第19話 「監査官の男」04
正人はようやく止まったクラウディオを見て、呼吸を吐き出した。時間にすれば長くはなかったものの、あまりにもすさまじい攻防に瞬きも充分な呼吸も出来なかった。
肩を大きく動かして酸素を取り込む。
乱れた髪をかき上げ、正人は構えをといた。
しかし次の瞬間、クラウディオのからだを捕らえていた氷が音を立てて割れて弾けた。その一瞬で正人のからだはクラウディオの丸太のような腕に捕らえられていた。
「クッ!」
「ああ、やっと捕まえた……」
腕ごと抱きしめられて足が地面から離れた正人を、クラウディオは情欲の籠もった熱い目で見つめる。背筋をなぞるその太い指にゾワリとしたものが走った。
「細いが、しっかりとした筋肉がついたからだをしているんだな……存外硬い」
「はな、せ!」
「離したら逃げてしまうだろう……?」
クラウディオは正人の様子に目をうっとりと細める。
可愛らしい抵抗に、クラウディオは胸が高ぶった。
「今は応えてくれずとも構わない。ただ、受け入れてほしい……お前が欲しいんだ」
厚めの唇が正人のそれに近づく。
いくら男であっても規格外のクラウディオ相手に刀を奮えないのであればか弱い子どもと変わりない。
正人はぐっと唇を結んだ。
視界の端で金のコインが光った。
『在りし日は富であったもの、裏切りと誘惑を冠するもの、母なる海にて暴虐を成すもの、力を示したまえ。大海魔クラーケン』
二重に音が重なった呪文が聞こえたと思った瞬間、ふたりのからだは巨大な触手に飲まれる。
その太く、筋繊維のみでできあがっていると言っても過言ではないその触手がふたりのからだを拘束した。
「ま、まにあった……」
「月乃!」
そこには地面に這いつくばりながら「魔道書」を構える月乃がいた。
どうやら赤子のようにずり這いをしてきたらしい。ぶるぶると「魔道書」を構える手を震えさせる彼女に正人はようやく安心できた。
「助かった。月乃、早くチャームの解除を……」
「あう」
クラーケンに絡め取られた正人がずり落ちそうな眼鏡をかろうじて顔にとどめていると、月乃がべしゃ、と地面に突っ伏した。
「え」
「ごめん、むり、力はいら、ない……『魔道書』とりにいって、体力、尽き、た……」
月乃はもう顔を上げることも出来ないのかブルブルと手を震えさせて伏せている。背中が激しく上下している辺り必死に呼吸しているようだ。
「月乃! おい、月乃!」
必死に叫ぶ正人のからだをクラーケンが這いずり回った。すでに刀は手を離れ地面に転がっている。
クラーケンの力は人間の腕力ではどうにもならない。耳を、首筋を這い回り、ズボンの裾から触手が入ってくる。ぬめる感触のそれが肌を這うのだ。
クラウディオのからだにもクラーケンは這い回り、ぬたぬたとその肌に吸い付いた。筋肉と筋肉の境目を撫でるように動くそれに、クラウディオも思わず声を上げる。
「月乃! 月乃頼む起きてくれ! 月乃ーッ!!」
正人の叫びも虚しく、月乃がクラウディオのチャームを解除するまでふたりはクラーケンにからだを這い回られることとなった。
かかった時間はおおよそ一時間。
その間クラウディオも正人も小高い丘に悲痛な叫びを響かせる羽目になる。
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「それで……今回の調査は終わりにする……」
「ああ、色々すまなかった……」
「いや、こちらこそ乱暴な方法をとって申し訳なかった……」
ぐったりとした正人とクラウディオが、お互い気まずそうな表情でうつむいている。月乃も少々申し訳なさそうな顔をしてしていた。なんとも言い難い空気が流れる中、クラウディオの中にあった正人への好意がきれいさっぱり消えているのを改めて確認する。
――チャーム……なんて恐ろしい……
無理矢理高められた恋心であんなにも暴走するとはクラウディオも思っていなかった。正人もあそこまで強烈に効くと思わなかったのだろう。正人が抵抗しなかったら今頃どうなっていたことか……
クラウディオは罪悪感で胸が痛んだ。
そもそもチャームの解除が可能なのが月乃であるのに立ち上がれなくなるほど運動させてしまったことが敗因である。
クラウディオも正人も己の過失にしばし沈黙していた。
「そういえば正人くん、『陰の書』と『陽の書』は『原本』にしてかまわない?」
月乃はわくわくした目を正人に向けていた。それはもう、先ほどまでの惨状などすっかり忘れたと言わんばかりの表情で。
「ああいう『原本』は初めてだから早くしたいの。いいでしょ?」
「……せめて明日にしてくれ」
月乃の体力が尽きてまた厄介なことが起きるのは避けたいと正人は考えた。今日はよくよく休んでもらい、自分の監視の目のあるところで「原本」化をしてもらい、「図書館」へ報告するのが良いだろう。何せ『陰の書』も『陽の書』も月乃の支配下にあるのだから。
「それじゃあ正人くん、今夜は泊まっていく?」
「いや、今日はホテルをとっているからまた明日来る」
「そう、わかった」
そう言って正人は席を立ち、月乃とクラウディオに挨拶をして帰って行った。
彼のうなじや足首に吸盤の痕が見えたことを、クラウディオは黙っておく。
正人が帰ったのは空が夕陽で色を変えた頃である。
「はぁ、お疲れ様。クラウディオ、ご飯の準備しましょうか?」
「ああ、わかった」
なんとも慌ただしい一日の終わりが、ようやく見えた頃だった。




