアも新しく白いのを購入しょうと考えた。それは出来るだけ高額な商品にしょうと検索した。

 遺書もゴムボートの縁に書こうと決めていた。

 ここでふと疑問が湧き起こった。

 撥水するペイントに墨汁は書けるのだろうか?

 色々と調べていると、アクリル系のつや消しペイントなら、墨汁は書ける事が分かった。

 そのペイントを塗ったあと、耐水ペーパーで磨いてざら目をつければ、墨汁がのりやすい事が知れた。それを実験しなくてはならないと考えた。それでも不可能な場合、油性の筆ペンを使う事も健闘された。

 それらをノートに書き込んだ。

 その作業で生き生きと時間を過ごすことが出来た。

 快い疲労が身体を覆っていた。

 休日にハイキングで身体に疲労を感じても、その時間が興奮すればする程、それは心地よいものとなった。

 爽快な気分に包まれている中、両手を天井に突き上げて背伸びをした。

 奈緒が本から目を離して上目づかいで見てきた。ただの背伸びだと知ると、また目を本に戻した。

 背筋を伸ばして窓外をのぞくと、松林の中に背丈の高い黄色い花が咲いていた。その草の根もとには赤紫の背の低い花が群れて咲いていた。

「あの花はなんだろう」

 奈緒が窓のそばに立って、病院の敷地を見た。

「待宵草よ。夕方から夜にしか咲かない」

 背の高い黄色い花は、夜にしか咲かないくせに、居丈高に自分の存在を誇示していた。

「あの赤紫の花は夕化粧っていう名前なの。私はあの花が好きなんだ」

「ゆうげしょう?」

「夕方に化粧をするという意味で、夕化粧だよ。この花も待宵草と同じ仲間で夜に咲くんだけど、赤く咲くので夕方に化粧をするという名前になったんだ。だから『遊女の花』って云われてる」

「花に詳しいんだな」

「これでも女の子だから、調べたんだよ。面白いのは同じ仲間なのに、花言葉が微妙に違うんだよ。待宵草は『無言の愛』、夕化粧は『臆病』なんだよ。夜に咲くからこんな花言葉なんだけど、『臆病』は、なんだか恋に臆病になっている気がする」

 夜咲く花の、人知れずに偲ぶような恋の姿に哀れな思いをさそわれた。

「竹久夢二が歌を作っているんだ。『待てど暮らせど来ぬ人を宵待草のやるせなさ』という歌だよ」

「短歌が得意なんだな」

「うん、国語が得意なんだよ」

「国語の勉強ってどうやるんだ」

「やった事ない。得意な教科の勉強とか、なぜ得意なのかよく訊かれるけど、自分では分からない」

「短歌を作ってみようかなぁ」

 短歌と云ったが、辞世のようなものを作ったら、計画に花を添えるのではないかと思った。


 ふと見れば 夕化粧の花 揺れている さよなら告げる 夏のひとひら


「これでどうだ」

「いいけど、『ふと見れば』が、もったいない。『ふと見なくても』見ている状態なので、わざわざこの言葉は要らないと思う」

「なるほど、もう見ている状態だから、説明する必要はないのか」

「そうだね、字数に制限があるから、もったいないと思う」

 奈緒の助けを借りて、辞世のようなものが出来上がった。


 風に薙ぐ 夕化粧花 紅さして 月の海に出る 十六のとき


「お兄ちゃん、いい歌が出来たと思う」

 奈緒は普段と変わりはないように見えたが、探るような一瞬の目の動きがあった。


 ドアがノックされて、遙香が病室に入って来た。

 それだけで、空気が変わった。彼女が動くたびに、淡くゆらめく香気が後を追い、かぎろいが微かに立った。もし彼女が聖母マリアなら、この病室は聖蹟にほかならなかった。

 遙香がナイトテーブルに薬を並べて去ったあと、病室にはまた沈黙が戻った。

 奈緒は、先ほどの短歌をもう一度読み返していた。

「ほんとに、綺麗な歌だね」

 口調は穏やかだったが、そこには少しだけ迷いがにじんでいた。

「どこかへ旅にでも出るんじゃないよね。少し、怖いかな」

 奈緒の声は小さかった。

 裕太は、その言葉に頷きながらも、どこか遠くを見ていた。まるでその「最後」を美しく仕上げることに夢中で、奈緒の言葉は耳に届いていなかった。

「ねえ、お兄ちゃん」

 奈緒が、言葉を探すようにして続ける。

「まさかお兄ちゃん、変なこと考えてないよね」

 言葉はそこで止まった。

 奈緒の方を向いて、厳しい顔つきをした。

「うるさい! 余計な事を言うな!」

「心配してるんだよ」

「うるさい、と云ってるんだ」

 奈緒は、引きつったような笑顔を見せた。

「旅に出るのなら、奈緒も連れていって」

「おまえなんか連れて行けるわけがないだろ」

「やっぱり、ほんとに旅に出るつもりなんだ。どうして?」

 国語の能力に秀でた奈緒に見透かされていた。月の海はお伽噺ではなかった。その海に出るのは死を意味していた。改めて彼女の嗅覚の鋭さに驚かされた。

「お兄ちゃんとなら、一緒に旅に出られるよ」

「バカな事を云うな! 俺を憐れんでいるだけだ」

「そんな事ない! 奈緒は真剣だよ」

「うるさい! 出てけ!」

「お兄ちゃん!」

「出て行け、と云ってるんだ! 二度とここへ来るな!」

 奈緒は黙ったまま、手にしていた本を閉じた。

 その本を何度もぱらぱらと指で弾いている音が聞こえた。

 窓から見える待宵草と夕化粧を見ていた。

 背後でドアが静かに閉められている気配がした。

 松林に咲く待宵草と夕化粧は、何事もなかったように静かに咲いていた。立待月が松越しの海に淡く、その光は緑紅の花々にもさやかに注いでいた。


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