第55話 「眠り姫と満月」06
「あっ、ぶねっ!!」
「ぐっ!」
正人の脇腹を抉ろうとした髪の先が空を切る。定家が正人の首根っこを掴み後ろに放り投げたおかげで回避できたのだ。しかしそのせいで定家は次の回避行動を取れる姿勢にない。
定家が足を踏み出そうとする方向には黒い糸紡ぎと髪の束が待ち構えていた。
「定家ぇっ!」
月乃の叫び声と同時に槍が投擲される。一切のずれもなく、月乃の槍は糸紡ぎの真芯を捕らえて砕く。月乃の投擲のおかげで定家は黒い糸紡ぎを喰らうことはなかったが、脇腹を髪に抉られた。
そして月乃は今武器もなく「魔道書」による身体能力の底上げもない状態になってしまっている。そこを狙われないはずがなかった。いくつもの髪と、金と銀の糸紡ぎが月乃目がけてうなりを上げる。
クラウディオは重くかさばる湾曲剣を放り出し、凜音に向かってかけだした。
「うおぉおおぉぉッ!!」
響き渡る咆哮をあげ凜音に向かってクラウディオは突進をする。その巨躯が本体に迫る状況には髪も糸紡ぎも一斉に向きを変え、本体である凜音のからだを守ろうとしている。一本残らずクラウディオに殺意となって襲いかかってきた。
幸いなことに黒い糸紡ぎはまだない。
クラウディオは急所を守りながら凜音に突っ込んだ。
「クラウディオ!」
月乃の悲鳴じみた声が部屋に響いた。
クラウディオは凜音のからだを両手で壁に縫い付ける。その額には鬼の角が生えていた。
「燃えろ!」
その叫びと同時に背中から青い炎が吹き出した。炎は凜音の黒髪を一気に焼く。
しかし髪は一気に伸び鋭くより上げられ、糸紡ぎもが現れた。
ここで手を離せば黒い糸巻きは今無防備な月乃に向けられかねない。クラウディオはそう思った。
「クラウディオ! 避けて!!」
月乃の声が背中に刺さる。
クラウディオは死を覚悟してなお、その手に力を込めた。
――絶対に、守る……!
クラウディオの視界に一瞬、玉虫色の膜が目に入った。
「クラウディオ! 槍だ! 受け取れ!」
定家の叫びで後ろに飛び退く。それと同時に薄い硝子が割れる音がして髪がはじかれた。
――コカトリスの、障壁……?!
初めて「魔道書」の怪物に襲われたとき、自分と月乃を守った障壁に、クラウディオは再び守られる。そして定家は器用に足を使い月乃の投擲した槍をクラウディオに蹴り投げた。
槍を受け止め、攻撃をいなしながら後退する。定家は湾曲剣を蹴り、月乃に向かって滑らせた。月乃が剣を拾ったのを確認してクラウディオは安心したのだった。
しかしクラウディオの服は破れ、あちこちから血が流れている。それでもクラウディオは呼吸を整えて次の攻撃に備えた。
そして再び糸紡ぎに髪が巻かれ、一斉に向かってくる。
正人が飛び出し、ふた振りの刀を鋏のように重ねて一気に切り落とした。
「すまない、助かった」
冷静さを装いつつクラウディオを一瞥した正人は凜音を見据え、迎撃準備に全員が身構える――が、先端が間合いに入った直後、動きを止めた。
そのまま髪は落ち、糸紡ぎは消え、凜音はその場に倒れる。
沈黙が訪れ、静寂のあまり鼓膜に己の拍動がうるさく感じるほどだった。
月が沈んだのだ。
月乃が湾曲剣を支えに膝をつく。月は消え、朝焼けを迎えようとしていた。
ようやくこの日の満月が終わったと、全員がからだから力を抜いたのだった。
正人が動きを止めた凜音に駆け寄り、大まかにチェックをする。つややかな黒髪はざんばらに、白いワンピースはあちこち汚れ一部が焦げてしまっていた。幸い肌に汚れがついていたものの外傷はない。
正人はほっと胸をなで下ろし「無事だ」と三人に告げた。
定家は安心し盛大にため息をつく。
「はぁ~……ダイヤモンドだから大事にしてって言ったじゃん~。無茶しちゃってさぁ」
定家は抉られた脇腹を押さえながら巨大斧を黒い石にしてツールバックに放り込む。けして浅い傷ではないというのに「指先を紙で切った」ような表情だ。
傷だらけのクラウディオを見る表情もいつもとそう変わらない。
「無茶はどっちだ」
ボロボロになった服の隙間から見えるのは傷から血を流す肌。月乃が心配そうな表情でクラウディオを見上げる。
「クラウディオ、結構喰らってましたが……」
「大丈夫だ。見た目ほど大したことはない」
視界が赤くなり、額に触れると切られていたことに気付く。
傷口をごしごしと拭うクラウディオに、月乃は少しほっとした様子だった。
正人は横たわる凜音を抱き上げ、いつもの寝台に寝かせる。戦いの中で乱雑に切られた髪を痛ましそうに触れた。
そして正人は定家に捕まれた首根っこを押さえ、下唇を噛んで眉間にしわを寄せている。悔しそうな、口惜しそうな横顔で指先に力を込めている。
「部屋を出て手当てをしてから報告をしましょう。医療班の方を呼んできます」
「月乃、俺も行く」
正人が慌てて月乃を呼び止めた。無傷なのは月乃と正人である。しかし月乃は指を下に向け、正人の申し出を断った。
「正人くんは休んでいてください。からだはともかく、気持ちが落ち着いていないでしょう?」
正人の動揺を見逃さなかったらしい月乃が眉をつり上げてまっすぐ睨むように言った。珍しい月乃の表情に正人はたじろぐ。
月乃が扉を開き、そのままパタパタと小走りで駆けていった。
残る男達三人はゆっくりと扉をくぐる。
三人以外誰もいなくなった廊下で、定家はふひゅう、と息を吐きやや大げさに首を動かしてから満面の笑みを浮かべてクラウディオを見た。
「今夜は誰か死んでたかもしれないね」
そのあまりにも明るい声と子ども向けの番組に出てくるダンサーのような笑顔が、飛び出た言葉とあまりにも落差があった。クラウディオはぎくりと、隣で聞いていた正人もぎょっとしながら定家を見る。
「そ・れ・と」
指をリズミカルに振る定家は、まるで子どもに言い聞かせるような雰囲気だ。碧玉の眼差しは細められ、不気味なほど優しい表情を作っている。
「今のクラウディに月乃の楔は無理だわ」




