第44話 「歪んだ愉しみ」03
日が暮れ始め、夕日の朱色とかすかに光の残る夜のラベンダーの色が空で混ざる。昏い海になりつつある海面が、ぞわぞわと肌をざわめかせる寒気を孕みだした。
すでに「図書館」の手配により封鎖された浜辺で、屈伸をする定家。月乃はツールバッグから触媒を取り出した。
二人はほぼ同時に腰に帯びた「魔道書」を掲げ、二重の呪文を唱え始める。
『彼の臨在を示し運命に乗る者、恵み潤し豊穣をもたらす者、混沌と戦いし者。
力と恐怖の頭を持つ者、皇帝の自由を背に持つ者、色欲の尾を持つ者。宿れ、バアル、パズズ』
『美しき権力と富の姿のもの、幸福を運ぶに化けるもの、豊かさと恵みを髪に飾るもの。従い給え、アハ・イシュケ』
定家の篭手と脛当に光が宿る。それが形を変えその両腕と両脚を覆い、定家の体が宙に浮いた。帯電しているのか、バチバチと音を立てその髪が逆立っている。
月乃の傍らには泡だった波の色をした馬が佇んでいた。尾は魚のようで、馬体にも所々鱗が見られる。しっとりとしたたてがみは豊かだ。鐙と手綱もつけられている。
「クラウディオ、行きますわよ」
アハ・イシュケに跨がる月乃が手綱を握りながらクラウディオを振り返る。クラウディオは少し考えてから上着を脱ぎ、腰に巻き付ける。もう慣れたもので、背中にコウモリの翼を生やして羽ばたいた。
「んじゃ、いっきますよぉ」
定家が先導し、月乃は海面をアハ・イシュケの腹を蹴って走らせ、クラウディオは月乃の側を飛ぶ。三人は報告にあったポイントを回る。
徐々に暗くなっていく海は視界が悪い。
「定家」
月乃が肘から上を回して合図をすると、定家が一時停止して篭手を強くぶつけ合う。すると火花がはじけてそこから光球が浮かび上がった。定家が月乃とクラウディオの方を指し、くるくると指で円を描けばふたりの周りに光球が漂い周囲を照らす。
するとどうだろう。
光球で明るくなった海中に強大な影が見えた。
「月乃! 海中にいるぞ!」
クラウディオの叫びと同時に海面が隆起する。アハ・イシュケがいななき、月乃は馬体を蹴って身を翻させて退避した。
クラウディオは月乃を守るように前に出、定家はさらに高く飛び上がり隆起するそれを見下ろす。
そこから現れたのは報告の通り、半人半魚の巨大な化け物の姿だった。
生臭さをまとい、鱗とひれで覆われたからだを持ち、その指の間には水かきがある。魚類特有の唇とその間から見える細かい牙。ぎょろりとしたまぶたのない目はぎょろぎょろとあたりを見渡している。
小さな山か、鯨ほどもあるその巨体はそれだけで脅威だ。
月乃はダゴンを目視した途端、「魔道書」を取り出し金貨を海中に放り投げる。そしてクラーケンを呼び出す呪文を唱えた。
「捕らえます!」
海中から巨大な触手がダゴンめがけて飛び出す。以前見たものより遙かに太く大きなそれらはダゴンに絡みついた。
耳障りな海獣に似た鳴き声を上げるダゴンの力は強く、海面を激しく揺らしながら暴れる。そこへ閃光が走った。ダゴンの胴の鱗がはげ、魚臭さを含んだ肉が焼ける臭いがする。
「結構タフじゃん? 肉抉ったつもりなのにさぁ!」
定家はその手に鱗を持ち、それをバラバラと海に捨てて見せる。
閃光の主は定家だった。
その挑発に乗ったのか、それとも攻撃されたことによる怒りか、クラーケンに押さえつけられながらも鋭い爪を振り回す。
「おー、すごいすごい! クラーケンに捕まりながらこれだけ動けるってパワーあんね!」
定家はその爪も挑発と軽口を叩きながら回避する。弾丸が跳弾するように人間にはあり得ない角度と速度で飛ぶ。かと思えば、慣性の法則を無視したフェイント混じりの変則的な加速と減速でダゴンを混乱させた。
月乃はクラーケンを動かし、ダゴンの首を締め上げる。肺呼吸であるかもわからないが、首を折られれば無事ではいられまい。
抵抗するダゴンが爪で首に巻き付くクラーケンをひっかき、引き剥がそうとするところに定家が飛び出す。からだを車輪のように回転させながらダゴンの目と目の間めがけて踵を振り下ろす。
「魔道書」によって底上げされた力と、その持ち前のセンスによって凶悪な威力を生み出した一撃に、ダゴンは響き渡る絶叫をあげた。
「くっ!」
怪音波と言って差し支えないそれが、三人の耳を貫く。不快で不気味なそれは海を揺さぶった。
まぶたのない目が激しく動き、いやな気配があたりに漂う。クラウディオはダゴンの叫びととは別の、海底深くから恐ろしいスピードで海上めがけて移動する「何か」を察知した。
海中から気配が近づいてきたことに、クラウディオは叫ぶ。
「月乃! それから離れろ!!」
「ッ!?」
月乃はアハ・イシュケの手綱から手を離し、それとほぼ同時に馬上から消える。その直後、アハ・イシュケは「それら」に貫かれてからだをチーズのように穴だらけにされてしまった。
「な……!」
ぎらりと光る銀の弾丸――ではなく銀の鱗を持つ魚。
それらは巨大な群れを作り、まるでそれだけで一種の巨大な生き物のようであった。




