19話:昇天していた
身も心もとかされ、遂にアトラスと一つとなった時。
あまりの気持ちの良さに、頭が真っ白になり、昇天しそうになった。そして……。
『人間とは不思議な生き物。まさか死んでもいないのに、快楽により、こんなところまで魂が飛んでくるとは。早く戻るがいい。ここは生者の魂がいる場所ではないのだから』
どうやら私は本当に昇天したようだ。
しかも生きているのに、魂だけが肉体から飛び出し、天国のような場所へ来てしまった。
この事実には、どう反応したらいいのか。
まさかこれから離婚する夫とのアレで、本当に昇天するなんて……恥ずかし過ぎる!
もうアトラスと目を合わせることすらできないと思う。
というか、今、私に話しかけてきたのは……?
魂というのは実体がないようで、いくら目を凝らしても、自分の体が見えない。
そして私に声をかけた人物の姿も視認できなかった。
私に声をかけた人物。
人物……ではないだろう。
主に近い存在だと思う。
視線を感じる。
見渡した世界は空のような場所だ。
澄んだ青空に、綿のような雲がぷかぷか浮かんでいる。
『なるほど。縁があったのだな。だからお前さんは、わたしの前に現れた』
声……声なのか。音はないのに知覚できる。
まるでテレパシーのようだ。
見えない何かの意志が伝わって来る。
そしてその見えない何かは、どうも私を知っているようなのだ。
ただ、どう考えても主のような存在。
そんな高尚なお方と私は知り合いなの……?
『知り合いというか、そうじゃな。お前さんが前世で生を終えた時に、わたしはその魂と出会っている』
そ、そうなの!?
『そうじゃ。なぜならあまりにも前世のお前さんは不憫だった。つい、同情してしまったのだよ』
言葉に出していないのに、私の考えが伝わるようだ。
見えない何者かが、答えをくれる。
同情が何に対するものなのかも、教えてくれるのかしら?
『お前さんは知りたがりだな。好奇心旺盛ということか』
そう言った何者かは、楽しそうに笑う。
だが笑い終えると、真剣な声音に変わる。
『今はあの時と違い、随分と明るくなった。この度の転生は、正解だったようじゃ』
転生……?
あ、そうか。
前世があると言っていたのだ。
前世で亡くなり、今の私に転生したと。なるほど。
しかし。
前世の私は不憫だった?
同情する程、不憫だったの……?
『ああ。あんなことはあってはならないと思った。お前さんは前世でDV夫により、非業の死をとげていた』
え、えええええーっ!
そうなのですか!?
DV夫。
DV夫って……。
何?
『そちらの世界にはない言葉かな? DVとはDomestic violenceの略だ。お前さんのいた前世の国では、配偶者や恋人などからの暴力と定義されているようじゃ。そしてお前さんは暴力的な夫により、殺害された』
そんな……!
転生された世界でも夫に殺害されるのに、前世でもそうだったの!?
もはや私はそういう運命なの!?
『うん? 何を言っている? 前世のお前さんはあまりにも憐れだった。そこで前世とはまったく違う異世界に、お前さんの魂を転生させた。そして前世の夫とは真逆の、おとなしく、でも堅実な男性と結婚し、幸せになるようにしたのじゃ』
えっ、そうなのですか!?
『そうじゃ。木漏れ日のような穏やかさでお前さんに寄り添い、揺るぎない愛情を注いでくれる相手。このわしが太鼓判を押す、お墨付きの優しい男じゃ。だが……。いやはや昇天するほど幸せとは、よかった、よかった。転生させた甲斐がある』
これには実体がない状態なのだけど。
口があれば、ぽかーんと開け、固まる事態だ。
私を転生させることができるような、高尚な存在である何者かが選んだ相手。
それがアトラス。
でも確かに言う通りなのだ。
木漏れ日のような相手。
穏やかで優しい……。
情熱的な愛情はなかったが(さっきを除き)、落ち着いた政略結婚を送ることができていた。暴力を感じさせるような言動は、一切ない。
でもあの占い師はそのアトラスが……。
『お前さん、ごちゃごちゃ考えている場合ではない。早く体に戻らないと。このままでは肉体とのつながりが絶たれ、戻れなくなるぞ。正しく昇天していない魂は、この辺りを彷徨うことになる。だがその存在は異物。やがて消失してしまう。そうなると二度と転生は叶わなくなる』
これには驚き、どうすればいいのかと大いに焦る。
『仕方ないな。さあ、戻りなさい』
突然、実体はないのに。
全身が優しい温かさに包まれた。
それは――そう、アトラスのような木漏れ日のような温かさ。
そう感じたのは一瞬で、一気に体が何かに引き寄せられるように、高速で後方へ引き戻されていく。
『今度こそ幸せになりなさい。わたしが選んだ相手じゃ。間違いはない』
最後に聞こえたのはこの言葉。
その後はドーンと何かに衝突したと思ったら、ストンと収まるべき場所に落ち着いた。
そこで「セレナ」と私を呼ぶ声を、一度聞いた気がする。
だがそこで意識が覚醒することはない。
ただ一仕事を終えたという心地よい疲労感に包まれ、ゆっくりと意識が沈んでいった。