第十章
第十章
高熱が続いた。
処方された薬は強く、夢心地の中で遙香の呼ぶ声が聞こえた。
虫籠に入れたまま死んだ蛍の怨霊に呪われているような気がした。蛍の光の明滅が恐ろしく鮮やかだった。蛍が死神でも連れてきたのか、熱は下がらず、吐き気が止まらなかった。蛍の光が「こっちへ来い! こっちへ来い!」と呼んでいた。
遥香の幻聴が耳もとで叫んでいた。男性の医師の声も聞こえていた。遠い意識の外で、彼らの声だけが鮮明に耳に届いていた。
不思議な事に声だけが聞こえていた。自分はまだ生きている、と叫びたかったが、声にならなかった。
やはり死ぬのか?
まだ十六歳だった。
痰でも詰まっているのか喉の奥がひりつくように乾いていた。
「水が欲しい!」
そう思っても声にならなかった。
死ぬとは、こういう事か。
これでもう誰とも会えないのだと感じた。
目が覚めたとき、ただ無菌室の天井の白さだけがあった。
遙香の姿があった。
彼女はインターホンで医師を呼んだ。
医師が駆けこんできた。
続いて両親と奈緒が病室に駆け込んできた。講師の姿もあった。どうやらこの段階で、あの世行きの二割には、どうやら数えられなかったようだ。
「水が欲しい」
奈緒がペットボトルの栓を開けて、口元に持って来た。うまく飲めなくて咳き込み、口から水を溢れさせた。顎にこぼれた水を奈緒がタオルで拭き取ってくれた。普通の水がこれほど美味しいものだと思わなかった。
新しい冷凍枕を奈緒が持って来てくれた。その冷たさが心地よかった。
「ああ、生きている」
この冷たさが生きている証だった。
病状は一進一退だった。
奈緒は病室で、期末考査の勉強をしていた。気分のいい日は、彼女の勉強を見てやった。
だがそれも束の間で、また高熱の日々がまた続いた。
顎に水が流れた。冷たかった。その冷たさが、喉から脳へと刺さるように伝わり、息を飲む。
咳き込み、また水をこぼした。
奈緒がペットボトルの水をくれているのが明らかだった。意識の遠くで、彼女の手触りを感じていた。
タオルが頬に触れる。奈緒が触れていた。柔らかく、乾いた布の感触があった。
名前を呼ばれた気がしたが、はっきりとは聞こえなかった。鐘の音のように、遠くで誰かが笑った気がした。
「裕太」
誰かが呼んでいた。耳もとの声が、煩わしかった。もう寝かせてくれ、と言いたかったが、声にならなかった。寝ようとして、また誰かが起こそうとしてきた。それが苦痛だった。
「……こっちへ来い」
また蛍が呼んでいた。
死んだはずの蛍が、ふたたび籠の中で明滅していた。黒い闇のなかに、いくつもいくつも光っていた。蛍の光が闇の中で何度も明滅した。その度に、自分の呼吸も同じように途切れがちになっている気がした。
『今、息を止めたら、この光と同化できるのか』
けれど、喉の奥に残る水の冷たさが、自分をこの世界に繋ぎ止めた。
模糊とした意識の中で、医師と遙香の声で目が覚めた。
強力な薬と病魔が闘っているのだ。その戦いの激しさが、熱い体温を生み出していた。その戦いで意識は朦朧としていた。
夏休みになって、奈緒が毎日来てくれるようになった。彼女は昼過ぎにやって来た。昼食を摂り、夕食の準備をして来ていた。
彼女が、看護師に代わって、水を取り替えたり、カーテンの開け閉めをしてくれた。その姿だけは気がついていた。
奈緒は、病室で静かに本を読んでいた。二人のあいだに会話はなかった。時折り、彼女は冷凍枕やタオルを替えてくれていた。彼女は、濡れたタオルで顔や身体を拭いてくれた。
「早くよくなるといいね」
と勝手に喋っていた。
相槌を打ちたかったが、それさえも出来なかった。
下着の交換も彼女がやってくれた。彼女は、陰部が見えないように器用に交換し、恥ずかしいという事はなかった。どうにでもしてくれ、と俎上の鯉の気分も手伝っていた。
彼女が水を汲んで来るあいだ、天井に映った外の光を眺めていた。
奈緒の手が水を運んできた。たしかにそれを感じているはずなのに、どこか遠い場所で起こっていることのように思えた。もしかすると、これはすべて過去の記憶なのかもしれない。そう思った瞬間、病室の光がにじみ、再び蛍の幻影がゆらめいた。
どこまでも静かで、死の気配さえ心地よかった。
病室の天井から垂れる白いカーテンが、風もないのに微かに揺れた。
それは何の意味もなかった。
だがその無意味さが、妙に優しく思えた。
奈緒が戻って来た。
「お兄ちゃん、夕焼けがきれいだよ」
彼女は、窓のカーテンを開けて云った。
窓から差し込む夕陽の光が、ベッドの端にある金属の柵を鈍く照らしていた。
身体を起こそうと苦しんでいると、奈緒が背中を支えてくれた。指先が冷たい。けれど、それは奈緒の手が触れたせいなのか、それとも自分自身がこの世界から遠ざかりつつあるからなのか。冷たさが、まるで境界線そのもののように思えた。
その夕焼けの赤さは、奈緒の声よりも先に、彼の意識を深く揺さぶった。
夕焼け。
その光景は、空に彩る曼殊沙華の花だった。
その響きが胸の内で、妙に大きく反響した。
日常というものが、あの頃の夏の放課後が、幻のように蘇った。
校舎の裏で、ひとりぼんやりと見つめていたあの夕焼け。
詩を書き留めたノート。蛍を閉じ込めた虫籠。
全ては、はるか彼方に過ぎたことのようだった。
「……きれいだね」
口が、かすかに動いた。
声になったかどうかはわからなかったが、奈緒はこちらを向いて笑った。
「うん、ほんとうに。」
彼女は、ベッド脇に腰を下ろした。
その肩がわずかに震えているのを、裕太は見逃さなかった。
泣いているわけではなかった。ただ、沈黙の重みが、彼女にも確かに降りていた。
「ずっとね、話しかけてたんだよ」
奈緒はぽつりと呟いた。
「聞こえてたかどうか、わからないけど、お兄ちゃんのこと、毎日、祈ってた」
その言葉の一つひとつが、体の奥底にじわじわと染みこんでいった。心があたたかくなった。熱ではない、もっと違う、懐かしいぬくもりだった。それは、まるで誰かに「生きていていい」と許されたような気がした。意識が鮮明ではなく、混乱の中にいた。
「今は現実なんだ。これは現実なんだ」
何度も言い聞かせていた。
遠くで、看護師の足音が近づいてくる。
その音さえ、世界の優しさの一部のようだった。
生きている。
まだここに、自分はいる。
「奈緒、あの死んだ蛍はどうした?」
「川のそばに埋めてあげた。ちゃんと石を置いて墓石の替わりにした」
「そうか」
最後に蛍は、光が消えていた。




