8話:どうしてですか?
まさか身代金を払うと言い出すなんて、予想外過ぎて驚くしかない。
さすがにあの金額を、レーシング家の五人兄弟が受け取っても、足がつくだろう。それにそんな大金を五人で分担して持ち歩いても、挙動不審になり、即逮捕だ。
そこで私はまず、その場で持っていた金貨をすべてレーシング家の五人兄弟に渡した。そして後日お金と物件情報を届ける約束をしたのだ。その上で、警備隊の屯所に駆け込むことにした。誘拐犯の隙をつき、逃げてきましたということにして。
この計画を遂行し、警備隊の屯所にリサと共に駆け込むと、早速何があったのかと聴取される。
そこでリサと口裏を合わせていた通りの証言を行う。
まず誘拐犯は、隣国へ逃げたと伝える。
さらに誘拐され、部屋に閉じ込められている間は、目隠しをされていた。よって犯人の姿は見ていないと伝えたのだ。人数も分からないし、男であること以外、見当もつかないと付け加える。これでこの誘拐事件は、迷宮入り間違いなしだった。
リサもちゃんと同じ証言をしているので、綻びはない。
警備隊でリサと共に一通り聴取を受け、ロビーに向かうと……。
「スカイ伯爵夫妻、旦那様……!」
スカイ伯爵夫妻とアトラスに加え、補佐官のクルース、ダビー、伯爵夫妻の護衛騎士達が待っていてくれた。
わざわざ迎えに来てくれたことに感動しつつ、御礼を伝えると「無事でよかった」と皆、心から喜んでくれる。その様子を見るにつけ、心苦しく感じてしまう。離婚したさに偽装誘拐を目論んだことを。
馬車に四人で乗り込み、走り出すと、思わず尋ねてしまう。なぜとんでもない金額の身代金を支払おうとしたのですか――と。
「セレナは我が家の敷居をまたいだ時から、家族の一員だ。その大切な家族が誘拐されてしまった。だが身代金を支払えば、無事に戻ってくる……それならば支払って当然だ。金額など関係ない。重要なのは、セレナの帰還だ」
対面に座るスカイ伯爵がそう言えば、伯爵の隣に座るスカイ伯爵夫人も、こう言ってくれる。
「屋敷に誘拐犯が忍び込んだなんて、警備が甘かったと思うわ。責任は私達にあると思うの。お金で解決……なんて本当はよくないのかもしれないわ。でもそれでセレナの命が助かるなら……。私は支払って当然と思いましたよ」
お忍びで町へいっていたとは言えないので、屋敷に忍び込んだ誘拐犯に、連れ去られたことにしていた。そして皆、これを信じている。まさかお忍びで町へ出ていたとは、想像すらしていないと思う。
「結局、身代金は支払わずに済んでいる。それはセレナが自ら脱出してくれたおかげだ。領民のために宴会を開くことを思いつき、自身の割り当てられた予算もほぼ手付かずで贅沢もしない。領民たちも皆、セレナのことを賢妻と呼んでいる。そんな妻を失うわけにはいかない」
アトラス……!
彼の今の言葉に嘘はない。本心から思っている言葉を、口にしてくれたと思う。
落ち着いた表情で、穏やかな態度。そこに「とんでもない騒動を起こしてくれた」という怒りや侮蔑の感情は一切ない。
これが本当は仮の姿であり、本性ではないの?
的中率九十九%の占い師はこう言っていた。
――「だが現状は嵐の前の静けさに過ぎない。そしてお前さんはまだ旦那の本性を知らないんだ。崩壊の時は、突然訪れる。些細な一言が始まりだった」
崩壊の時は突然。
しかも些細な一言……。
でもそんな一言で、このアトラスが豹変するの?
「セレナ、大丈夫か? なんだか顔色が悪いように思える」
「……!」
隣に座るアトラスが、そっと私の手を握った。
心臓がトクンと反応している。
アトラスからこんな風に手をつなぐのは、初めてのことだった。
エスコートはされているし、跡継ぎのための営みもある。
でもこういったスキンシップは初めてであり……。
しかも対面の席に、スカイ伯爵夫妻もいるのに。
屋敷に着くまでアトラスは私の手を握り続けている。
ようやくエントランスに着き、アトラスが私の手を離した時――。
それは安堵と残念という、相反する気持ちに襲われていた。
でも、これで終わりではなかった。
自室に到着し、一旦バスローブに着替え、それから入浴となった。
浴室は男性用と女性用で二つあり、男女それぞれが順番で入る。
当然、スカイ伯爵夫人から入ってもらうのが日常のこと。
だが今回は「先に入って体を温めなさい」と、夫人から言ってもらえたのだ。
これは誘拐事件もあり、私を気遣ってのことだった。
「スカイ伯爵夫妻も、若旦那様も。お優しい方々で良かったですね」
「本当に。まさか離婚ではなく、身代金を支払う方を選んでくれるなんて……。なんだか占いのこと、忘れてしまいそうになるわね」
「若奥様……」
リサと共に自室へ戻ると……。
寝室の手前の隣室には、ソファセットが置かれている。
そこにアトラスがいるではないですか!
「ど、どうされましたか!? 何かお話が……?」
「……本当は二日後の予定だが、今日と二日後。二回でも問題はないだろう?」
何の話?と首を傾げそうになると、リサが耳元で囁く。「跡継ぎの」と言われ、ハッとする。ハッとして「えっ」と思う。
その日以外で、アトラスが部屋に来るなんて初めてのことだった。
私の動揺を察知したリサは「リラックスできるよう、お酒でも用意してきます!」と部屋を出て行ってしまう。
むしろ今、二人きりになるのが気まずいのですが……!
「では」「!」
アトラスはお酒の到着を待たず、寝室へ向かってしまう……!