屋台と幽霊と……?
「あんた知ってるかい。この頃この辺にゃ、幽霊が出るんだってよ……」
「――へ?」
リヤカーを改造したラーメン屋台の、狭いカウンターの最右翼でチャーシューメンをたぐっていた青年は、赤ら顔の老人に声を掛けられ緩んだ顔を向けた。傘岡の街中を流れる川沿いで桜が満開になった、四月頭の心地よい夜のことである。
「桜の木の下に出る幽霊……ってことですか?」
「まあそんなとこなんだが、ちょいと物種が変わってる。――ラーメン屋台の幽霊なんだとよ」
「へ、へえ……」
自前なのか、それとも馴染みの客なのでキープボトルと洒落ているのか。一升瓶を抱えた老人を横目に見ながら、青年は冷たい汗が服の裏地を伝うのを覚えた。飲み会の帰りがけ、シメの一杯と思って入った、前世紀の遺物のようなこの屋台――。たしかにこの店そのものが幽霊だと言われたら、納得してしまいそうな気配はある。
「そういえばご主人、どこ行ったんでしょう。急用ができたからしばらく店番を頼む、なんて言ってましたけど……」
「ほら見ろ、雲行きが怪しくなってきやがった。そういや、江戸の本所七不思議にもあったなぁ、二八そば屋の幽霊ばなし……」
「あれは明かりのついてない無人の屋台の話でしょう? ――バカバカしい、本所七不思議なんていまどき、芝居噺でもやらないのに」
青年が否定したその途端、狭い川面から吹き上げた風が屋台の中へ入り込み、背後の「ラーメン」と染め抜いたのれんを盛大にゆらした。堰を切ったように吹き出す汗で、青年の背中はすっかり湿っている――。
「じ、じゃあやっぱりこの屋台は……!」
「――うちの店がどうかしたのかい?」
聞き覚えのある声に青年が振り返ると、最前屋台を離れた、丸坊主の陽気な店主がにっこりと笑って立っている。
「ごめんなぁお兄さん、オレとしたことが割りばしの残りが心もとなくって。ちょっとコンビニまで行って買い足してきたんだ」
「あ、ああ……そうだったんですね。まったくもう、人を怖がらせて――」
並んで座っている老人へ文句をたれようとした青年だったが、そこには相手の影も形も、それどころか目につくあの大きな一升瓶も見当たらない。
「お、親父さん、さっきまでここにいたおじいさんは……?」
「ン? なんのことだい。お兄さんが来るまで、オレぁずっと一人でお茶引いてたんだぜ」
「えっ、そ、それじゃあ……」
湧き出る汗も切れ果てて、青年はだんだんと血の気が引いてゆくのを覚えた。つまり怪談話を振ってきた老人こそ、この世の者ならざる存在だった、ということではあるまいか……!
「ご、ごご……ごちそうさまでしたっ」
震える手でつかんだ小銭をカウンターにたたきつけると、青年はそのまま、わき目もふらずに屋台を後にした。その様子をしばらく、店主は唖然とした顔で見つめていたが、
「ちっとばかり、前振りが効きすぎたんじゃないのかい?」
と、いつの間にかカウンターの最左翼に座っていた件の老人へ話しかける。
「――かもしれないねえ。まあしかし、本所七不思議を知ってるたぁこの町の人間、学のあるのが多いらしいな」
「となると、今度はもうちっと手のこんだやり口のほうがいいかもしれねえやな。――ひい、ふう……まあ、こんだけあれば上出来か」
カウンターに散った小銭を数えてポケットへ入れると、店主は老人のほうを向いて、
「そいじゃあひとつ、河岸を変えるとするかねえ」
「ほいきた」
景気のいいかしわ手が二つなると、それまで桜の木の下に立ってた屋台は煙のように消えてしまった。人目と車を逃れるよう、丸々太った狸が夜の街目指してかけていったのはその直後のことである――。
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