匣
白い部屋の噂話。
誰もが辿りつけるわけではなく
誰かが知ってるわけでもない。
偶然に迷い込めば、残っているのは絶望のみ。
◇
昇っては沈む日の様に。
灯っては消える命の様に。
黒があれば、白もある。
◆
人は誰しも、ふと立ち止まることがあるんだろう。
懸命に駆け抜けてきたその道が、途端に途方もないものに感じたり。
或いは息切れを起こし、呼吸を整えようと思ったり。
立ち止まる理由は数あれど、それでも全員が全員で、一生を何の躊躇いもなしに駆け抜けられる人はいないんだと。
僕は最近になって、実感する。
子供の頃の僕は、そんなこと理解すら出来なかった。
体が大きくなり、"自分"という世界が広がっていったとしても。
自分が何かに向かって走っている、なんて表現がしっくりこなかった様に思う。
小学校の頃 ―― 僕の世界が明確になった。
宿題のプリントをやり忘れたり、保護者への手紙を両親に渡さなかったり。
両者は決まってランドセルの底で、まるで色々な欲望に討ち負けてしまったとばかりにくしゃくしゃになっていた。
僕はそれを見て何も思わなかったし、仮に何かを感じたとしてもそれは「興味のないもの」という認識以外になかった。
中学校の頃 ―― 世界が少し広がった。
異性を意識してみたり、同性に対抗意識を燃やしてみたり。
クラスでも浮いた存在を馬鹿にしつつ、それでも羨望の眼差しを向けていたあの頃。
自分の将来の道だとか。自分がやりたいことだとか。 大人という自分を漠然と思い描いたところで、
"その日の放課後、クラスメイトと遊ぶこと"を超えることは無かったかもしれない。
もう少し長いスパンで考えたって、せいぜい数か月先の楽しみを意識する程度で止まっていた様に思う。
高校の頃 ―― 更に世界が広がって、初めて奥行が生まれた気がした。
異性という存在がもっと身近になり、自分という隔離された境界線を超えてくるのを感じた。
今までは対抗やら共感やらと言った意識しかなかった同性に、どこか線引きをし始めた。
自分の人生 というものに奥行きが出て、漠然としていた将来へと進む道のりを考える。
具体的に「何をして、そこに行くのか」という部分と、「自分という存在が向かえる限界値」を認識し始めた。
家族や親。経済状況や色々なものを加味し、純粋に「こう在りたい」が通用しないと知った。
大学の頃 ―― 自身の世界が概ね"社会"に取り込まれた。
既に自分という世界。その概念が消失した。
自分の中にあったものはいつしか希薄になり、自分が中心だった世界が変わって。いつからか自分"が"世界の一部に置き換わる。
必要とされる役割に向かって何かを考え、その役割を忠実にこなせることこそが誉だと思う様になっていった。
付き合い始めた彼女の要望を理解し、アルバイト先で求められる仕事をこなし、
親の言い分通りの就職先に合致する人物像に変わっていった。でも、その頃の自分にしたって、今にして思えばそんな意識は全くなかった。
僕は僕なのだと言い張り、無意識の虚勢を張り続けた。
学校から提示される成績は機械的な判断材料となり、「より権威のある企業への就職」と言う視野が大部分を占めていた。
僕は一般的な企業へと就職した。
研修を通して個性を殺し、就業という義務をこなすだけの歯車となった。
「僕は一般論ではなく、自己の考えを持っている」と言い張り、思い込み、上司や顧客の評価のみに目を向けた。
即ちそれは、社内での立ち位置であり、給与額であり、社内評価に限定された。
ライバルを蹴落とし、上司を引きずり下ろし、大勢の部下を従える。
有名なブランド物で着飾り、誰もが羨む異性を口説き、意識の外側から怒鳴り続ける「空虚」を黙らせるだけの日々。
ここまで通して、僕は自身を振り返ることをしなかった。そんな暇など微塵もなかった。
確かに立ち止まることはあったけれど、その場で止まり、息を整えて再び足を運ぶ。一種のインターバル程度だったんだろう。
決して後ろは振り向かず、自分の行き先を再確認することは無く、「目的地などはあとからついてくる」なんて屁理屈の上に胡坐をかいて、
「走っていることが正義である」と言い張って、再び足を前へと踏み出す。
それが当たり前だった。
それしかやり方を知らなかった。
だから僕が。そんな僕が足元を掬われたらどうなるか。ここに至ってまだ、全く考えていなかったんだろう。
懸命に走り続けてきたからこそ。大きな転倒なんてしなかったからこそ。転び方がへたくそなのは言うまでもない。
僕は大きく転んだ。もう自力で立つことは不可能な程に転倒し、
そうして僕の人生は停止する。
命がどうこう、などという病気ではない。
ほんの少し、開いていたスロットルを絞れば済むだけのものではあったが、僕は職を失った。
常に全力疾走を要求されていた組織で、足を緩めることがあればそれは悪だ。
過去に僕はそうやって足を緩めた人々を蹴落としたし、だからもし蹴落とされる側が自分になったとて、文句など言えないだろう。
僕が今までしてきたことは、いつか僕がされるということを許容したと同義になる。
僕は職を失った。
そこそこの退職金を受け取った僕は、それでもあまり焦りはなかった。
貯金をしていた。暫くは無職であっても最低限衣食住は守れるだけの蓄えがあった。
でも、人間不思議なもので。
今までは「時間がないから諦めていたこと」をいざやっても、時間は存外有り余る。
仕事で忙殺していたからこそ断念していたことをやってはみても、それも二か月もあれば尽きてしまった。
次の職も考えたが、それは医師から制止された。故に僕は自堕落に、文字通り、ただ息を吸う為だけに生きていた。
僕に転機が訪れたのは、失職してから三か月も半分が過ぎた頃。
とある異性と知り合った。
彼女は僕の友となり、師となった。
とても本が好きな女性だ。活字という活字を読みふけり、空想の世界に潜っていた。
そんな彼女の影響で、僕も活字に眺め始めた。
読書なんてものを改めて考えてみたが、学生時代からどうにも苦手で、社会に出ても変わることのなかった僕は、初めて文字による世界を知る。
目的もなく、ただフラフラと歩いていたこの日。何を思ったのか僕は、近所にあった喫茶店に立ち寄った。
無論、入ったことなどない店で。僕はそこまで珈琲や紅茶にこだわりがある人間ではないのだが、それでも何を思ったのか、
店から微かに漏れ出る香りに足を止め、店へと入る。
チェーン店やらファーストフードやらが猛威を振るう昨今に、昔ながらの店構え。
夫婦で経営する喫茶店。奥様に促されてついた席のちょうど向かいに、彼女はいた。
静かにカップを口元へ運びながら、手元に開く本へと目を落としている女性。
一瞬僕は目を奪われ、けれどすぐさまメニューへと目を戻した。
特に何があったわけでもない。 特に何を意識することもない。 ただ何気なしに「綺麗な人だな」程度の月並みな感想を心の中で呟いて、
僕はブレンドコーヒーを頼んだ。
彼女との出会いは些細なモノであり、特筆すべきことはない。
本当に小さなきっかけで、僕は彼女と話す様になった。
彼女は僕の家からそこまで遠くないアパートに暮らす学生さんだと言った。
思っていたよりも随分と若く面食らったが、とはいえ好きだの嫌いだの、愛だの恋だのと言った感情を抱くことは無く、ただただ話し相手と認識していた。
そんな彼女に進められた本。有り余るだけの時間を使うにはうってつけだと感じたからこそ。その日から僕の生活に「読書の時間」が追加される。
最初こそ目が痛くなり、肩が凝り、頭が重くこそなったわけだが。
人間の適応能力をなめてはいけないと実感した。読書をする生活を始めて半月も経たず、それは立派な僕のルーティンに組み込まれた。
週に一度。どちらから約束をするでもなく、僕と彼女は喫茶店で話をした。
七分の一。時間も大きな差異はなく。僕が店に顔を出すと、そこに彼女がいる。時々彼女の姿が見えない時こそあれど、
すぐさま彼女が僕の席へとやってくる。
渡された本の感想を言い、お互いに思ったことを伝えあう。
彼女の注文したダージリンのいい香りと、僕の注文するブレンドの苦みが僕たちのデフォルトだ。
彼女の勧めで僕の生活から読書というルーティンが消えたのは、彼女と知り合って二か月後。
週に一度の意見交換はこの頃から、僕の綴った世界の話にシフトした。
彼女は僕の書いた物語を喜々として語り、僕は恥ずかしがりながらその言葉を聞いた。
「これはうまくできた」と思うときもあれば、「なるほど、こう読み解くのか」と感心する時もあった。
そもそも、僕の人生において「創作活動」なんてものがなかっただけに、最初はおそらくと言わず、目も当てらないものだっただろうに。
彼女はそんなことなど一切おくびにも出さず、僕の描いた物語を語ってくれた。
こうして、僕はなんとなく。 物語を描き上げる という歯車に変わった。
それは、彼女と会うことのなくなった今でも続いているし、彼女のくれた数々の感想を基盤として、今尚僕の生活を組み立てている。
◆
ある日。目覚めると僕は、四方が白に覆われた部屋にいた。
八畳程もある空間。囲む四方と同じだけの長さを有しているからか、天井がいやに高い。
目覚めた僕は、部屋の中央に置かれた椅子に腰かけていた。
お世辞にも「しっかりした」とは言えない、簡素でありふれたパイプ椅子。
僕はその椅子に座った状態で目を覚ます。
辺りを見回せども、然したる特徴があるわけでもなく、機械的に複製された様な壁が横軸に四面、床一面。
唯一違いを挙げるのであれば、穴の開いた天井だろうか。
穴とは言えど、向こう側を見ることは出来ず、見つめていれば吸い込まれてしまいそうな暗闇の広がる穴。
僕一人を悠々と飲み込めそうなその混沌が、決して揺らぐことなく僕を見下ろしていた。
不思議なもので、光源は見当たらず。それでいて中は鮮明に白い。どこに光源があるのかがわからないが、
部屋の内部は面食らう程明るかった。
僕は立ち上がり、真正面にある壁へとゆっくりを歩みを進めてみた。何が起こるかわからない為、恐る恐る壁へと向かい、
何事もないまま壁へと到達する。
壁に手を伸ばしても、しっかりとした壁の存在を確認できるだけであり、何が起こる訳でも、感触がおかしなわけでもない。
次いでそのまま壁に手を当て、壁沿いを歩いてみた。が、やはり何が起こるわけでもなく。
慎重に歩みを進め、気付けばもといた場所へと戻ってきた。
何もない部屋。何も起こらない部屋。ただただ不気味な程に白い部屋。
少しだけ拍子抜けした僕は、やることもないので椅子へと戻った。部屋の中央におかれた椅子。
腰を下ろし、天井に広がる暗闇へと改めて目を向けてみる。見上げども、目を離せども、何も起こらない黒色。
この空間は何なのか。僕はどうしてここにいるのか。これから僕はどうなるのか。
考えようにも手掛かりなどというものは一切存在しない為、考えることを放棄した。
あれからどれだけ時間が経ったのか。時間を計測する機材すらもない部屋の中。ある変化が現れた。
視覚的なものではなく、それは音という形で認知する。
僅かな風切り音が天井の穴から響き、地鳴りの様な音がする。規則的に刻まれる音は、聞きようによっては何者かの足音にだって聞こえるだろう。
とは言っても、おそらく僕たちが普段聞くような足音ではない。地鳴りと表現しただけあって、その音はかなり大きな何かの足音。
映画やアニメにありがちな、恐ろしく巨大なものが立てるだけの大きな音だ。
ただし、この部屋や僕にその振動は伝わらず、音のみが響いてくるので、なんとも不思議な感覚に襲われた。
映画を見ている様な感覚、とでもいえばよいのか。微かに穴からは風らしきものが入ってくるが、断続的に響く地鳴りはどこか他人事だった。
風切り音と地鳴りが消えたのは、聞こえ始めてから十五分くらい経ってから、だろうか。
あくまでも体感的な時間の流れであり、正確なものは不明。ただそのくらいの長さ続いた音が止まり、次いで大きな音が、僕の左右から響く。
マイクに何かが擦れた様な音の後。完全に無音になる。
と、突如人間の声がした。
「ここに話せば、いいんですか?」
年配の男性だろうか。声には疲れが見て取れる。
「はあ・・・。まあ、じゃあ話してみますね。あー、あー、聞こえてますか」
自発的に発している言葉ではない。まるで話しかけろと誰かに言われている様子で、その声は言葉を紡ぐ。
僕は静かにその言葉へと耳を傾けることにした。多分、この部屋にはマイクの様なものもない。姿が見えない以上、そして僕の声を外に出力する
機材の存在がない以上、僕が今声を挙げても意味などないっと知っているから。
「そうですね。返事なんてないか。ちょっと話し辛いですけど、まあ頑張ってみますよ。
え? 今の心境ですか? そうだなぁ。なんと言いますか。少しだけ、寂しいですね。
そりゃあ私の今までが、そこまで充実したものだとは思えませんけど。でも、やっぱり手放すってことを考えれば多少は。
私ね。海沿いの小さな町の生まれでして。
まさか都会に出てきて仕事する、なんて夢にも思っていなかったんですよ。
この町で暮らして、結婚して子供育てて。家業を継いで孫を見て、みたいなね。そんな生活を漠然と考えていました。
ただ、ほら。偶然というのかな。学校での勉強でほんの少しだけ、順調に行ってしまったんですよ。だから教員には
都会の大学に進学したらどうだって。私としてはまあ、どっちでも良かったんですけどね。それ聞いたら両親も乗り気になっちゃって。
周りがそんなもんだから、まあ若い時分の私としても「ああ、そんな選択肢もあるなぁ」なんて考えてたんですよ。
実家は漁師だったんですけど、朝早くから父と母が仕事してるのを見てて、自分がいいところに就職出来たら楽させてやれるかなーとか、
まあそんな程度に考えて上京したんです。そしたらほら、あんまり娯楽ってのが身近がじゃなかったでしょ。
こっちの大学に入ったらまあ、その。お恥ずかしい話ですけどちょっと遊びが楽しくなっちゃって。
そこで今のカミさんと知り合ったんですよ。
ちゃんと考えてなかったんだけど、どうにもその時はお熱でね。若いってのはまあ、そうなんだなって。自分も子供育てて思ったもんですけどね」
声は少し照れながら、そう言った。
今僕は何を聞かされているんだろうか。なんて思いもしたが、物語を作るようになってから、僕は人の身の上話を聞くのが好きになっていたので、
あまり抵抗なく話を聞いている。何故、彼の言葉を聞いているのかはわからないが、何もない空間に聞こえたその声は、
僕の退屈を押しのけるには充分すぎるものだった。
「人様に誇れる程の大恋愛って感じじゃなかったんです。だから勿論、結婚してからはそりゃあ、迷惑かけましたよ。
カミさんにも子供にもね。家族を養っていかなきゃならんというのが重圧でしたし、その意識が仕事をする上では重要なことだと思ってます。
ただそうすると、上京した時に思っていた考えってのはないがしろになってしまうもんなんですな。
実家に仕送りをするはずが、そんな余裕もないまま、あれよあれよと子供が大きくなった。あなた、お子さんは?
―― ああ、よかった。そうなんですよ。習い事だとか、学校選びとか。結構お金がかかってきてね。
とはいえ、それは重要なことだと私も分かっているから、なるべく子供の希望に添える様に、更に私は身を粉にして働きました。
いつしか同僚たちが昇進していくのを見送りつつ、自分も適当な役職をもらったりなんかしてね。
一生懸命やってきて、子供が成人して、結婚して見送って。私なりに"頑張ったな"なんて気恥ずかしくなってみたりね。
ウチは一人娘だったもんで、嫁にやる時にいろんなこと思い出してね。本当に、こんな父親でも慕ってくれて嬉しかったなぁ」
遠い記憶、なのかもしれない。最初に聞いた、疲れた声はいつしか弾む。
自分が自分である証明を、彼はこの部屋にいる、誰ともわからない人間に話しているのだ。でも、悪い気はしなかった。
僕が歩みはしなかった道のり。僕が知らない別の世界の物語。でもそれは、決して空想なんかではなく。
確かにこうして話す彼が辿った、実際に存在している世界なのだと知っていた。
「だからね。そこまで誇れない人生だったとしても。それでも私にとってみれば大事な一生だと思える。
あなたはまだ若いだろうから――なんて、老人が言っちゃあおしまいなのかもしれないけれど。でもあなただってきっと、
私と同じことを思ってくれるんでしょう。この言葉が言えることこそが、年の功っていうのかな。先に生きてきた者の特権なんですよ。
でも、何でしょうね。誇れることがあったからこそ。これだけ懸命に走ってきたからこそ。それを失うのは寂しいもんです。
娘はもう嫁いでしまってるからあれですがね。残ったカミさんは大丈夫だろうか。とか、私の後任はちゃんと仕事をこなしてくれるか、とか。
この間生まれた孫の成長がもう見れなくなってしまうとか。色々とね。欲深いもんですよ」
僕は息を呑んだ。これは、そういうことなのだろうか。
この言葉は、目的地へと走り続ける類の言葉ではない。すでに目的地が見えている者の発する言葉。
既に何かが終幕を迎えることを悟った人間の言葉。僕は今、それを聞いている。
「―― え? 最後に? そうですか。
うーん、困ったもんだね。どうにも恥ずかしくなってしまう」
微笑んでいるのかもしれない。力なく笑っているのかもしれない。
名前も姿も知らない老人の声は、形容しがたい声色を発し、暫くの間停止した。
「ユキエ。小さい頃、なかなか遊んでやれずに済まなかったね。父さんによく怒っていたけど、それでもちゃんと父さんを大事にしてくれて、
ありがとう。お前の結婚式で、涙が堪えられて良かったよ。そこは父さん、自慢だな。でも、素敵なウェディングドレス姿をありがとう。
子育ても結婚生活も大変だろうが、トモユキ君と力を併せて、これからも頑張ってください。
トモユキ君。ユキエは少し気の強いところがあるが、それでもやっぱり女の子だ。私が偉そうなことを言えた義理でもないが、
そんなあの子を支えてあげられるのは君だけだということを、どうかわかっていて欲しい。そうして出来れば、私の様な父親にはならないでくれないか。
家族を大事に、子供との時間を沢山作れる、そんな父親になって欲しい。
私はこの年で。私は今になって後悔しているんだ。だから君は、こんな後悔をせずに生きて欲しい。頼んだよ。
サエコ。長いこと迷惑かけてすまなかった。長いこと、私の面倒を見てくれてありがとう。
お前に会えて本当に幸せだと、直接言うのはどうもな・・・恥ずかしいから。だからここでこっそりと言うよ。
私を見送った後もどうか・・・最後の最後まで楽しんでおくれ。私がいたから出来なかったことや、私の為に諦めたことを沢山経験して欲しい」
そうして。
この部屋に響いていた言葉は結ばれた。
◆
再びの静寂。相も変わらず白色の壁に囲まれた部屋で僕は、この空間で僕以外の唯一の物体であるパイプ椅子に座っていた。
先の言葉を反芻し、先の声に思考する。
姿ない声。誰のものかもわからない言葉。
何故僕のいる部屋に響いていたのかは不明であり、どうして僕があの言葉を聞くに至ったのかも不明。
それでも、あの言葉を聞き流すことは出来ないでいた。
本来僕が聞くべきではない言葉。
別れの言葉ともとれるそれは、決して僕に向けられたものではなく、あの声の主が発した追憶と願い。
終わりの見えない思考の迷路を右往左往していた僕は、再びあの音を聞く。
風切り音と、巨人の足音。
つまりはそういうことなのだろう。
次に聞こえるのはきっと ―― くぐもった、何かの擦れる音。
「あらあら。これは何かしら」
次は、女性の声だろうか。前の男性とは違い、声色にネガティブな要素は含まれていない気がした。
年齢は彼よりももう少し上なのかもしれない。穏やかであり、品のある声。数多の困難を乗り越えてなお、確たる芯を据えた高貴の声。
「コウタロウさん。貴方、最近はどこにいたの。私の心配もお構いなしで。若い頃のままなのはいいけれど、
私がおばあちゃんになってしまった様に、貴方ももうおじいさんなのだから。ダメよ」
どうにも声が遠いのは、おそらく音を拾う何かから顔を離しているかもしれない。
きっと誰かと、この箱以外の何かに声をかけているのだけはわかった。暫く遠くの方でやり取りが行われていたであろうことがわかり、
僕は暫くその声を注意深く聞いた。
声の主は、コウタロウという名の男性と会話をしている様子ではある。が、僕の聞こえる範囲で、その男性と思しき声は一切聞こえない。
多くが聞き取れないやり取りであったが、そうこうしていると女性がため息交じりに声をかける。
今までとは違い、明確にこちら側へと顔を、意識を向けた声。
「全く。私がいくら歳をとったからと言って、意地悪しないで欲しいものだわ。それで、こちらに私がお話をすれば良いのかしら」
言葉だけを並べれば、あまりいい気分ではないとも思える内容なのだろうけれど、
声は僕が今まで聞いたどの言葉よりも優しく、穏やかなそれだった。
彼女は本当にコウタロウさんを慈しみ、愛しているとわかるそれだ。彼女は続ける。
「今の気持ち・・・・そうねえ。とっても幸せな気分よ。長らく会っていなかった貴方に、こうして会えたのだから。
若い頃に貴方と初めて会ってから、あの日貴方とお別れして以降、今日まで私は貴方をひと時も忘れたことなどなかったの。
会社の若い子たちはすぐに"新しい人を見つけた方がいい"なんて言っていたけれど、私からすればダメね。
他の方に、この思いを向けることなどは出来なかったのだもの。私、貴方が思うよりもずっとずっと、貴方を愛していたのだから」
悪戯っぽく笑っている声。自然と僕の顔も緩む。
「私と貴方について、良く思わない人々もいたことでしょう。だからそんな心無い人々から
コウタロウさんが亡くなった、なんて聞いても、私は信じずに待っていたのよ。だってそうでしょう?
貴方は私を残して逝くはずがないのだから。お互いにおばあさんとおじいさんになったとしても、その結果に子供を授かることがなかったとしても。
それは仕方がないことだとわかっているわ。子をなすことだけが正しいわけではないのだから。私のお父様もお母様もしきりに心配なさっていたけれど、
私はコウタロウさん。貴方を思っていたからこそ、一人で懸命に生きてきたわ。え? そんな。感謝こそすれ、貴方を恨んだことなど一度もありません」
人の道は、それぞれ違うものだと思う。それは僕も同じ気持ちだし、同じ考えだ。
先ほどの男の人は、子を育てたことで幸せを得た。でも、それが万人の幸せの形と言えば違うんだろう。
今、こちらに言葉を投げかける彼女にすれば 想いを寄せる人と添い遂げることこそが最大の幸せだった。
例え人生の内、大半を離れ離れで過ごしていたとしても、彼女の心には常に最愛の人がいたんだとわかる。
恨み言などではない。
穏やかで、優しい声色で。
上品に、恥じらいながら。
彼女は心にしまっていた溢れんばかりの愛を今、此処でゆっくりと解いている。
「覚えていますか? 私と貴方が初めて会った時のことを。
お父様の開いたパーティで、貴方は私に声をかけてくれた。家の為に婚約者を集うあの場で、貴方は私の財産や地位を抜きにして、
私に声をかけてくれましたね。とっても嬉しかったわ。そうして一緒に庭に出て、星空を眺めて。
ふふふ。私、あの日のことは昨日のことの様にはっきり覚えていますもの。あんなに素敵な夜は、あの日々の中にしかなかった素敵な思い出。
お父様とお母様は最初、あまりいい顔をしていなかったけれど、私は貴方と過ごしたあの日々がとても楽しかったのよ。
貴方が通っていた学校を卒業するときに、遠くへと行ってしまうと聞いて心が壊れてしまいそうになったけれど、
いくつになっても、何年経っても、いつか貴方が迎えに来てくれると言ってくれたから、私はずっと待てていたの。
コウタロウさんに似合う、素敵な女性になれる様に自分を磨き、辛く悲しいことがあっても弱音を吐かない人間になろうと思えたの」
息を吸う。ゆっくりと。穏やかに。
彼女の追憶を邪魔してはいけないのだ。姿が見えない彼女は、きっと僕なんかが理解出来ない程の努力を重ね、そこにいる。
この想いに触れていいのか怪しいところはあるものの。僕は彼女を尊敬した。
人を想うということを、僕は果たしてどこまで理解していただろう。
好きになるとか、愛しているとか。そこに打算が含まれるとか無償の愛だとか。月並みな言葉を並べることは容易い。が、
彼女から漏れ出るそれは、すでに言葉で言い表せる類のものではもうないのだろう。
気持ちがもっと別のものに昇華したもの。 僕たちはそれを、一体何と表現すれば良いのだろうと思うだけ。
彼女の言葉は深くて重い。
「今日、こうしてコウタロウさんと再会するまで。正直言ってとても辛いと思っていたのよ」
急に、彼女の声色が変わる。今までの優しさは残しつつ、悲しみを含んだ声。
表情もしぐさも得られないという状況だから、なのかもしれない。声色のみで何かを感じる僕は、頭上に開く大きな穴へと目を向けた。
「私、強がり過ぎてしまったの。だから今の私に身寄りがないのは仕方のないこと。わかってはいるのだけれどね。
此処にいる方が私のことを異常者とでも言いたそうにしているの、気付いていたわ。私はもう物忘れが激しくなってしまったと言って、
小さな子供をあやす様に私に声をかけてくれるの。彼女たちもお仕事だということはわかっているわ。でも、とても傷ついた。
私のお友達が久々に会いに来てくださったというのに。
その人は違いますよ。
なんて意地悪なことばかり。だから私はとても辛かったわ。先ほどだって、こうしてコウタロウさんが私をお迎えに来てくださったのに、
その人はコウタロウさんではありませんよ。
だなんて、意地悪ばかり。けれど、きっと貴方であればそんなことを言われたら、とてもスマートに対応してしまうのがわかったから、
私も飛び切りスマートにしなければって。貴方の隣に立てる女性になれませんものね」
優しさの後ろにあった何か。
マイナスの感情ではない。負の要素ではない。それでもどこかにあった危うさの様なものの正体。
明言されていない事実であっても、僕の脳裏に一つの仮説がぼんやりと浮かんだ。
彼女が話始める前のやり取り。拾いきれなかった言葉の数々。その正体がなんであったのか。
現在までの時間軸がなく、人生の中腹がほとんど反映されていない記憶。
はじめはそれこそが「鮮明な記憶」なのだろうと思っていた。しかし多分、この言葉 ―― 彼女の言葉には、
一年前、一か月前、昨日 そういった概念がすでにない。ふわふわと曖昧になっている出来事を自身の奥底に押し込めた。というものではなく。
そもそもその柔らかすぎる情報を、すでに情報として保持出来ていないからこそ。彼女の言葉に順を追う、というプロセスがないのかもしれない。
ただ、負の記憶というものは、大きな衝撃であればあるほど残るもの。靄のかかっている中であっても、それは明確に刻まれる。
否、それのみが強調してこびりつく。いつからなのかはわからないし、僕の仮説が正しいかなんてわからない。それでも一定の期間、
彼女はその痛みに耐え続けたに違いないのだろう。
確信はないにせよ、僕はそんなことを考えた。
「それにね。私だって本当はわかっているんですよ。もうきっと、あまり長くは貴方の隣にはいれないだろうな、と。
でも、良いんです。今までずっと、貴方を想い続けてきた。声も、姿も、思い出の中だけだった。そんな貴方とこうして、最期の最期に一緒に
いられるのであれば。私はとても、幸せですから」
思わず顔を伏せる。
「はい――? 最後に何か? ・・・・うーん、そうね――」
僕には計り知れない経験をし。僕には今後、到達することも出来ない心を以て。
辛い思いをしながら、それでも何にも負けずにいた彼女の言葉は、不意に明確な方向性を持って、僕の元へと発せられる。
「姿の見えない素敵なあなた。 私はとても幸せでしたよ。
あなたは胸を張りなさい。私の言葉が聞こえているかは存じませんが、私の短い一生は。
少なくとも私自身は。この生涯を誇らしいものと思っています。
あなたは一体 どうでしょう。私に答える必要なんてありませんよ。貴方の胸に問いかけて御覧なさい」
"最後は笑顔で迎えなさい"
それが僕の聞く、最後の彼女の言葉だ。
◆
僕はこの時間が嫌いだ。未だ二回しか体験していないことにはなるが、それでもこの無音がとにかく精神を蝕む様な気がした。
目覚めた時の静寂とは別の何か。それが部屋には充満している様に思えるのは、おそらく本来他人が垣間見るものではないものを見せられているからに外ならず、
あるいは何者かによってもたらされる悪意とはまた別の"無自覚の悪意"を突き付けられているからなのだろう。
過去から多く題材として取り上げられている「真実と偽物の線引き」なんてものはきっと、それを現実として目の当たりにしていない人間のみが
論ずることのできる題材だと、今の僕ならばすぐに議論を終わらせられる自信があった。
真実も偽物も、明確な答えを得ることが出来るのは一握りの人間であり、もし仮にそのどちらかをはっきりと認識した人間はきっと、
そんな議論すらも馬鹿らしくなるに決まってる。
だから"何が真実で何が偽物なのか"なんていうどうしようもないやり取りを行える人間は、
言うなれば、安全な場所にいるという安心感があるのだ。論じてる人間たちは知っている。
「真実と偽物の線引きなど、直視することがない」ことを。
これまで僕が聞いた声は、果たしてどちらかなのか。そんなこと、考えるまでもない。
彼らのそれは、確かに真実なのだろう。普遍的であり、定数的な真実などではない。万人に当てはまる真実などではなく、しかして彼ら、彼女らにすれば
それはまごうことなき事実なんだろう。ただの数分。彼らの断片を聞いてきた僕は――それを痛い程に受け止めた。
いいや、この場合は「投げつられた」とか、あるいは「叩きつけられた」とでも表現した方が良いのかもしれない。
自分の心の弱さから目を背ける様にしてそんな不毛なことを考えていたが、次の音が聞こえて僕は思わず体を強張らせた。
先ほどと同じ音。同じ構成、同じ流れの一連の音が、真っ白な部屋にただただ無慈悲に響いている。
この部屋を「真っ白」と形容した自分に腹が立つ。
音が止み、声がする。 果たしてこれは人の声だろうか。 先ほどまでは聞こえていなかった音がした。
ただ、その声が何を言っているのかがわからない。明らかに僕たちの用いる言語体系とは違っているそれが、果たして生命の発する音なのか、
はたまた「何か」が発する音なのか。僕には判断など着くはずもない。
「あなた、誰ですか?」
遠くの方で声がした。今度は明確に人の声。随分と若い女性の声。
僕はこの部屋の中で聞こえる声のその性質を知っている。確信にも似たそれを携えて聞いていれば、きっと僕以外の人間が此処に居たって、
全く同じことを思うに違いない。
腰掛けていた椅子の背もたれに、僕は上半身を預けた。
何も出来ない無力な僕。
ただただ声を聴くに終始し
いよいよ何をすることも叶わない。
不思議なことも、歪なことも何もない。そこにあるのは純然たる「不公平」の三文字。
きっと僕と同じくらいか、ほんの少しだけ僕よりも若い声だろう。心の中で二回だけ「やめてくれ」と呟いてみても、
勿論僕がその出来事に介入出来ないことは知っている。試したことなどないし、これから先、試そうとも思わない。でも、たぶんと言わず、
絶対に。僕の声が届くことは無い。
「・・・そうですか。わかりました。これに何の意味があるのかわかりませんけど、話せば良いんですね? 此処に」
戸惑っていた声の主は、次第に何かを受けれ入れた様な声色で確認をする。
「目的はわかりませんけど・・・話して欲しいと言われたので。その・・・話します。今の私の気持ちを」
もう長いこと、きっと彼女はこの声色だったに違いない。おそらくそれが彼女の通常運転だとわかる様な、馴染みを含んだ平坦な声。
何かを得、何かを失い、そうして諦めた人の声。この部屋の中で唯一聞こえた人の声は皆、そういったニュアンスを含んでいたが、
今声を聴いた彼女の声は致命的と言ってしまっていいんだろう。それほどに群を抜いていた。
先の二人にあった、諦めの中の希望、という色はない。悲しみと、怒りと、恨みと絶望。そのすべてを混ぜて混ぜて、
おおよそ人間が持つことの許されるだけの負の感情を大きく超過して、膨大なそれを悲鳴を挙げながら、涙を流しながらごちゃ混ぜにした様な、
何もない声色だと、僕は思う。
「今の気分は、何もないですね。私はもう、悲しむことも辛いと思うことも出来なくなってしまいました。
大事な人の前で、心配をかけたくないから飛び切りの笑顔を振りまいて。私は負けないんだぞ、って、自分じゃない自分が、
もう無理だって言っている本当の自分に叫び続けて。疲れることもなくなって。
だから私の今の気持ちは 何もない ですね」
言葉が続いた。
「きっと私はもう、随分と昔に死んでしまったのかもしれません。今こうやって何かを言っている自分も、もうどの自分だかわかりません。
誰が、誰に向かっている言葉なのかわかりません。だから私は何もない。
でもね、それでも心のどこか、どこかの誰かは笑っているんです。私は私なりに、幸せな人生だったんだって。
それは私かもしれないし、私が作り出した誰かかもしれない。本当にそう思っているのか、それすらも嘘なのかもわかりません。
その言葉はこう言うんです。
心配してくれる人がいて、涙を流してくれる人がいて、それだけでも幸せだったじゃないか。って。
本当の私なんて誰も見てくれないと思っていたのに、少ないけれども数人は、本当の私を見てくれて、声をかけてくれたんだって。
だから私も、最初は頑張ろうって思ったんです。誰の為でもなく、自分の為ですらなく。私を私と見てくれた人たちの為に
頑張って行こうって思えたんですよ。でも、思うだけじゃダメだったんだなって。"病は気から"って言うんですよね。だから私は気をしっかり持った。
いつか良くなって、みんなのところに戻れると信じていた。でも、それは無理だってわかっちゃったんです。
おかしいですよね。昨日もお見舞いに来てくれたテツジさんに"今日は調子が良いのよ"って、一昨日お見舞いに来てくれたカズコとみっちゃんにも
"良くなったらまた舞台見に行こうね"って。調子が良くなることなんてないし、もう見に行ける訳でもないのに。
テツジさんが昨日来てくれたのも、カズコとみっちゃんが一昨日きてくれたのも、看護師さんが教えてくれたら今日、わかっているだけで。
もう誰がいつ来たのかもわからない。今日がいつで、いつまでが今日なのかもわからなくなってしまっているのに」
呪いの言葉ではない。話の整合性が軋む。
僕は今、何を聞かされているのかがわからなかった。
果たしてこれは、この声の主の言葉なのか。この声の主は一人なのかすらもわからなくなる。
絶望しているようにも聞こえるし、安堵しているようにも聞こえる。当然本人が言うように「何もない」という虚無感がないかと言えば嘘になる。
聞く人によっては不気味なものに聞こえるかもしれない。
場合によっては呪詛ともとれるものかもしれない。
でも僕が聞いたのは 僕に聞こえたのは。
確かに 虚無 を感じる言葉。
色を失い、出来事の厚みを失い、動きや流れを失っている。滞ったそれは、以降流れは愚か、上下左右の概念が消失した空間にただただ
溜まり、辛うじて今までの流れ、流入した時の動きのみを持って混ざり合うそれだった。
彼女の言葉は全て真実何だろう。同時にそれは、彼女が今発することのできる最大限の偽物だった。
既に亡くなってしまった痛覚を手放したくない、というあがき。この嘘はその類のものだと感じた。
根拠はないし理由もない。僕は直感的に、そう感じた。
「私だって辛いって言いたい。もうやめてって言いたいのよ。でも、それを誰も許してくれない。
私の周りにいる人は皆、私が辛い思いをしていても、それを良くも悪くも思わない。何も思わないでただ見ているだけ。
みんなそう。私を憎んでいるならどれだけ救われたか。私を憐れんでいるならどれだけ助かったか。
でも、誰一人そんなことは思っていないの。私は心を殺されて、体だけが生き残っている。
これからも私の肉体が生きている限り、心を殺され続けるわ。だから私は心を生み出すの。次に殺される心を作って。
そうしてまた、生み出した心を殺される。それの繰り返し。意味なんてないって知ってる。誰も意味を求めていないことも知っている。
わかっているけど、心を捨てることがどうしても出来ないから、だから私は――」
今までとは別人の様な口調だった。怒りに寄った声色だった。
自嘲気味とはまた違う、自分自身を蔑む様な言葉で言い切り、彼女の呼吸が荒くなる。
はじめに聞こえた「得体のしれない何か」の声が再び響き、バタバタと数人の足音が聞こえた。
この部屋が移動をしている時の地響きではなく、確かに聞きなじみのある、どこか遠くで響く足音。
次いで方々から声がしたが、それは遠すぎて今の僕に聞き取ることは出来なかった。
喧騒 とでも形容すべき音の中、いくつかの機械音が響いているが、何より視覚的な情報が一切ない為、具体的に今、
声の主の元で何が行われているのかはわからなかった。
「大丈夫・・・です。聞かれたことには、答えないと・・・・」
随分と息苦しそうな呼吸音と共に、掠れ、今にも消えてしまいそうな声が響いた。
「テツジさん。愛しくて、忌々しい最愛の人。あなたは此処で 自由になる。
だから私を、今まで通り 無感情に 無慈悲に 凄惨に。 殺し続けてくれませんか。
自由になったあなたはきっと 私という記憶すらも殺すのでしょう。
それでも私は あなたを愛していました。 あなたを恨んでいました。
あなたは幸せになるべきです。 あなたは誰かの幸せをむしり取り、踏みにじり続けるべきです。
どうかお元気で。 それが私の、あなたに向けた最後の手向けに」
電子音が響き。色々な人の叫び声が聞こえる中。再び部屋に音がする。
きっと部屋が移動しているのだろう。三度訪れる沈黙に向かって。
彼女がどうなったのか、僕にはわからない。彼女が何故、あんなことを言ったのかわからない。
気付けば僕は、涙を流している。
◆
右も左も、前も後ろも分からない部屋の中。僕がこの部屋で目覚めてから、初めて口を開いた。
「もうやめてくれ」と。「これ以上は聞きたくない」と。
だってそうだ、いくら耳を塞いでも、まるで部屋全体がスピーカーの様に振動し、僕の体に伝播する。
聞きたくない言葉を、知りたくない人の道を。僕の意思などはまるっきり無視したままに、ただただ伝わってくるものだ。
これが地獄と言わずになんと言おう。
でも、僕の泣き言は。僕の懇願は。誰に聞き入れられないし、受け入れられない。その言葉は今まさに、僕の全身へと向かってきていた。
パイプ椅子を壁目掛けて投げつけてみた。
力の限り壁を叩いた。
床を狂ったように踏みしめてみた。
無論、何が変わるわけでもないというのに。
この壁は壊すことなど出来ないのだと、根拠もないのに知っていた。
パイプ椅子は物凄い音量を伴って壁に衝突したが、壁に傷がつくこともなく投げつけた椅子が無様に地面へと転がる。
両腕から血が滲もうと壁はぴくりとも動かない。まるでコンクリートを叩いている様に、表面と僕の皮膚があたる音だけがした。
足の感覚がなくなる程に思い切り地面を踏みつけたところで、微かな音が響いただけで、床が抜けるなんてこともない。
もう何をしてもこの部屋から出れず、音が止まらないことを悟った僕は、パイプ椅子があったところにうずくまり、せめてと血の滲む両手を耳にあてがった。
「あれ、病室間違ってしまいました? 僕の見舞いって感じじゃあ、ないですよね」
今まで以上に鮮明に聞こえた声。
きっとこちらに向けていない声だろうし、そこまで大きな声でもない。ただ、今までと違ってくぐもっていたり、
距離を感じる様なものではなく。今までの話の様に鮮明な、まるでマイクにしっかりと向かって話しているみたいな声がした。
聞きたくない言葉が始まったのだと観念しつつ、僕は力いっぱい耳を塞いだ。
「ああ、なんかそういうサービスですか。であれば僕には ―― いや、やっぱりいいです。
それで、僕はどうすればいいんですか? ・・・なるほど。それに向かって。わかりました。
あーあー。聞こえてますか? って、返事とかは特にないですよね。これ。あはは、すいません。
えーっと。ああ、なるほど。今の心境を言えばいいんですね。そうだなあ・・・・今僕は、案外すっきりしています。
確かにこの前までは自分でも恥ずかしくなるくらいに塞ぎ込んでたり、してましたけどね。家族にも当たり散らしたり。
でも、今はそこまで気持ちが荒れてはないんですよね。
一番はやっぱり、もう誰にも迷惑をかけなくて良くなるから、です。僕、生まれつき心臓悪くて。移植とか色々なお話は先生から聞いていたんですけど、
ウチそんなに裕福じゃないっていうか。あー・・・見栄張らないで言ったら貧乏なんすよ。今こうして入院してるのだって結構きついのに。
お袋と親父が無理言って個室の病室に変えてしまって。大部屋の方がいろんな人と仲良く話せたりするから気が紛れていんですけど、
でも個室も悪くないなーって。特にこの前までは、人様に見せられた感じじゃなかったすから」
身動き一つせずに、いいや。身動きなんて出来ないままに、僕はその言葉に耳を傾ける。
ずっと床を見つめたまま。ずっと耳を塞いだまま。気付けば僕はその声へと意識を向けていた。
不思議なものだ。今まで聞こえていた声とは違う。なんだか吸い込まれる様な声色だった。聞いていて、自然と心に入ってくる声質だった。
「かなり厄介な病気ってことはわかるんですよね。なんか難しい病名言われて、あー、自分がわかる様な病気じゃないんだなって。
おかしいですよね、聞きなれない病気だからヤバいやつだな、って判断するの。でも、俺頭あんまり良くないからそのくらいしかわからなくて。
国内にドナーがいないって聞いたときはお袋と親父、泣きそうな顔してたんすけどね。でも俺、わかっちゃったんすよ。その時親父、ちょっとだけ
ほっとした顔してて。そっか、ドナー見つかったら今以上のお金、払わないといけないもんなって。いや、それでも親父は俺にすげー色々してくれてるし
俺がこんな状況になってるのを誰よりも悲しんでくれてるのはわかってるんで。特に失望した、とかそんなんじゃないんすよ。
で、その後先生から色々話聞いて、そっか、俺死ぬのかーって漠然としかわからなかったんすよね。なんかいつかそんな感じになるんじゃないかなって
薄っすらはわかってたんですよ。現実味なかったけど。
それに俺、その話を聞く三日前に初めて彼女、出来たんすよね。笑っちゃうでしょ。
一年間ずっと片思いしてたクラスの女の子だったんで、うわーまじかーって。ただこのままにしとく訳にもいかないってくらいはわかってたんで、
その日の夜に電話して別れ話、しました。めっちゃ理由聞かれて、最初は全部正直言っちゃおっかなって思ったんですけど、やっぱダメじゃんって。
それ聞いたら彼女、絶対別れてくれないって思ったんですよね。あの子マジで優しいし。俺が死ぬギリギリまで絶対俺のそばにいるって、
まだ俺もあの子も子供なのに。何が楽しくて大事な人が死ぬのを目の前で見ることあるのかなって」
泣きそうな声ではない。悲しそう、という雰囲気は僅かにあるが、彼の言葉からはそれ以外の感情が強く伝わった。
僕は少し、自分の今の状態を恥ずかしく思い、立ち上がる。僕の動きに彼が言葉を止める、なんてことはしないが、僕は壁へと歩みを進め、
地面に転がっていたパイプ椅子を持ち上げて置きなおし、腰を掛ける。
彼はきっと学生で、そうして僕よりも年下だ。
年下の男の子があんなにはっきりと答えを出し、狼狽えることも泣き叫ぶこともせず、現実を受け止めているのに僕は。
そう思うといたたまれなくなったから。だから僕も、彼の言葉に向き合うことにしようと思った。
「俺、時々しんどいな、とは思うんですけど、どっかが折れたとかそういうんじゃないから結構元気な時って暇なんすよね。
だからいっそ、なんか色々調べてみようかなって思って本とか読みました。
そしたらなんか、死んだあとに元気な臓器とかあったらドナーになれるんですよね。ちょっと嬉しくなったんですよ。ホント。
看護師さんが回ってきてくれた時にその話したら、看護師さん結構辛そうな顔してましたけど、素敵だね。って褒めてくれて。
俺よりもずっとお兄さんだったんすけど、なんか泣きそうな顔しててマジかって思ったんで、励ましてみたりしました。上手く言ってたのかわかんないけど。
あ、で。その日の夜にドナー登録カード? とか言うのを持ってきてくれて、俺それに名前書いたんすよ。
次の日にお袋が見舞いに来た時にその話を伝えました。仕事で少し遅れて来てくれた親父にも同じ話したら、親父少し怒っちゃって。
お前の命をそんなに使い方して欲しくない。とか言ってました。そこから何とか説得して、なんやかんやあったんすけど、最後は納得してくれました。
恥ずかしかったんでこれはお袋にも親父にも言えなかったんですけど、やっと俺、誰かの役に立った気がしたんですよ。その時。
親に迷惑かけて、付き合いたての彼女にも辛い思いさせて。いろんな人に迷惑しかかけてなかった俺が、ようやく生きてて良かったって、
胸張れること出来た気がして。それは今でも、すっげー嬉しいと思ってます」
何故だろう。涙は出なかった。
僕の心が壊れてしまったのか、感覚が鈍くなってしまったのか。 答えは否だ。
彼の言葉に後悔はない。あるのかもしれないけれど、彼はそれをよしとしない。
きっと考えに考えて。苦しんで、悩んで出した答えだろう。諦めという部分もあるだろうが、それ以上に彼は周りの幸せを願っている。
先に終わってしまう自分が、残された誰かに出来ることを考えた末に至った結論。それが彼の言葉には籠っていた。
後ろ向きではない言葉と、少し寂しいなと感じていても、案外あっけらかんと言い切る声。
最初に聞いた老人に似ているな、などと思いながら、僕は彼の言葉を聞き続ける。
「え? 伝えたいこと・・・? あー、そうっすね、お袋と親父には最期に自分の口から伝えたいんで、その・・・
もう伝えられない人に言いたいことを、言ってもいいですかね? いや、恥ずかしーな。まじで。ちょっと部屋出ててくださいよ。
あーあー。
ユウコ。その、ごめんな。本当のこと、言えなくてさ。
俺、告白の時にも言ったんだけど、お前のことほんと好きでさ。一年かかってやって告白して、絶対フラれると思って言ったんだ。
格好つけたくてお前には言ってなかったんだけど、その・・・うん。マジでダメだと思ってた。だからユウコが頷いてくれた時、マジで嬉しくてさ。
泣きそうだったんだよね。で、これからいっぱい思い出作ってさ、多分長くは一緒にいれないだろうから、いっぱい笑って、時々喧嘩とかして、
そんな感じでめっちゃいい思い出作ろうって思ってたのに。ごめん。
なんでってすげー聞いてきた時、ほんとのこと言っちゃおうかなって何回思ったか。
でも、ぽろっと出てこないで良かったってほっとした。
お前の中で俺はきっと、最悪とすら思えない男だとは思うけどさ。俺は最後にお前と付き合えてよかったって思ってる。
三日とかホント短い期間だったけどさ、一緒に学校行ったり、放課後遊びに行ったり出来たし。
俺がこうやって言ってることって、お前には届かないと知ってるから。だから俺のほんとの気持ち、此処に置いてく。
大好きだよ。ありがとう」
言い終わると、青年は部屋の外に出していたのであろう誰かを呼んだ。
相も変わらず澄み切った声で。何の後悔もないと言わん程爽やかな声で。
僕が此処にいる意味はあるのだろうか。
僕がこの声を聴いていたのは、何故なんだろうか。
答えは一切わからない。でも、何かを残したいと思った。この言葉を伝えたいと心の底から願っている。
僕に出来ることはなんだろう。此処にいる意味がわからずとも。誰かの何か、その真意を理解せずとも。
僕は今まで聞かされてきた言葉を、思いを。その断片を形に残す義務があると感じた。
あの青年は言うだろう。誰にも伝えて欲しくないと。
ならば彼女はどうなんだろう。真実を知らずに別れを告げられた青年の彼女は。
言うなれば青年なりの優しさだろうことはわかる。僕でもきっと、彼の立場であれば同じことをするだろう。では、それは優しさなのか。
青年なりの優しさだとして、それは彼女に対しての優しさとイコールなのだろうか。
僕が彼女の立場であれば、それは優しさではないと思う。だって、自分の好きな人との別れだ。ちゃんと最期の最期まで見届けたいと感じるだろう。
その時が来るまで、一分でも一秒でも長く、大好きな人の隣に居たいと感じるだろう。
僕の思いは野暮かもしれない。
僕は優しくないかもしれない。
彼にすれば、僕の行いは悪魔の所業にだって映るだろう。
でも、それでも僕は、彼女に知って欲しいと願っている。
せめて青年がその命を終えるまでに、この想いを彼女に伝えたいと心の底から思った。
青年は自らで選択したが、彼女は選択していない。それはあんまりにもフェアじゃないじゃないか。
此処から出なくてはならない。と思った。此処から出たいと思った。先ほどとは違う意味合いで、逃避としてではなく明確な意味を持って、
この部屋から一刻も早く出なければならない、とそう感じた。
光源のない、それでいてはっきりと見える不思議な白い壁の部屋。
天井には暗闇がぽっかりと口を開き
全てが均等な長さを有した外壁に囲まれた部屋。
中にあるのはパイプ椅子。
そして僕 それ以外は何もない。
定期的な音がして
部屋全体から伝わる声を受ける。
今僕が持つ唯一の情報はこれだけだ。さあ、此処から出る手段を考えよう。
考えて、考えて、一刻も早くここを出て。青年 だけではない。彼らすべての言葉を伝えよう。
意を決して、僕は椅子から立ち上がった。 と、随分とあっけない音がした。錠が落ちた様な音。
今まで何もなく、境目すら見えていなかった白い壁の一角が、不自然に内側に折れ曲がる。すなわちそれは、扉だろう。
まるで針金の様な何か。 それは人の如き形をしていた。
おそらくと言わず 多分と言わず それは人間などではない。
針金は一定の間隔を持って 静かに部屋へとやってくる。
僕は言葉を失った。
僕は希望を失った。
どうしてことここに至って 現状を整理してしまったのだろう。
そんな後悔も虚しく 僕は理解した。
針金の様な何かが手に持っている 白い箱。
天板に穴が開いた 白い箱。
今の今まで聞こえた声の性質。 その状況。
僕が今いる場所の特徴。 その状態。
偶然と呼ぶにはいささか合致する点が多いそれは、 きっと逃げることすらかなわない正解だろう。
なるほど、と。僕は全てを理解した。
お疲れ様です。藤七志です。
今回は、実際に私がついこの間見た夢を元にお話を描いてみました。
具体的な部分は大きく色を乗せていますが、
話の流れ自体は同じもので物語を組んでみました。
これをお読みいただき、何か思うところがあればよいなーなんて、
ざっくりそんなことを考えています。
不定期の更新とはなりますが、またご縁がありましたら、
他のお話もお読みいただければ幸いです。