第57話 「魔女の劇場」02
――バシン!
廊下に響いたのは正人が定家の頬を平手打ちした音だった。しかし叩かれた定家は挑発的な笑みを一切崩さず、それがなおさら正人の怒りに油を注いだ。
自分自身に向けられている嫌悪的怒りと、定家に対する悔しさでぐちゃぐちゃになっているのが、正人の表情からうかがえた。
定家は余裕の笑みを一切崩さず、ぐっと顔を近づけた。
「なぁに? 正人はお姫様が不満なの?」
優しく、とびきり優しく定家は正人に問いかけた。
その眼差しは深淵のようで、正人は喉の奥を引きつらせた。
「弱くたっていーじゃん。正人はふつーの人間なんだし。守られてることは決して恥じゃないって」
正人の顔が怒りで赤く染まる。
定家の胸ぐらを掴み額をぶつける勢いで顔を寄せて睨み付けた。
「俺はお前の楔だぞ!」
「だから俺が守るからいいんだって」
正人は血の滲んだ定家の脇腹をつかみ、指先に力を入れる。さすがに痛かったのか、定家はかすかに顔の右を歪めた。
「お前はッ! 自己満足で死んでもいいと思ったのか!? そんなことをして俺が喜ぶとでも思ったのか?!」
正人は自分を守って出来たその傷が忌々しくて仕方がなかった。
しかし叫ぶ正人に対してきょとん、とした定家が不思議そうに言葉をこぼした。
「死なねーよ? だって俺強いもん」
一瞬、怒りもなにもすべてどこかへ行ってしまうかと思うくらい、定家は当然のように語る。
「それにあのときは月乃が絶対黒い糸車は壊してくれるのわかってたし、髪で刺されたくらいじゃ死なないもん」
ケロッと笑いながら答える定家に、正人の顔が真っ赤に染まる。歯を食いしばり、握ったこぶしをブルブルと震えさせて振りかぶった。
「正人、やめろ」
クラウディオは正人の腕を掴み、殴りかかろうとするのを止める。
このまま放っておけば更に八つ当たり的に暴力を振るいかねない正人を、クラウディオは定家から引き離した。正人の手足が定家に届かないほど下がったところで定家を見据える。
そんな状況でも飄々とした笑みを浮かべている定家の神経が信じられなかった。
「じゃあさ、どうなりたいの? ふたりともさぁ」
挑発するように定家は両手を広げ、大げさなジェスチャーで問いかける。ゲームで試練を与えるトリックスターのような仕草。
定家の考えは読めない。
手を変え品を変え、翻弄してくるこの男にかける言葉はただひとつだった。
「……なる」
「なんて?」
「強くなる。月乃に寄り添えるくらい」
クラウディオはただそれだけを口にする。正人もその言葉に反応し、声を荒げた。
「魔女の側にいられるくらい強くなってやる! 姫なんて言わせないからな!」
その言葉を聞いて定家は「待ってました」と言わんばかりに口元の笑みを深めた。人の感情を逆立てて、荒げて楽しむ――まるで悪魔か邪神のを思わせる笑みだ。見る者によっては邪悪で、またある者にとっては無邪気に映っただろう。
「じゃあさ、ふたりとも俺と賭けしようよ」
「賭け?」
パン、と手を叩き、お遊戯を始める保育士の仕草をしてみせた。
急に何を言い出すのかと思うが、定家の言葉をふたりは黙って待つ。
「ふたりには俺が与える課題をクリアしてもらうね。それが出来なかったら、そうだなぁ……」
定家はもったいぶるように考えるポーズを取る。正人は苛立ちを募らせた。クラウディオも見え透いた挑発であるとわかっているというのに拳に力が入るくらい腹が立つ。
定家という男は人の神経を逆なでて、触れられたくないところを無遠慮に的確に撫で回す、逆鱗探しの天才なのだ。
ふたりの苛立ちが増したタイミングでにんまりと笑いながら定家は指を鳴らしてふたりに指を向けた。
「クラウディオは『図書館』の管理下に置かれる『魔道書』になる、正人は『図書館』を辞職するでどうかな?」
チョコレートケーキかチーズタルトを選ばせる気軽さで定家はとんでもないことを言い出した。
クラウディオが「図書館」の管理下に置かれると言うことは月乃の庇護を失うことになる。先日の査問会での出来事を考えれば、確実に人として扱われなくなるということだ。
――実験、研究。
生きたまま封印されるか、もしかしたら文字通り「処分」される可能性だってある。
そして正人が「図書館」を辞めるということは記憶処理を行い、一般人に戻ることだろう。しかしチャームの呪いがそのまま残っているならば、まともな生活は送れまい。定家の庇護の下、軟禁状態にされるに違いないだろう。
そんなお互い重いペナルティを一ピースのケーキと同じ重さで提示してくる。その異常さにぞっとする。
定家を見る正人の表情は引きつり、クラウディオは下まぶたに力が入る。しかし定家は相変わらず楽しげに笑って肩をすくめてみせた。
「やっぱり無理? まあ、それならそれで仕方ないからいいよ?」
クス、と笑う表情は月乃と似ていたが、あまりにも憎々しい。「強くなるなんて無理だよね」「だって所詮、守られる側だもんね」とでも言わんばかりである。
クラウディオにも正人にも、そうとしか読み取れない表情をしていた。
ぶち、とふたりの中で我慢の緒が切れた。
「上等だ、乗ってやる」
クラウディオは表情こそ大きく変わらないが米神に青筋が浮かび、声は低く地を這う。気弱な者が見ればおそらく失禁し、泣いて許しを請うであろう恐ろしさが滲み出ている。
そして正人はクラウディオの地を這う声を聞いて臆せず――むしろ同調しながら声を荒げた。
「絶対強くなって見返してやるからな!?」
正人は完全に頭に血を上らせて掴みかからんばかりに吠える。怒りの感情を爆発させた姿は普段の彼からは想像がつかない。
「賭けと言うからにはお前にも相応の覚悟をしてもらうからな……!!」
下から睨みつけてくる正人に、定家は満足した風に歯を見せながら笑った。
本日もう一話投稿いたします!




