第十一章
第十一章
体調がいい時は、「罪と罰」に挑戦した。
なんとか読みこなそうと、顕微鏡を覗くように一語一語を丹念に読んでいった。それは退屈との戦いであり、修行僧のような苦行を強いられた
けれど、それは言葉の苦行というより、自己の形が緩やかに崩れてゆく音なき予兆だったのかもしれない。
頭の中に、ひとつの沈黙が満ちていった。
誰かが部屋の外で靴を脱ぐ音、ナースステーションの時計の音、そういった些細な現実が、音だけを残して意味を剥ぎ取られて届かなくなっていた。音はたしかに、空気を震わせている。けれど、誰の足音なのか、なぜ時計が鳴っているのか、その背後にあるはずの物語が、陥没していた。
まるで自分が世界の字幕を読み損ねたような、映像だけが流れ続ける無音映画のような、不在の実感だった。
言葉が目を滑り落ち、思考が追いつかない。文字の群れの中で、自分だけが立ち尽くしているようだった。
まるで、誰か別の人間が僕の身体を仮に借りて、ベッドに横たわっている。
僕はその外側にいて、硝子越しにそれを眺めている。触れることも、問いかけることもできない。
それは崩壊ではなかった。むしろ、過剰なまでの静けさだった。
自我の灯が、すりガラスの向こうでゆっくりと遠ざかる。声をかけようとしても、声そのものがすでに自分のものではない。
言葉から紡ぎ出される映像が現われなかった。言葉を追い、しっかりと読んでいるのに、頭の中には、今日の昼食や夕食の事、奈緒の来る時間、誰かが以前に云った事にいつの間にか支配されていた。それらを振り払いながら、言葉を追いかけようとした。終いには言葉を追い掛けずに、本だけを凝視する自分がいた。焦点も定まらず、ただ本を意味もなく見ている状態だった。
講師が学習のために病室を訪れた。
彼は、新しい参考書を手にしていた。数学は三角関数を終わり、微分へと移行していた。この時点で、学年を超えて予習していた。
「ドストエフスキーを読んでいるんだね。どうだ、難解だろ」
「もう何度も挑戦しているんだけど、でも今日はなぜか、まったく頭に入らなくて」
「それは、ドストエフスキーが難しいせいじゃない。きっと、君の思考が別の層に降りていってるんだよ」
「これを読んで理解できない事が悔しいんです」
「罪の意識とか、世界の不条理とか、言葉にできないものばかりが出てくるからね。読者の中に、沈んでいくものがある。病人だから無理をせず、三回くらい読み直すつもりで一回目は簡単に読む事だ」
講師のその言葉で、なにか救われたような気がした。
本を閉じ、数学の教科書をひらき、微分の講釈に始めた。例題を解き、参考書の問題を解いているうちに、自分の意識とは遠いところで誰かが答えを書いているような錯綜した気持ちになった。解答したのは自分に間違いなかったが、考え詰める作業もなくすらすらと書いている姿があった。
問題に夢中になっているうちに、かと云って無我夢中という事はなく、意識はどこかで醒めていて周囲に蜘蛛の糸を張り巡らせていた。病室に足音を偲ばせて入って来た者の気配は感じ取っていた。それは奈緒の入室だと感じ取る事が出来た。蜘蛛の糸が、彼女の薫風でゆらりと揺れていた。
その方向に目をやると、奈緒は首をすくめて会釈して答えた。講師も気がついて、彼女と会釈を交わした。
奈緒は、トートバッグから丁寧に畳まれたタオルや下着を取り出し、いつものようにロッカーへ無言で並べていった。水差しの水も静かに入れ替えた。誰がそうしろと言ったわけでもない。ただ、それをするのは彼女しかいなかった。
一連の彼女の作業は、勉学の邪魔になる事はなかった。ドアの開閉も静かで、かえって彼女が何をしているのか分かり過ぎるくらいだった。
午前の巡回に、看護師の遙香がやって来た。
「勉強中だったんだね」
彼女の柔和な物云いに救われるようだった。
「だいぶ良くなったわね。気分は?」
「順調です」
体温計を手渡してくれて、それを脇に挟んだ。その何気ない行為に、遙香との繋がりを感じていた。彼女が握った体温計が特別な物、市販されてない特需品に思われた。彼女の身体のあらゆる箇所を知っている手がその体温計を握ったのだ。
「妹さんは、いつもご苦労様! お兄ちゃん思いなんだね」
奈緒は、首をすくめて微苦笑した。
「お大事に」
遙香は、そう云って病室を出た。
講師は、彼女を見て、
「きれいな人だな。ひょっとして裕太の恋の相手は彼女か?」
「そんなことない」
「君の年代で、歳上の人に憧れるのは普通だ。女性は22~25までが一番きれいだ。だからその年代の女性をみんな好きになる。女性の美しさはそれだけじゃないけど、若い男性はそれしか見ない」
見透かされたことに多少の恥ずかしさがあったが、講師にならそれは許されるような気がした。
学習を終えて、奈緒は、
「お疲れ様です」
と講師をねぎらって見送った。
「よかったね、お兄ちゃん。今日の巡回が遙香さんで」
それには答えず、本をぱらぱらと捲ってみたが、読む気になれず雑誌を手に取った。
「美味しいものが食べたい」
「退院したら、私が作ってあげる。なにが食べたい?」
「フランス料理、イタリア料理、トルコ料理、中華料理、美味しいものなら何でもいい」
「作った事のない料理ばっかり」
「カレーが食べたい」
「それなら作れる。甘口?」
「なぜ甘口だとわかったんだ」
「なんとなくだよ」
「いつも何を作っているんだ?」
「だいたい和食が多い。肉じゃがとか、筑前煮とか、お母さんに教えてもらったから」
「それでいい。病院食以外なら何でもいい」
「私、きっといいお嫁さんになれるわ。料理は好きだし、得意なんだ!」
「そっか」
「洗濯とか掃除とかもこまめにやってる」
奈緒には、花嫁願望が強くあるのだと思った。
ベッドに仰向けに横たわり、深いため息をついた。
「遙香さんの事を考えているの?」
「どうでもいいだろ」
天井には、白い祭壇が無機質に広がり、聖母マリアが浮かんでいた。聖母マリアは絶対に処女でなくてはならなかった。
「遙香さんは彼氏がいるんだろうな。私服とかどんな感じなんだろう。白衣しか見た事がない」
「どうせ、遙香さんとデートとかしたいんでしょ。いいよね、大人の人って」
「そんなに簡単なものじゃない」
「自由に出られないもんね」
そうなのだ。自由に出られないのだ。
草原で、遙香と手を取り合って、駆けまわるような事をしばしば想像していた。海岸の砂浜を二人で歩くのもいい。若い女性が好きそうなディズニーランドでもよかった。遊園地のジェットコースターの恐怖を二人で楽しむのもよかった。もし夏祭りで彼女の浴衣姿を見られたら、「よく似合っているよ」と云ってあげたかった。
こんな空想で時間を過ごす事、生きる事は罪な事だろうか。空想することに罪はないはずだった。多種多様な場面を想像し、色々な遙香を出演させ、あらゆる服装に着せ替えるのは恋した男の特権だった。
現実には、病室という鳥かごに閉じ込められた未来のない、今にも死ぬかもしれない病人だった。何も出来ないただの病人が現実だった。
「遙香さんは美人だから、みんな敬遠して彼氏はいないよ。きっと」
「おまえに何が分かるんだ。どうせ失恋するに決まっている、と思っているんだろ」
「そんな事ないよ」
「もし遙香さんと付き合うようになったら、別れればいいと思うに決まってる」
奈緒は黙り込んで本をバッグから取り出していた。
その様子がすこし拗ねているように見えた。




