第一章
第一章
恋とは死ぬことと見つけたり。
裕太は、この言葉が好きだった。誰かに焼けつくように焦がれ、悶絶の果てに死ぬような恋に命を賭けようと心に決めていた。
あまりに熱く、誰も触れることができない。だが、火傷も恐れずに突き進む。それが、恋というもののあるべき姿だった。そこに打算はなく、ただ純粋な恋だけが燃えていた。
自宅の近くに川が流れていた。
大して大きな川ではなかったが、それでも河口近くの裕太の家辺りでは、川幅が二十メートルはあった。
ごく稀に山あいの上流から蛍が流れてくることがあった。
たった一匹で光ったり消えたりしながら、川の上を飛ぶようすは何かを探すようにも、ただ迷っているようにも見えた。
その蛍が庭に迷い込んだことがあった。
母親が生ゴミを外のゴミ箱に捨てようとしたとき、庭の植木の影に光るものを見つけた。
「庭に蛍がいるよ」
裕太は、吐き出し口の窓を開けて、蛍を探した。
「ほら、あそこ」
母親が指さす方向を、目を凝らして探した。きれいに剪定されてすっかり花の季節が終った椿の根もとに光るものがあった。
裕太は、吐き出し口の窓下の、備え付けの草履を履いて、その光るもの、蛍を見に行った。父親も草履を履いて外に出て来た。父親は、タバコに火を点けて、煙をふかしながら裕太のあとを歩いて来た。
椿の木の影に、蛍は闇夜を照らすように周期的に光っていた。
裕太がその蛍を取ろうとすると、
「やめておけ」
と、うしろに立っていた父親が言った。
「一週間の命だ。そのあいだに異性を求めるために光っているんだ。可哀そうだろ」
「たった一週間しか生きられないの?」
「長くても十日だ。そっとしておいてやれ」
裕太は、椿の根もとで光る蛍を、黙って見つめていた。
蛍が光ると、椿の根もとは明るくなり、庭の苔や雑草が浮かび上がった。光が消えると、ふたたび闇が訪れた。光っている蛍をつまむと、火傷するかもしれないと子供心に危ぶんだ。
その光は、誰かに向けて発せられた合図のようにも見えたし、ただ夜の中で迷っているだけのようにも思えた。
「相手、見つからないかもしれないね」
裕太がそうつぶやくと、父親は火のついたタバコを見下ろしながら、小さくうなずいた。
庭に流れる夜の空気は冷たくて、どこか遠くで川の音がかすかに聞こえていた。その川からは磯の香りがしていた。
蛍は、一度だけ強く光ったあと、ふっと消えて、それきり姿を見せなかった。
この春から、裕太は中学に進学した。自宅から学校まで四キロもあったため、進学と同時にバス通学をすることになった。
帰り道、いつものようにバス停に向かった。
バス停には中学生たちが溢れていて、その喧騒を避けるように少し離れた場所に、一人の男子高校生が立っていた。
彼は、毎朝のバスで見かけていた。名前は知らなかったが、朝だけ同じバスになった。中学生と高校生は、学校の終了時間が違うために、帰りは同じバスに乗り合わせることはなかった。
珍しいこともあるものだと思いながら、裕太も群れから距離を取って、彼の近くに立った。
微かに鼻歌が聞こえてきた。英語の歌だった。
中学で英語を習い始めたばかりの裕太は、それが格好よく感じられた。
背が高く、細面の高校生だった。学生服の前ボタンを二つ外し、小首を傾けながら、口の端を歪めて、どこか面倒くさそうに鼻歌を漏らしていた。世の中を斜めに見ているようだった。悪者でもなく、かといって聖人でもなく。真面目というタイプには程遠く、どこか世の中に反抗しているような高校生に見えた。
英語の歌の意味は分からなかった。
彼は上手に歌おうとしてはおらず、なにげなく英語の歌がくちびるから漏れた、という雰囲気だった。
裕太は、自分もいずれ英語の歌を歌えるようになるのだろうか、いや、なれなければならない、とすら思った。
彼は、通り過ぎる自動車や通行人などは、まったく気にしていなかった。中学生たちの喧騒も関心はなく、裕太の存在にも目をむけなかった。
朝の通学時間以外で、彼と再び出会ったのは夏休みの図書館だった。
裕太は夏休みの宿題をする気になれず、「図書館なら嫌でもやるだろう」と考え、通うようになった。これが功を奏し、宿題は意外にも順調に進んだ。
最初は午前中だけのつもりだったのが、もう少し、もう少しと課題を解いているうちに昼を過ぎ、空腹に耐えかねて帰る日が続いた。やがて母親に弁当を作ってもらい、閉館まで図書館にいるようになった。
昼になると、建物の陰で弁当を食べ、お茶を飲み、また勉強する。そんな日々が続いた。
ある日、弁当を食べ終えると、どこからか歌声が聞こえてきた。
誰だろうと首をのばすと、あの男子高校生だった。
歌っているのが彼だと分かると、少し興味が薄れた。彼は英語の歌ではなく、日本語の歌を、タバコを吸いながら口ずさんでいた。
「妻を娶らば才たけて
顔麗しく情けある
友を選ばば書を読んで
六部の侠気 四部の熱」
どこか古めかしく、それでいて心に染み入る歌だった。裕太は見ていたわけではないが、その歌声に惹かれていた。
彼は何度も同じ箇所を繰り返し歌うので、自然と裕太も覚えてしまった。
家に帰り、母にその歌の名前を聞いてみた。
「分からないわね。お父さんなら知ってるかも」
母親は、こういう面倒な事は嫌がっていた。なにかを尋ねても、「自分で調べなさい」と言う事が多かった。この時は、面倒を父親にすり替えていた。
夕食時、裕太は父に尋ねた。最初は分からなかったようだが、うろ覚えの歌詞をいくつか挙げると、父は答えてくれた。
「与謝野鉄幹の『人を恋ふる歌』だな」
父は解説もしてくれた。
「嫁にするなら、賢くて美人で、情けのある人がいい、ってことさ。友達も、六部の侠気に四部の熱という事だ。熱だけではだめなんだ。なにかをやるには六部の侠気が必要だって事だな」
さらに、「鉄幹の妻は与謝野晶子。もっと情熱的な歌人だったよ」と教えてくれた。
翌日、裕太は図書館でその詩を見つけ、ノートに書き写した。
「戀のいのちをたづぬれば
名を惜むかなをとこゆゑ
友のなさけをたづぬれば
義のあるところ火をも踏む」
特にこの一節が、裕太の心を打った。
与謝野晶子についても調べ、次の短歌をノートに書き写した。
「やは肌の あつき血汐に 触れも見で さびしからずや 道を説く君」
「その子二十歳 櫛に流るる黒髪の おごりの春の うつくしきかな」
注釈も読んで、意味を反芻した。
裕太は、図書館の洗面所の鏡に映る自分を眺めた。
十五の夏、自分はまだ「おごりの春」に届いていない。けれど、きっとこれから「おごり」の人生が始まる──そんな予感がした。
鉄幹の歌は、父親にメロディーを教わって、自然と口ずさむようになった。裕太があまりしつこく聞こうとすると、父親は面倒くさがるようになった。
ある日、暇を持て余して、裕太は犬を連れて、家から五分の浜辺にむかった。犬の名は凜で、三歳の雌のボーダーコリーだった。
潮騒は穏やかに繰り返し、海風がすこし吹いていた。歩くたびに、ゆたかな砂が足を埋もれさせようとした。たまにプラスチックの漂流物があった。内海だったので、漂流物が景観を損なうほどはなく、それらは風の所為で、低いところに集まっていた。散歩を妨げることはなく、そこだけを避けながら進んだ。
何気なく鉄幹の歌を口ずさんでいた。歌っている自分に、少し酔っていた。
夏の終わりの浜辺に、海水浴客はまばらで、ただ太陽だけが照りつけていた。
砂は焼けるように熱かった。裕太が大きな声で歌っても、誰も気にしなかった。風と潮騒が、彼の声をさらっていった。
人影がないのを見て、裕太は凜の鎖を外し、自由に走らせた。ボーダーコリーは運動不足になるとストレスが溜まると聞いていたからだ。
松の枝を見つけると遠くに投げ、凜はそれを追い、くわえて戻ってきた。
投げるのに飽きると、凜は枝をくわえたまま、裕太と並んで歩いた。
やがて、松林の奥に二つの人影が見えた。
服装からすぐに男女だとわかった。女性のほうが真っ赤なチェックのシャツを着ていたからだった。一瞬、それが紅い花ではないかと錯覚したくらいだった。男のほうはジーンズに黒の長袖のTシャツだった。
彼らは、裕太より歳上に見えたが、高校生の域を出ていなかった。少ない小遣いしか持たない学生が、この浜の松林でデートをしているのだと推測した。
よく見ると、男はいつもバスで会うあの男子高校生だった。女も同じ年ごろの高校生に見えた。
しかし、彼らは会話をしているように見えなかった。女は松に背もたれして、男子生徒を無言で、見つめていた。
裕太は歌うのをやめて、身を伏せた。
男子生徒が、女を抱き寄せて、キスをした。
裕太は、頬が一気に熱くなるのを感じた。なぜ自分が隠れないといけないのかと疑問に思った。
興味をそそられ、そっと近づいて様子を伺った。
二人の唇が離れて、
「恋とは死ぬことと見つけたり」
と、彼が言った。
「バカね」
そう言いながらも、彼女は男子生徒の胸を軽く突いて微笑んだ。
裕太は、なぜかそこに居てはいけない気がして、追い立てられるように走ってその場を逃げた。
凜も楽しそうに、裕太のあとを駆けてきた。