10話(1):なんだか妻の様子がおかしい
アトラス視点です。
「平凡な女だな。可もなく不可もなく」
貴族の結婚式もまた、社交の一つ。
たいした交遊関係がなくても、しがらみにあわせ、この場に居合わせることになった招かれざる客もいる。そういった人間は、自身が思ったことを、容赦なく口にする。
僕の妻に対するこの言葉。
目につくワインのボトルを手に取り、頭から浴びせたい気持ちになる。
だがそんなこと、想像するだけだ。
現実では聞かなかったことにして、やり過ごす。
僕は今日、妻に迎えたセレナのことを、とても気に入っていた。
縁談話が浮上した時、政略結婚なのだからといろいろと諦めていたが。
彼女の優しい笑顔をみると、サンルームで日光浴をしているように、気持ちが和む。
心無い招かれざる客の言葉など、忘れることにする。
◇
「若奥様ですよ、この文字は。若奥様が作成された、模様替えのリストを見ました。これと同じ文字でしたよ。流麗な美しい文字。若奥様の心が反映されているようです」
補佐官のクルースの言葉に、驚くことになる。
結婚してから一ヵ月。
大騒ぎがようやく収まり、日常が戻りつつある。
日常……ちょっと違うな。
新しい日常だ。
十八歳でセレナは、この屋敷で一緒に暮らすようになった。
その日から食事やお茶会を共にしている。
たまに外出も一緒にしていた。
だが結婚したことで、夜も共に過ごすことになった。
これは……劇的な変化だ。
伯爵家の跡取りとして、喜怒哀楽の感情をコントロールするようにと言われてきた。
特に商会経営においては、冷静な判断力が問われる。
よって妻と過ごす夜に、とてつもない喜びを感じていたが、それを表情に出すことはなかった。
だが。
ずっと触れたいという気持ちを我慢していたのだ。
ついにそれを許された時は……。
いや、今はそうではない。
彼女の柔肌が浮かんでしまうが、今は目の前の書簡だ。
「それではこの領民が抱える悩みや不満を、妻が……セレナが、この書簡にまとめ、とるべき対策まで書き込んだと言うことか? しかも匿名で」
「はい、その通りです。若奥様は、若旦那様や伯爵様を立てたいのでしょう。自身は前に出るつもりはない。あくまで陰ながら、サポートされるつもりなのかと。よって私から聞いたことは、内緒にしてください。若奥様のために」
「分かった。セレナに何か言うつもりはない。だがこんな情報、どうやって手に入れたのだ?」
そこでクルースは驚くべき言葉を口にする。
「領主様のところに、陳情に来る平民もいます。ですがそのような場に、若奥様が立ち会ったという話は聞きません。恐らくお忍びで、町に出ているのでしょう」
「……! そんな、セレナが一人で!?」
「いえ、そこは聡明な若奥様のことです。護衛は連れていると思います。こんな風にサポートしてくれるなんて、賢妻としか言いようがありません。若奥様のこと、大切にされた方がいいですよ」
クルースの言葉に、心の中では「当然だ!」と叫んでいる。
そんな危険をおかしてまで町へ出て、領民の不満の声を届けてくれるのは……。
父上や僕のためなのだろう。
そう思うとセレナの献身に、胸が熱くなる。
こんな風に気持ちが高まるのは、セレナに対してだけだ。
本当に彼女と結婚できてよかった。
これは決して政略結婚などではない。
僕にとって限りなく幸せな結婚だと思っていたのだが……。
◇
伯爵家の次期当主である僕に求められる役目の一つ。
それが後継者の育成だ。
だがまだ肝心の子宝に恵まれていない。
セレナには体調管理をしてもらい、跡継ぎを作るに相応しい日を教えてもらっている。そしてその日に、子作りに励むのだが……。
本心ではもっと彼女の寝室を訪れたい。
だがそんなことをすれば、自分がすべきことをすべて放棄し、寝室から……出られなくなりそうだった。理性を保てず、ただ彼女との営みだけに没頭してしまいそうで……。
今のペースでいいのだ。
自我を保ち、次期当主としてすべきことに、邁進できているのだから。
そう。邁進し、集中できていた。
僕が執務に集中できるのは、セレナのおかげでもある。
セレナは、定期的にあの書簡を届けてくれた。おかげで領民からの陳情はぐっと減っている。陳情に割かれる時間が減り、その分、計画的に事業を進められた。既に父上も母上も、彼女の献身を知っている。本人だけ何も知らないのは、可哀そうではあるが……。
匿名で動いているのだ。知らないふりをすることが、正解のはず。
それに最近は、領民のために宴を開くことさえ、自ら実践して見せてくれた。宴をするようになってから、領民の士気がさらに上がっている。農作物の生産量も上がり、畜産業でも数字が伸びていた。
セレナは僕には勿体ない程の、実に素晴らしい女性だった。